リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 主に送り出される(使徒言行録 13章)
    彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。
    (使徒言行録13章2節~3節)
    信仰者は主を礼拝するために集まっています。アンティオキアの教会では、そのとき、断食もしていました。神の御心を求めて熱心に祈っています。そうすると、明確な神の導きがありました。
    私たちもしばしば神の御心を求めて祈ります。私たちが祈るとき、まだ神の御心が隠されていることが多いでしょう。きょうの御言葉のように、明確な語りかけを聞くほうが珍しいことです。しかし、私たちに神の御心が隠されているということは、神の計画が定まっていないことを意味しません。むしろ、神は前もって私たちのために計画を立てておられます。その計画はもしかしたら、私たちの望むこととは違うかもしれません。
    だから、私たちは熱心に神の御心を求めて祈ります。神の御心とはすなわち、私たち一人ひとりにとっての最善の計画だからです。神の最善の計画に素直に従っていくために、日頃の祈り、日頃の心備えが必要です。
    神の導きは確かです。神が導かれるときには神の御業が起こります。困難に見舞われても、主の御業が必ず成し遂げられるのです。
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  • 新しい命をくださる主イエス(ルカによる福音書 8章26-39節)
    「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
    (ルカによる福音書8章39節)
    ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ地方に悪霊に取りつかれた男の人がいました。この人に取りついていたのは、「軍団」という意味の名を持つ、「レギオン」という複数の悪霊でした。この悪霊のゆえに、彼は衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていました。
    人にとって、家は、安全、休息、慰め、教育など、多くの意味を持つ場所です。そして、何より家は生きている人が留まるところです。ところが、悪霊に取りつかれた人は墓場に住んでいました。彼は、肉体は生きていましたが、一人の人格としては生きた存在ではなかったのでしょう。
    彼に会うために、主イエスはガリラヤ湖を渡りました。彼に取りついていた悪霊を御言葉によって追い出され、彼を自分の家に帰らせました。彼は主イエスによって新しい命をいただき、まことに生きる存在になりました。
    私たちにも新しい命を与えるため、主イエスはこの世に来てくださいました。この主イエスに心から感謝しましょう。そして、立ち上がって、主が私にしてくださったことをことごとく町中に言い広めましょう。
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  • 神を捜し求め、渇き求める(詩編 63編)
    神よ、あなたはわたしの神。
    わたしはあなたを捜し求め
    わたしの魂はあなたを渇き求めます。
    あなたを待って、わたしのからだは
    乾ききった大地のように衰え
    水のない地のように渇き果てています。
    (詩編63編2節)
    この詩は捕囚の歌、イスラエルの人びとが、捕囚としてバビロンの地へ曳かれ、その地で詠んだ歌と言われています。
    一言で「信仰」と言いますが、私たちは何を求めて信仰生活をしているのでしょうか。絶対的平安を求めて、また、豊かな愛の心と生活を求めてという方もおられるでしょう。しかし、心を静め、改めて考えてみますと、求めているものは、神ご自身ではないでしょうか。詩人が求めているのは、神ご自身なのです。
    これは捕囚の歌だと記しました。ところが、この詩人は捕囚からの解放、エルサレムへの帰還を願い出ず、捕囚のバビロンの地で神が共にいましたまうことを願い求めたのです。バビロンの地は、イスラエルの地と比較して、はるかに文化的に進んでおり、また豊かでした。しかし、如何にそうであろうとも、神が共にいましたまわなければ、そこは御国ではなく、長く安らぐ場所ではありません。そして反対に、苦しみや悲しみの捕囚の地であろうとも、そこに神が共にいましたまうならば、そこは御国となるのです。
    だからこの詩人は何よりも、神が共にいてくださることを切に願い求めたのです。
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  • わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう(詩編 62編)
    わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
    神にわたしの救いはある。
    神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
    わたしは決して動揺しない。(詩編62:2-3)
    (詩編62編2節~3節)
    「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」という言葉は、6節にもあります。口語訳では「わが魂はもだしてただ神をまつ」となっています。神の御支配、神の御業をただジッと待つというような、思いを鎮め、ただ思いを神に向けるというような静的な姿勢ではありません。思いを激しく神に向け、神が実現してくださることを見届けるという熱い思いで神の御業を待っている姿勢です。
    こうした思いで、期待しながら待っている出来事は、私たち人間が考えるようなものではなく、「こんなことが、起こり得るのか」と驚くような、徹底的に神の観点に基づく出来事です。この詩人は、それがなされることを信じ、見つめて待っているのです。
    詩人は、こうした熱い思いで神の御業を待ち望んでいます。ですから、「沈黙して、ただ神に向かう」という言葉に続けて、「神にわたしの救いはある(口語訳では、わが救は神から来る)」と、歌い上げることができました。
    私たちにはできないことも、神はおできになるのです。この信仰を抱いて、しっかりと生きていきましょう!
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  • 地の果てから神を呼ぶ(詩編 61編)
    心が挫けるとき
    地の果てからあなたを呼びます。
    高くそびえる岩山の上に
    わたしを導いてください。
    あなたは常にわたしの避けどころ
    敵に対する力強い塔となってくださいます。
    (詩編61編3節~4節)
    3節に「地の果てから」とありますから、この詩編はエルサレムから遠く離れた所から叫ばれた祈りの歌です。「エルサレム」には、神の都、神の平安という意味がありますから、ここには、神の平安・慈しみから遙かに遠い所という意味も込められています。
    この詩人は、その地の果てから、「高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください」と、神を呼んでいます。岩山は高くそびえ、彼がいる場所は「地の果て」ですが、確信をもって神へと呼び掛けます。それは詩人が、地の果てからでもイスラエルを何度も救い出してくださった神を深く知っているからです。
    マルタとマリアが愛していたラザロが病のとき、主イエスの到着が間に合わず、ラザロは死にました。命あるうちに来てくださっていたらと嘆く二人に、主イエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とお叱りになり、ラザロをよみがえらせました。
    主イエスは、私たちがいかなる状況の中にいようとも、そこでもなお力強く生きていける、喜びに満ちた人生を約束してくださっています。
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  • 弱く罪深い者が、神の尊い器とされて(詩編 60編)
    神は聖所から宣言された。
    「…ギレアドはわたしのもの
    マナセもわたしのもの
    エフライムはわたしの頭の兜
    ユダはわたしの采配」(詩編60:8-9)
    (詩編60編8節~9節)
    この詩編は、8~10節の中央部とその前後の部分から成り立ち、中央部の前後の部分では、嘆きと願いが神に訴えられており、中央部は、預言者が語ったと思われる神の言葉が語られています。
    10節に、モアブ、エドム、ペリシテとあります。歴史的にイスラエルは、これらの国々にいつも悩まされていた弱小の国でした。そのイスラエルに対して、神は、わたしの頭の兜であり、采配(指揮のための用具)であるとまで言ってくださっています。
    イスラエルのみならず、私たちも本当に弱く、罪深い者です。しかし、本日の御言葉を聴くとき、私たちもまた、神によって、神の兜、采配とされていることを、深く自覚したいものです。教会の中には、真に真摯な方がおられ、自分の弱さ、罪深さを覚え、そのことにいつまでも悲しみ、苦しんでいる方もおられます。勿論、自らの弱さ、罪深さを深く知ることは重要であり、必須です。なぜなら、それを知ることなしに救いに与ることはできないからです。しかし、その一方で、そうした自分が神から赦されており、神の尊い器とされていることも、深く知らなければならないのです。
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  • 真に頼るべきお方(詩編 59編)
    御覧ください、主よ
    …
    罪もなく過ちもなく
    悪事をはたらいたこともないわたしを
    打ち破ろうとして身構えています。
    目覚めてわたしに向かい、御覧ください。
    (詩編59編4節~5節)
    この詩人は、神に切々と訴えています。自分は、罪もなく悪事を働いたこともないのに、力ある者がわたしの命を狙って待ち伏せ、争いを仕掛けて来る、と。「御覧ください、主よ…目覚めてわたしに向かい、御覧ください」。こう神に願う言葉からは、人びとから差し向けられる剣のように鋭く、嘲笑う攻撃的な言葉でひどく傷ついている詩人の深い孤独感が伝わります。人びととの絆に生きる者にとって、つらく苦しかったであろうと思います。
    しかし、孤独になればなるほど、人間は神に近づくことができるのです。私たち人間は、自分の力や人など、この世のものに頼れる間は、なかなか神に頼ろうとしません。主イエスが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのはこのことです。
    この詩人は、皆から理由もなく責められ、どこにも助けがなくなったとき、主なる神に「目覚めてわたしに向かい、御覧ください」と訴えることができました。孤独を恐れて、この世のものに頼るのではなく、神に向かい、神が共にいましたもう、主にある大きな喜びを深く知りましょう。
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  • 不義を裁く神の眼差しは(詩編 58編)
    神に従う人はこの報復を見て喜び
    神に逆らう者の血で足を洗うであろう。
    人は言う。
    「神に従う人は必ず実を結ぶ。
    神はいます。
    神はこの地を裁かれる。」
    (詩編58編11節~12節)
    この詩人は、この世の裁きの不正さを告発します。不正な者たちは、たとえ民がどれほど叫んでも、耳の聞こえないコブラのように民の声には耳を貸すことなく、自分の思いのままに振る舞い、自分の意に反する者には、毒蛇のように襲いかかって、叩きのめして、自分ばかりを立派に立たせていきます。
    しかし、不正はやがて神によって裁かれ、葬られます。神の秩序、神の御心が歴史を支配していることを人びとは知るようになります。だから、不正な者に対する裁きは神に委ね、私たちは神の前に謙遜に正しく生きていくことが大事である、とこの詩編は教えています。
    にもかかわらず、エゼキエル書には「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、…彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」とあります(18章23節)。主イエスは、「わたしが来たのは…罪人を招くためである」と言われます。新約に生きる私たちは自らも罪人であることと、神が十字架に示された愛を覚え、罪人が裁かれるより、神に立ち帰るよう、祈る者とされたいと強く願います。
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  • 三位一体の神(ヨハネによる福音書 16章12-15節)
    「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)
    (ヨハネによる福音書16章13節)
    キリスト教の中心的な教理である三位一体について多くの人が知りたがります。それが理解できればキリスト教を信じますと言う人もいます。しかし、主イエスに神と神の国について約3年間教えてもらった十二弟子でさえ、その教えを完全には理解できませんでした(12節)。なぜなら、神と神の国、すなわち真理は人間の知恵や力では理解できない、ただ聖霊によらなければ正しく知ることができないからです。
    真理の霊は、主イエスの約束どおりこの世に来られました(使2章)。そして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださいます(ルカ11章13節)。
    御子イエス・キリストが父なる神の御心に従順であられ、父のみに栄光を帰したように、聖霊は人びとに御子イエス・キリストを告げ、主イエスに栄光を与えます。神の御子イエス・キリストを通して実現した救いの真理を、聖霊が私たちに悟らせ、私たちの救いを完成させます。
    日々、この三位一体の神秘を悟らせてくださった主をほめたたえながら、聖霊の導きに従って真理の道を歩んで参りましょう。
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  • 神の言葉はますます栄え(使徒言行録 12章)
    ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。…
    神の言葉はますます栄え、広がって行った。
    (使徒言行録12章5節、24節)
    ヘロデ大王の孫、ヘロデ・アグリッパ一世は、ローマ皇帝に取り入って王位を得、さらに支配民の歓心を買おうとして教会を迫害しました。こうして、使徒ヤコブは殉教します。この物語は、ヘロデが神の栄光を自らのものとして、神の裁きによって絶たれたことで結ばれます。
    かつて、ヤコブとヨハネは、主イエスに、右大臣左大臣の地位を願い出ました(マコ10章37節)。使徒ヤコブは最初の殉教者となることで主の栄光をあらわし、願いにまさる光栄を得たのです。
    ヘロデは、迫害を喜ぶユダヤ人を見て、使徒ペトロにも手を掛け、投獄します。教会は、ペトロのために熱心に祈りました。ペトロは、奇跡的に助けられます。ところが、祈っている教会は、この現実を信じられませんでした。彼らは、ペトロが立派に殉教するようにと祈っていたからなのでしょうか。
    祈りは、しばしば私どもの思いにまさってかなえられます。なぜなら、迫害者が倒されるのもそうでないのも、殉教するのもしないのも、ただ神の栄光のため、神の言葉を栄えさせ、広げる目的によるものだからです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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