本日は「台湾に根を下ろした日本歌謡」シリーズの第5回。欧陽菲菲さんとテレサ・テンさんの歌を紹介する。欧陽菲菲さんは今年の「金曲奨(Golden Melody Awards)」の特別貢献賞を受賞した。「時代を超えて業界をまたぐ影響力を発揮し、世界での活躍を目指す現代のミュージシャンにとって最良の手本になっている」との受賞評だった。
欧陽菲菲さんの名前を知ったのは私が小学校の頃。1971年の日本でのデビュー曲でベンチャーズの曲をカバーした『雨の御堂筋』を聴いた時だった。台湾から来たという彼女はパワフルな歌と振り付けで多くの日本人の心をつかんだ。この曲はいきなり136万枚ものセールスを記録し、翌年の「紅白歌合戦」初出場に繋がった。おそらく私が物心がついてから初めて「台湾」という場所を漠然と意識するようになったのが、彼女の歌がきっかけだったのだと今振り返って思う。1983年〜1987年にかけてロング・ヒットした『ラブ・イズ・オーバー』とともに、50年以上も前の『雨の御堂筋』は今でも私が口ずさめる定番のナンバーだ。
7月1日の授賞式では、欧陽菲菲さんは授賞式に立てる喜びと審査員やファンへの感謝の言葉を重ねながら、「歌を歌うこと、ステージに立ち続ける事はずっと私の夢でした。できれば私は歌い続けて、決して諦めません。」と述べ、代表曲『感恩的心』をアカペラで歌った。73歳となった今も変わらず、しっかりとした音程で1フレーズを歌い終えると、会場の関係者やファンからは喝采が起こった。私はこの歌のタイトルでも使われている「感謝」の「感」に「恩義」の「恩」と書いて「感恩(ガンエン、ガムウェン)」という、台湾のこの言葉が大好きだ。「謝謝」や「感謝」の上位互換の言葉で、相手から受けた「恩義」や相手との「ご縁」により深い感謝の気持ちを表す言葉として、私も大切にしている言葉だ。
欧陽菲菲さんの日本でのデビュー曲『雨の御堂筋』の台湾でのカバー曲『雨中徘徊』をOA。
日本ではテレサ・テンとしてお馴染みだが、20世紀を代表するアジアの歌姫、鄧麗君さん。北京語、広東語、台湾語、日本語、英語、どの言葉で歌っても確かな歌唱力に裏打ちされた彼女の声には独特の甘さと艶が備わっていて、私も早くからテレサさんの歌に魅了された。テレサさんの歌を初めて聴いたのは、やはり日本にいた時で、おそらく1974年にリリースされ、日本での最初のヒット曲となった『空港』だったと思う。小学校6年生だった当時の私には、この歌の主人公の女性の悲哀は理解する由もなかったが、少したどたどしさが残る日本語で切々と歌い上げるその声は、ずっと耳に残った。
テレサさんは1953年に台湾の雲林県で生まれた。父親はの職業軍人だった。10歳の時にはラジオ局の歌唱コンテストで優勝して早々と頭角を表した。14歳でプロ歌手としてデビュー、16歳の時には主役として映画デビューするとシンガポールやマレーシアなど東南アジアの華人社会でも人気に火がつき、その後18歳で香港でも歌手デビューを果たすと一躍スターダムにのし上がった。芸能人として、テレサさんの少女期は、まさに順風満帆だったといえる。したがって、日本でデビューした当時は、テレサさんは「アジアの歌姫」としての地位を既に不動のものとしていた。前述の日本でのセカンドシングル『空港』で日本レコード大賞の新人賞を獲得し、日本での人気も揺るぎないものとなった。しかしその後、1979年に日本への入国の際に、日華国交断絶の影響で煩雑となった台湾からの入国手続きを避けようと、テレサさんがインドネシアのパスポートを使ったことが問題となり、1年間の日本からの国外退去処分を受けてしまうという事件が発生する。
テレサさんが日本でも再デビューを果たしたのは、1984年のこと。作詞:荒木とよひささん、作曲:三木たかしさんのコンビで『つぐない』を発表するまで待たなければならなかった。満を持して発表されたこの曲は、150万枚をセールスする大ヒット、翌1984年にも同じく荒木・三木コンビの『愛人』が、翌々年1986年には『時の流れに身をまかせ』も、それぞれ150万枚、200万枚の大ヒット。3年連続で日本有線大賞と全日本有線放送大賞の同時グランプリ受賞の快挙を果たすとともに、1984年には『愛人』で紅白歌合戦初出場を果たし、その人気・実力に金字塔を打ち立てた。また、この荒木・三木コンビの三部作はそれぞれ、『償還』『愛人』『我只在乎你』として北京語にテレサさん自身によってカバーされ、台湾をはじめ中華圏でも大ヒットをした。ヒット曲をセルフカバーできるだけの言語能力、実力を持った歌手は、先ほどの欧陽菲菲さんもそうだが、本当に稀であり、しかも複数曲を全て連続で大ヒットさせるというのは、空前絶後のこと。
そして、テレサさんの功績は、これらのセルフカバー曲のみならず、実に多くの日本の歌謡曲、J-POPをカバーし続けたことである。千昌夫さんの『北国の春』、森真一さんの『襟裳岬』、南こうせつさんの『神田川』、中島みゆきさんの『ひとり上手』など数十曲もの作品がある。台湾の皆さんの日本への関心や日本の音楽文化への理解の促進にも大きくきよし、日台の音楽交流史の文脈の中でも、テレサさんはその名を深く刻んだ。
テレサさんの大ヒット曲から『時の流れに身をまかせ』の北京語のカバー曲『我只在乎你』をOA。この曲の北京語の歌詞を書いた慎芝さんは、日本語で描かれたこの歌の世界観を見事に別の言語に置き換えている。歌詞の翻訳としては比類を見ない完成度の高さであるといつも感嘆させられる。
1995年5月8日。世界中を大きな衝撃が駆け巡った。テレサさんが滞在先のタイのチェンマイで喘息の発作による呼吸不全で42歳の若さで亡くなったと言うのだ。私は当時北京にいたが、我が耳を疑った。嘘であってほしい、何かの間違いであってほしい、と願ったのは私だけではあるまい。それから激しい喪失感が数か月続いたことを今でも鮮明に覚えている。テレサさんは今、新北市金山区の「金宝山」という墓地にある「筠園(ユィンユエン)」に眠っている。「筠」はテレサさんの本名の「鄧麗筠」から取られている。私も2度ほど訪れたことがあるが、広々とした園内は陽当たりが良く、太平洋を望める美しい場所である。筠園に足を踏み入れるとテレサさんのヒット曲が流れる。いつ行っても参拝者が絶えない。
テレサさんは亡くなった後も何度もステージに登場している。と言ってもこれは怪談ではない。3Dホログラムの技術を使って、ステージ上にご本人の立体映像を映し出すことができるようになったのだ。まず2013年周杰倫(ジェイ・チョウ)さんのコンサートでハリウッドの特殊視覚効果チームが製作したテレサさんが初登場し、大きな話題をさらった。没後20年の2015年5月には追悼コンサートが台北アリーナ、続いて渋谷公会堂でも企画され、代表曲の『月亮代表我的心(月は我が心)』や『時の流れに身をまかせ』のほか、台湾ではベテラン歌手の費玉清さんと、東京では五木ひろしさんとのデュエット曲も披露された。
この追悼コンサートは、テレサさんの三番目の兄で、テレサ・テン文教基金会董事長が協力する形で上海と香港でも開かれた。その後、技術力の向上により再現度の上がったテレサさんの立体映像は、2017年にも台北でメモリアル・コンサートが開かれたほか、その後もアジアの各地で何度も登場している。それほどまでして、多くのファンがテレサさんの歌を聴きたいということなのだ。テレサさんはこの世を離れて28年経った今も、その歌声は多くの人々の心を癒し続けてくれている。ありがとう、「感恩」、テレサさん。
テレサさんの歌で『何日君再來(いつの日君帰る)』お聴きいただきながらお別れ。