リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 御翼の陰に(詩編 57編)
    憐れんでください
    神よ、わたしを憐れんでください。
    わたしの魂はあなたを避けどころとし
    災いの過ぎ去るまで
    あなたの翼の陰を避けどころとします。
    (詩編57編2節)
    57編は表題(1節)から分かるように、ダビデがサウルの追跡の手を逃れて洞窟に潜んでいたときの詩です。そこに、サウルがやってきました。詩人は追い詰められてどこにも救いを見いだせず、神に頼る以外になくなった状態に置かれています。そのとき、詩人は神の憐れみを求めます。
    新改訳聖書は「御翼の陰に」と表現しています。雛が親鳥の翼の陰に身を潜めるように、詩人は神の憐れみを求めて神を避けどころとします。神を呼び求める者には、何事も成し遂げてくださる神がおられます。
    また、詩人は「災いの過ぎ去るまで」と言います。この危機がいつまで続くのか分からない中で、祈りに応えて神が救ってくださるとの確信が与えられます。洞窟の暗闇の中で、曙の光を求めるようにです。「わたしは心を確かにします」(8節)と告白して、光の中で神の憐れみを確信します。
    心を神に支えていただき、確かにしていただき、神に祈り求め、感謝するとき、神は確かに聞いてくださり、苦難の中から逃れる道を備えてくださいます。
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  • 神に依り頼めば恐れなし(詩編 56編)
    神の御言葉を賛美します。
    主の御言葉を賛美します。
    神に依り頼めば恐れはありません。
    人間がわたしに何をなしえましょう。
    (詩編56編11節~12節)
    56編の表題から、ダビデがサウルの手を逃れてペリシテの敵陣に入り込んで、捕えられて殺されそうになったときの詩であるとわかります。サウルとペリシテ人という二つの敵に囲まれたとき、詩人は神に憐れみを願い、依り頼みます。この状況から逃れるには神に頼る以外にはありません。神はこの苦難をご存じです。状況は敵に囲まれていたとしても、神はわたしを見捨てられないと信じるとき、人は安心感を得て、神を賛美します。
    詩人は涙を流しながら、「神よ、わたしを憐れんでください」と祈ります。状況は敵に取り囲まれていますが、それは、ただ敵の攻撃から救い出してくださいとの祈りではないでしょう。彼は、心の奥底で、人を恐れてしまう自分、神に依り頼めない自分がいることを知って、自分の魂の救いを願うのです。
    そのとき、彼は神を呼び求めます。目には見えなくとも、わたしを救い出してくださる神はわたしの味方だと悟るのです。神の御名を呼び、神に依り頼めば恐れることは何もありません。この世を支配する死さえも、打ち破らせてくださいます。
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  • あなたの重荷を主にゆだねよ(詩編 55編)
    あなたの重荷を主にゆだねよ
    主はあなたを支えてくださる。
    主は従う者を支え
    とこしえに動揺しないように計らってくださる。
    (詩編55編23節)
    詩人は襲いかかる災いと恐れの中で主に嘆き求め、「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください」と、そこからの救いを祈り始めます(2節)。
    詩人ははるか遠くに飛び去りたい思いですが、それでも都に留まり続けます。そこには不法と災いと労苦が満ちています。特に詩人にとっての問題は、自分を襲ってくるものが、敵からではなく、自分の親しく交わっている人びとからのものだったことです。しかし、神を呼び求めると、神はわたしの声を聞いてくださり、わたしの魂を贖い出し、平和を守ってくださる、と語ります。詩人は、神に重荷をゆだねることの大切さを確信します。
    私たちの周りには避けて通ることのできない苦しみがいたるところにあります。また、心打ち明けた友に裏切られることもあるかもしれません。しかし、神はご自分に従う者に目を注いでくださいます。神に重荷をゆだねるなら神は私たちを支えてくださり、見捨てられることはありません。私たちは主に自分の心を明け渡して、主に望みを置く信仰に歩むことを願います。
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  • 主はわたしの魂を支えてくださる(詩編 54編)
    見よ、神はわたしを助けてくださる。
    主はわたしの魂を支えてくださる。
    わたしを陥れようとする者に災いを報い
    あなたのまことに従って
    彼らを絶やしてください。
    (詩編54編6節~7節)
    この詩編の3節から5節で、詩人は神に敵の手から逃れられるように懇願しています。そして、6節から9節で敵の手の災いと苦難から救い出されることの確信と、感謝を述べています。状況は詩人にとってはまさに危機的で、その中からでも救い出してくださるとの確信を持って神に懇願しています。自分の力に頼らずして、神の救いの導きだけを頼りとしています。
    その詩人は、神がわたしを助けてくださること、わたしの魂を支えてくださることを、確信を持って告白します。また、詩人は、わたしを陥れようとする敵に災いを報い、彼らを絶やしてください、と祈ります。一見すると聖絶を願っているように見えますが、実際、ダビデはサウル王を殺す機会があっても手を下すことはしませんでした。
    私たちは主イエスに罪赦された者ですから、敵の絶滅は願いません。「『復讐はわたしのすること。わたしが報復する』と主は言われる」と教えられています(ロマ12章19節)。この神に信頼して、愛をもって神にお委ねする者になりたいと願います。敵は外にではなく、むしろ魂の内側にあるものですから。
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  • 善を行う者はひとりもいない(詩編 53編)
    神は天から人の子らを見渡し、探される
    目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
    だれもかれも背き去った。
    皆ともに、汚れている。
    善を行う者はいない。ひとりもいない。
    (詩編53編3節~4節)
    53編は14編と同じ詩編です。同じ詩編が重複して聖書に残されていることは、この詩編が重要であるからでしょう。そして、パウロは、ローマの信徒への手紙3章10~12節で引用しています。そこでは「いない」という言葉が5回用いられ、善を行なう者が「いない」ということが強調されています。
    詩編53編では、人間の罪深さの現実が語られています。その人間の現実を神は天から御覧になり、「目覚めた人、神を求める人はいないか」と探されます。しかし、神を求める人はいない、誰もが神に背を向け、皆が汚れている、と語られています。例外なく罪を犯し、神の御心を求めようとしない、人間の全的堕落が指摘されています。聖書の語る罪とは、神に背を向けていること、神の方向から的外れな方向を向いていることです。
    しかし、そのような的外れの人間を、神は愛してくださり、御子イエス・キリストを私たちにお与えくださいました。パウロは語ります。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3章24節)。
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  • 神への信頼と感謝(詩編 52編)
    わたしは生い茂るオリーブの木。
    神の家にとどまります。
    世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。
    あなたが計らってくださいますから
    とこしえに、感謝をささげます。
    御名に望みをおきます
    あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い
    あなたの御名に。
    (詩編52編10節~11節)
    詩編52編は、悪事を働く者と神に信頼を置く者とを対比させています。表題(1、2節)から分かることは、ダビデがサウル王から逃れてアヒメレクのところに行ったことです。ですから、3節の「力ある者」とは、サウル王を指していると思われます。その彼は、悪事を好み、人を破滅させるような言葉を語ります。しかし、神はその者を裁かれることが語られます。このことを見て、神に従う人は神を畏れます。
    詩人は、「わたしは生い茂るオリーブの木」と言います。まだ神殿も建てられていない時に、神に信頼し、慈しみに依り頼み、神の家を離れることなく礼拝を守る者には、生い茂るオリーブの木のように繁栄が与えられるのです。ダビデも犯した罪が赦され、贖われた者としての感謝と喜びがあります。
    私たちの目に見える現実は、力ある者が悪事を誇り、欺く舌を好む者が権勢を誇っています。しかし、その現実にのみ込まれてしまう必要はありません。主イエスに信頼し、望みをもって礼拝し感謝する者は、神によって祝福され、御国への招きに入れていただけるのです。
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  • あなたがたが互いに愛し合うならば(ヨハネによる福音書 13章31-35節)
    あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
    (ヨハネによる福音書13章34節)
    レビ記19章18節に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟が既にあります。そうであるならば、なぜ「互いに愛し合いなさい」という主イエスの掟が新しいものとなるのでしょうか。それは、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉が付け加えられている点にあります。レビ記によれば、自分の力で隣人を愛しなさいとなり、これは罪人には到底、守ることはできません。
    主イエスが「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、ご自身で言われたその通りに、十字架の犠牲を通して神の愛を示してくださいました。従って、弟子たちは律法を成就された主イエスの恵みによって、真の愛を実践することができます。愛は十字架から注がれるのであり、愛の源は神だからです。ということは、私たちが再生しなければ、本当の意味で互いに愛し合うことはできないことになります。
    主を頭として主の晩餐にあずかる共同体が、互いに仕え、互いに愛し合い、聖霊によって一致するとき、教会が建て上げられ、世に福音が宣べ伝えられます。
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  • わたしを洗ってください(詩編 51編)
    ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
    わたしが清くなるように。
    わたしを洗ってください
    雪よりも白くなるように。
    (詩編51編9節)
    詩編の中でも、特によく知られているものの一つで、ある人は「途方もない詩編」と呼んでいます。そう呼ばれる理由は、いろいろな意味で時代を越えており、誰もが共感する普遍性を持っていて、誰にも当てはまる共通性を持っているからです。
    罪の恐ろしいところは、それが罪であると知っていたとしても、たいしたことはあるまいと思ってしまうことです。ダビデも、「それはあなたです」と預言者ナタンから指摘されるまで、自分のことだと思ってもいませんでした(サム下12章)。しかし、良心を取り戻すと激しい恥意識が襲ってきました。何もかもを壊してしまうほどの大きな罪であることがわかったからです。贖いのために神が求められるならどんなことでもするつもりでしたが、彼は人の働きが役に立たないことも知っていました。
    神が清めてくださらなければ、完全に清くはなりません。なぜなら、赦しは神が与えるものだからです。恥意識はなかなか消せるものではありませんが、「雪よりも白くなるように洗ってください」と祈るとき、神の平安が真実に、確実に与えられます。
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  • 形式ではなく心から(詩編 50編)
    「告白を神へのいけにえとしてささげ
    いと高き神に満願の献げ物をせよ。
    それから、わたしを呼ぶがよい。
    苦難の日、わたしはお前を救おう。
    そのことによって
    お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」
    (詩編50編14節~15節)
    49編は知恵文学のようでしたが、50編は「説教」を思わせる雰囲気を持っています。詩編は賛美であると同時に、祈りであったり、教訓であったり、説教であったりして、神殿に来る人を教える役割を持っていました。
    神が責めておられるのは、形式的に犠牲を献げ、表向きは敬虔であるように見えるのですが、実態がそうではない人です。特に17節以下で、神の民に本来あってはならない行動が数えあげられます。
    それは心の奥底で、神の諭しや神の言葉、つまり律法を憎んでいることです。道徳的にいい加減な者と大いに語り、盛り上がります。盗みや姦淫に加わって行くのです。発する言葉は罪を責められないように気をつけながら、しかし、実のところでは罪を楽しんでいる姿です。それらは、真実には、神に知られています。
    神への告白は口に出すだけではなく、心からなされるものでなければなりません。また神に対する心からの感謝が必要なのです。そうしてなされることを、神は喜んでくださるのです。「わたしは神の救いを示そう」(23節)。
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  • 人を真に贖うのは神(詩編 49編)
    陰府に置かれた羊の群れ
    死が彼らを飼う。
    朝になれば正しい人がその上を踏んで行き
    誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
    しかし、神はわたしの魂を贖い
    陰府の手から取り上げてくださる。
    (詩編49編15節~16節)
    この詩編は、4節に「わたしの口は知恵を語り、わたしの心は英知を思う」と言っていますから、「知恵の詩編」とでも呼ぶと良いのでしょう。
    しかし、この詩編が全体的に暗く、否定的に聞こえるのは、人間の死を取り扱っているからです。10節の「人は永遠に生きようか」という問いは必然的に「違う」という答えになります。
    お金持ちが死を逃れることはなく、死は誰にも平等に訪れます。神に身代金を払って死をキャンセルすることもできないし、どんな大金があっても魂を贖うには全く足りないと言われます。
    この事実を逆転させるのが「しかし」という言葉です。これは、かなり強い作用をする言葉で、先に述べたことを完全に打ち消します。「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」。人にはできなくても、神にはできるのです。
    たとえ肉体は死んだとしても、神はこのわたしを贖ってくださいます。陰府からでも取り上げます。ですから、「自分の力」や「自分の口の言葉」(14節)に頼るのではなく、神に信頼を置いて生きるべきです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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