「なぜ愛の神が人殺しを命じるのか」―「聖絶」を考える―、本日はシリーズの3回目(最終回)のメッセージとなります。
A.「なぜ神は残酷な裁きを下すのか?」 ( https://olive-church.net/sermons/herem-01/ )
B.「なぜそれを人間達にやらせるのか?」 ( https://olive-church.net/sermons/herem-02/ )
C.「なぜ子供まで犠牲にするのか?」 (←本日ココ!)
「イエス様が私たちを救うために十字架について下さった」という福音は、愛と恵みに溢れています。一方で、「カナン人を皆殺しにしなさい」という聖絶の命令は、受け入れがたい厳しさがあります。しかも、ここには「罪のない」子どもも含まれているのです。
しかし、「福音」と「聖絶」は対立するものではなく、同じ論理の延長線上にあるのです。「福音」と「聖絶」の根幹にあるものは、一体何でしょう?
それは、原罪です。
福音が必要なのは、私たちが親から、親もまたその親から脈々と受け継いできてしまった「原罪」があるからです。また、もっと具体的なレベルの話でいえば、いい影響にしろ、悪い影響にしろ、親からの影響を全く受けずに育つ人はいません。そして、親の罪、悪い選択を子どもが刈り取ることになっています。
「福音」も「聖絶」も、罪に対する清めの手段だと言えるでしょう。
しかし、実際に我が子を亡くした親たちは、この説明で納得がいくでしょうか?究極的には、私たち人間の小さな頭で神様のなさること全てを理論整然と解き明かすことは不可能ですし、理論は冷たいものと感じることでしょう。
では、明確な答えがなくても神を信頼することは出来るのでしょうか?
我が子イサクを殺すように言われたアブラハムは、明確な答えなど何一つないまま、神様を信頼しました。イサクはすんでのところで神様の介入により助けられます。
しかし、神の一人子イエスはどうなったでしょうか?
神様は、イサクの時のように、イエス様が十字架につけられたとき、介入したでしょうか?
神様は、子の切なる祈りを退け、沈黙を選ばれたのです。
「なぜこんな悲惨なことが起こるのか?」「神様は不公平じゃないか?」という思いが込み上げてくる時、私たちは沈黙を選ばれた神様に思いを向けてみようではありませんか。
答えは、十字架にあるのです。