
Sign up to save your podcasts
Or


師匠大坪総一郎師は最晩年に「私が遺す言葉は『和賀心』以外にない。私の一生は、自分自身の中に和賀心を求め続け、今月今日ただ今も、和賀心。これからも、あちらに行ってからも、和賀心を頂き続けたいと思う」と語られました。和らぎ賀ぶ心はあの世でも求め続けるもの、言わば長期の達成目標であり、今の達成目標は成行きを頂くことだと思います。
ご覧頂き有り難うございます。
趣味の稽古事の稽古と信心の稽古の違いは、稽古の時だけの稽古と四六時中の稽古との違いかもしれない。稽古事の先生は稽古事の時だけの先生。信心の師匠は師匠の全人格、全身全霊をもっての師匠と言うことになる。師匠大坪総一郎師の生きられ方の一つに、これで済んだとは思いません、と言うもう一押しされる信心がある。
ご覧頂き有り難うございます。
朱に交われば赤くならぬまで、これは師匠大坪総一郎師の教えて下さる御神徳を頂く六箇条の一つです。赤信号みんなで渡れば怖くない的な生き方を戒められたものの一つだと思います。実は師匠の研修デジタルデータの中に当時のテープの悪性の一つとしての磁気の転写が認められたのです。その転写音が雑音となり音が濁ってしまうのです。
ご覧頂き有り難うございます。
人の助かりは何処にあるのか。肉体的苦痛からの救い、精神的苦痛からの救い、願い事が叶うことによる救い、心が育つことを目指すことによる救い、願いが私願成就から神願成就へと育ち移ることによる救い、人の助かりを願える心が育つことによる救い、今朝は、神様の愛を感じるところからくる救いが有ることを教えて頂いたように思う。
ご覧頂き有り難うございます。
今朝は、信心とは頭と心と体で行うものと頂きました。教祖生神金光大神様の御教えは大切です。後世に残るもの、またその気になれば誰でもが触れることが出来るもの、それは御教えです。しかし教えはヒントにしか過ぎません。御教えにより心が開発され、その心が家業の中に体で行じられるのが信心です。
ご覧頂き有り難うございます。
人はとかく形の上に於いて自分の都合の良いように事が運んだときに神様の愛を感じやすいものだが、そう言う神愛の感じ方では師匠大坪総一郎師の教えて下さる一切神愛は体得出来ないだろう。いわゆる形の上では不都合な成行きの中にでも神愛を感じるものでなければ。それは禍福はあざなえる縄の如しと言うような愛の感じ方ではない愛の感じ方であろう。
ご覧頂き有り難うございます。
今朝は2つのことを教えて頂いています。一つは、天地金乃神様の願いの第一は人間氏子の真の助かりだと。もう一つは、師匠大坪総一郎師の教えて下さる「心一つで総てを創る」と言うことです。良いことも悪いことも勿論心一つで総てを創り出していることになります。難儀が有るも無きもわが心と言うことになります。
ご覧頂き有り難うございます。
信心とは生き様であるとも言えると思います。師匠大坪総一郎師の信心を頂くとは、師匠の生き様、即ちその生きられ方を神習うと言うことでしょう。学校の先生から習う信心と、師匠から習う信心の違いは、良いとこ取りではなくその全人格を神習うと言うことでしょう。師匠はふうたらぬくい、イヤと言えない性格だったと仰っておられました。
ご覧頂き有り難うございます。
信心の稽古の邪魔になる生き方、それは「人のせい」にする生き方。師匠大坪総一郎師は決して「人のせい」にはされなかった。これは私の信心が足りないのだと、一切を自らの信心の材料、心の改まりの材料としての生きられ方であった。そこに信心がグイグイと進んで行かれ、天地金乃神様の御信用も頂かれるようになられたのだとと思う。
ご覧頂き有り難うございます。
人間氏子が欲する助かりようは、右と願えば右となり、左と願えば左となるような助かり方であろうと思う。しかし天地金乃神様が氏子に授けたい救いは氏子のより真実の助かりを授けようとしておられる。そのより真実の助かりを取次ぐのが真の取次者だと思う。師匠大坪総一郎師の許ではそれが為されていた。
ご覧頂き有り難うございます。
From the publisher's feed

0 Listeners