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芥川龍之介の『蜘蛛の糸』について、僧侶・宗教学者の釈徹宗(しゃくてっしゅう)さんの言葉が、響きました
曰く
「我々がより所にしてるのは、まさに雲の糸のような、かそけきものというか、かすかなものであって、あっという間に転落もすれば、あっという間に成功もしちゃう。それは本当に偶発的な部分も多い。
雲の糸の冒頭、お釈迦様は池の淵をぶらぶら暇だから散歩してて、たまたまカンダタをみつけるんですよね。
だってすごくなんか残酷な表現じゃないですか。たまたま見つけて糸をたらす気まぐれのようなですね。
そういういくつものこう偶発性のかすかなものを我々はよりどころとしてるし、かすかではあるもののそこにしか寄りどころがない
で、それは一歩間違うとあっさりと転落へと行くことは、なるんだっていう芥川の、人間観とでも言いましょうか、世界観みたいなもの」
ここからわたしはおもいました
1、人生は偶発性に左右されざるを得ない
2、我々の拠り所は、かそけき一本の糸
3、善人か悪人かを分けるリップルモデル
1、人生は偶発性に左右されざるを得ない
お釈迦様は、ただ散歩していて、たまたまカンダタを見つけた。そして、たまたま糸を垂らした。
この「たまたま」で、人生が動いてしまう。
それはある意味、どれだけ努力しても、最後の分岐は偶然に委ねられると諦めてしまうのか
または、その偶然があるからこそ、諦めないのだ、という希望に向かうのか
イノベーションはセレンディピティを信じて探索し続ける、そんなマインドセットが重要となるということにも通じるなとも思いました
だからこそ、偶然を待つのではなく、
偶然に出会ったときに動ける状態でいること
必ず訪れることがあると信じて諦めないこと
それが、とても大切なのかもしれないと思いました
2、我々の拠り所は、かそけき一本の糸
運命を握るのは、蜘蛛のたった一つの糸、ということがとても、儚さを感じさせてくれる気がします
実は、私たちの足場は、岩盤のように強固なものではなく、一本の、かすかな糸のようなものに過ぎないのだと
自分の命でさえも、いつ尽きるのかもしれない、という、かそけき命なのだなあと思います
だからこそ、一本の糸が生きているうちに、できることはなんでもやっておきたい
かそけき一本だと意識することができれば、その瞬間主観を充実して生きることができるのかもしれないと思いました
いつ、なんの理由で、自分の糸は、切れて、落下するのかわからない
それに怯えるのではなく、だからこそ立ち向かう。そんな気持ちをいただきました
3、善人か悪人かを分けるリップルモデル
カンダタは、蜘蛛を助けた、他のものを思いやる善も持っていた。
でも同時に、「これは俺の糸だ」と叫んでしまう、自分勝手な悪も持ち合わせていた
つまり、人は、誰もが善にも悪にも変容するのであり、善人悪人がいるわけではない
イノベータリップルモデルで考えたら、パッションの源は、極めて個人的なところから始まるので、自分勝手な思い込みかもしれない
でも、それが、仲間と触れあうことで、みんなが喜ぶ方向性にするためには、どうすればいいのかを考えることで、大義に到達していく
カンダタの糸は、まるで自らのパッションの源が生み出しだ独善的な糸だったかもしれないけれども
下から登ってくる仲間がいる、と思えたのだとしたら、
そこにイノベーションが起きる可能性が産まれたのかもしれない
そんなことを思いました
蜘蛛の糸は、児童文学として書かれたとのことですが、
人の心理の闇と光をえがき、そして、答えを誰もが問いとして語りたくなる、凄まじい名作だなあと改めて思いました
ということで、一言で言うと
蜘蛛の糸ノベーション
そんな話をしています
参考:NHK Eテレ東京 こころの時代〜宗教・人生〜
ファンタジーに秘められた宗教 (2)『蜘蛛の糸』初回放送日 5月4日(月)https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-X83KJR6973/ep/RKN54N84G2
サラリーマンから脚本家に転身された長久允さんの言葉に、物を創ることについて、深く感がさせられました
曰く
"すべての創作物がそうだと思う。 どんな芸術も、基本的には、作者が勝手に作りたいと思い、勝手に作っている。
どうして私たちは、頼まれてもいないのに、書くことをやめられないのだろうか。 それはきっと、こういう理由だと思うのです。 "
"自分の中に浮かんだ物語は、自分が作らない限り、存在しないから。"
"だから私たちは、頼まれてもいないのに、書くしかない。 今日、書くしかない。 今日、死ぬかもしれないから!"
そこから私は思いました
1、誰もが価値を創りたい
2、生きることは価値を作ること
3、パッションに火がつく時が来る
1、誰もが価値を創りたい
私もサラリーマンをやりながら、音楽を続けていましたので、何かとても共感することが多かったのですが
その原点は何かと思った時にハーバード大学の広中先生の言葉を思い出しました
「誰かに編み物をしてあげたり、庭の手入れをしたり、日々の工夫をして生きている人たちは、みんな創造者である」
この言葉は大好きなのですが、イノベーターとか、創造者とかいうと、自分とはかけ離れた、何か特別な勉強と教育を受けられた、雲の上の人、みたいに思うのですが
実は、普通に生きている人たちが、創造者としての活動をしている、ということなのだと思います
大きな作品をつくる人だけが創造者ではなくて、
誰かのために何かを工夫する、その一つひとつが創造なんだと。
長久允さんの言われている「頼まれてもいないのにやってしまう」という衝動も、実はこういう日常の中にすでにあることなのではないかなあと思いました
日々を少しでも良くしたい。
少しでも誰かに喜んで欲しい
これはイノベーターリップルモデルにもつながるのですが、小さな思い(パッション)が、身近な仲間と共に、誰かが喜んでくれることをしたい(大義)誰もが持っていることで
その小さな動きの中に、
価値を生み出そうとする行動が現れている
自分たちは、誰もが価値をつくりたい存在なのかもしれないと、改めて思いました
2、生きることは価値を作ること
「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスさんは、以下のように言われています
「私たちは生存機械である。自己複製子として知られる利己的な分子を保存するために盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。」
そして、さらにそれは発展して、文化の中にも遺伝子のように広がるものがあると考え、「ミーム」という概念を提示しています
つまり、生物は遺伝子ののる箱として、子孫を増やすということで、基本的な新しい価値を誰もが創りますが
こと人間においては、子供を作るのと同じように、何らかの文化を創るということも、遺伝子に組み込まれているということなのかもしれないなあと思いました
だとすると、ある意味、遺伝子の作用により、子供を作ることと同様に、生きること自体が、我々は何らかの価値を創る存在としてあるということになるかと思います
だからこそ、きっと、我々は、広中先生の言われる通り、誰もが創造者として、活動してしまい、ある意味、それが生きがいにつながっている、そんなことを思いました。
3、パッションに火がつく時が来る
イノベータリップルモデルの起点になるパッションにいかに火をつけるかが、創造の原点になると思うのですが
必ずしも、誰もが、何かを創りたいと明確に思っているものでもないと思います
それは、きっと、突然、訪れるものなのではないかと思います
長久さんが、サラリーマンをされていて、体調を崩された時に、自分の思う通りの脚本を作りたい、と思われたように
何かをきっかけに、ああ、自分はこれをやり切ってからじゃないと、死んでも死に切れない、そんな思いが炸裂する時が、その時が、パッションに火がついた時なのかもしれないなあと思います
有名なスティーブ・ジョブズさんの言葉に、
「もし今日が人生最後の日だったら」と問い続ける、というお話がありますが
なかなかそれをいい言葉だなあと思っても、本当に実行に移せるかというのは、もしかしたら、難しいかもしれないなあと思います
私はよく、自分のパッションの源がどこにあるのかを、時あるごとに観てみる子をがいいかもしれないと、情熱のポートフォリに、自分で書き込んでみることをおすすめしたりしていますが
それでも、その時が、パッションに火がつくタイミングではないと、燃え上がるようなことはないかもしれません
でも、その時は、きっと、人生においては、必ずくる
その瞬間を逃さないように、普段から意識しておくのは良いのかもしれないなあと思いました
ということで一言で言えば
自分が作らない限り存在しないノベーション
自分の子供を産むように、創造していく
それがとても自分の充実のためにもいいような気がしました
そんな話をしています
参考:本: あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室 2026年3月10日 プリント版第1刷発行 2026年3月10日 電子版発行 著 者 長久允 発行所 ダイヤモンド社
ハンナアーレントさんの言葉に、イノベーションへのヒントと勇気をいただきました
曰く
「これに反して孤独な人間は独りきりであり、それゆえ『自分自身と一緒にいることができる』。人間は『自分自身と話す』能力を持っているからである。
換言すれば、孤独においては私は『私自身のもとに』、私の自己と一緒におり、だから〈一者のうちにある二者〉であるが
それに反して独りぼっちであることの中では私は実際に一者であり、他のすべてのものから見捨てられているのだ。
厳密に言えばすべての思考は孤独のうちになされ、私と私自身との対話である。」
1、孤独を感じたら問いを考えてみる
2、問いがあるから「二者」になる
3、内なる対話がパッションを育てる
1、孤独を感じたら問いを考えてみる
私は独り身なので、孤独を感じることは、日常茶飯事なのですが
孤独と独りぼっちは違う、というハンナさんの言葉に、目から鱗が落ちる思いでした。
それは、孤独を寂しいなどネガティヴに感じたら、問いを立ててみよう、と言われてる気がしました
なんでも良いけど、あれはなぜ気になるのか。
これは何が引っかかっているのかなあなど
社会課題みたいな大それたことである必要もなく、いつも通り過ぎるワンコは、犬好きな私に、なぜガウルのか
みたいな、どうでも良いことが、良いような気がします。
それは少し楽しめそうな気がしました
2、問いがあるから「二者」になる
ここが私としては、とても面白い気づきだったのですが、
問いが生まれた瞬間、人は一人ではいられなくなるのかも知れないなあと、いうことです。
実際は1人なんですが、問いを立てた自分に対して、なんか返してくる自分が出現してるのかも知れないぞと思いました
それが、ハンナさんの言われるところの〈一者のうちにある二者〉ということなのかも知れないなあと
くだらねえことを言ってるなあと、いうツッコミもあれば、いやあのワンコは、ガルってるように見えて、実は喜んでるのでは?みたいな仮説が生まれてきたり
今度は、思い切って、ガルってる頭さわっちおうかなあ、とか、ジャーキーチラリと見せちゃうか、とかとか
それは、問いがあったおかげで、自分の中にもう1人が生まれて、いつの間にか、そいつと対話している
そしたら、もう孤独って、寂しくないなどポジティブな方向に向かえるのかもなあと、思いました
3、内なる対話がパッションを育てる
それは、もしかしたら、寂しくないどころが、イノベーターリップルモデルの起点となる、パッションを育てることになるのかも知れないぞ
とも思いました。
なんだか一人だなあとと思ったら
くだらない問いをたててみる
そうすると、ツッコミ自分がどこからともなく現れてきて
いつしか、なんか我慢できないほどに、気になることができてきちゃう。なんか確認しなきゃ気が済まないことができてきちゃう。
それこそが、実は、パッションの源が生まれ始めていることになる。そんな風に思いました
なので、1人でいることは、実は、イノベーターリップルモデルの起点となる、パッションを生み育てる、そんな大切な時間
むしろそんな時間を取ることによって、自らが気付いてさえなかった、パッションに気づき始める
孤独とは、そんな素敵な環境でもある、そんなことを思いました
一言でいうと
孤独がパッションを生み育てるノベーション
そんな話をしています^ ^
参考:本: 全体主義の起原3─全体主義[新版] 著訳者名 ハンナ・アーレント 大久保和郎・大島かおり訳 発行所 株式会社みすず書房
野田秀樹さんの舞台「華氏360度」に衝撃と感動を頂きました。そしてプログラムでの野田秀樹さんの言葉に、深く考えさせられました
曰く
「「短い問いに長々と答える」それが生きるということだ。
この有名なシェイクスピアの蓄ある台詞も近頃は、的外れな時代になってしまった。
「答えは短い方がいい」そんな時代だ。SNSでは「長々と答える」のは、オジサンの所業としてみ嫌われる。そしてAIに言わせれば「長々と一生という時間を費やして答える問題」など、問題そのものの方に問題があるということになりそうだ。簡潔で力強く聞とえる答えばかりが、世間を闊歩する。
「悪者は速やかに殺せ」」
中略
「さて、このもっともらしい私の文章の問題点は、冒頭にある「シェイクスピアの含蓄ある台詞」が、私の手によって作られたフェイクであるということだ。私お得意の「フェイクスピア」のセリフだ。だから、今時の科学文明についての答えも、そう簡単には出ない。
それでも「短い問いに長々と答えた」のが、この芝居であり、しかも答えになっていない。
長々と答えても答えられようのない「短い問い」がこの芝居だ。
相変わらず歯切れの悪い、始末の悪い文章だが、まずはご覧あれ。」
ここから、私は思いました
1、長々と答えを紡ぐ勇気
2、フェイクを通して真実に近づく
3、答えられなさを抱えたまま進む
1、長々と答えを紡ぐ勇気
「答えは短い方がいい」
そんな空気が強くなっている今だからこそ、
あえて長く考え答え続けるという勇気が問われている気がします。
シェイクスピアの『ハムレット』の
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
という問いは、短くは答えられない問いの象徴だなあと思いました
野田さんは、その“答えられなさ”を引き受けようとしているのかも知れない。すぐに結論を出さず、思考と語りの時間を削らない。
今回のお芝居も、怒涛の言葉の渦と、3つの時代を行き来する悠久の時間を、ふんだんに駆使して、目眩く問いの数々を投げかけていただいた気がしました。
2、フェイクを通して真実に近づく
冒頭の言葉がフェイクだったと明かされる。
この仕掛けがまさに野田さんの舞台における、言葉のフェイク合戦で、一体何を言ってるのか、次々に考えをめぐらさなければついていけない、そしていつの間にか感動してる、そんな仕掛けを思わせてもらいました。
哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と語りましたが
野田さんは、語り得ぬものを、“フェイク”で語る。
そんな気がします。
本物ではない言葉だからこそ、人の心を動かすことにつながる。
真実は、必ずしも“正しさ”だけでできているわけではなくて、むしろ、遊び、仮説、揺らぎの中にこそ、新しい意味が立ち上がることがあるのかも知れないなあと思いました
3、答えられなさを抱えたまま進む
野田さんの舞台は、言葉がどんどん違う意味を持ち始めて、真実と思っていたことがどんどんフェイクに入れ替わっていく
それは、簡単に答えられると思っていたことが、実はそんな簡単ではないことを、どんどん突きつけられていく
思想家のハンナ・アーレントは
人間を「自分自身と対話する存在」と捉えたと言われています
つまり、問いに答えることよりも
問い続けること自体が、人間の営みなのかもしれないなあと思いました
答えきれない問いを抱えながら、
それでも語り、作り、進んでいく。
その“未完のままの前進”こそが、創造の正体なのかもしれないなあと
ということで
一言でいうと
短い問いに長々と答えるノベーション
野田さんのフェイクの中に真実があるのかも知れない
そんなことを思わせて頂きました
参考:舞台:華氏マイナス320度 作・演出 野田秀樹 出演 阿部サダヲ、広瀬すず、深津絵里他 https://www.nodamap.com/kashi/
オードリー・タンさんから、若い人へのAI時代に大切になるメッセージに、感動しました
「実際に重要なのは3つのことだけです。それは『好奇心』『協力』そして『共助の精神』です。
これらは内発的な動機です。こうして人間にとっての意味が生まれるのです。
より良いスコアを取ることやGDPを増やすことなどの外発的な動機ではなく、人々は本当に好奇心を持ち続け、協力し合い、互いに社会を良くしたいと願っています。
だから未来には、週休が3日や4日、あるいは6日になったとしても、残りの時間を助け合い、社会を思いやり、探究し、人々と協力するために費やせば、『豊かな人生だ』と感じることができるでしょう。」
ここから私は、イノベーターリップルモデルととてもシナジーのある考え方だなあと思いました
1、パッションは、好奇心の別の名前
2、仲間は創発の原点にもなる
3、大義は、共助の中で立ち上がる
1、パッションは、好奇心の別の名前
タンが言う「好奇心」は、
イノベーターリップルモデルでいうところの「パッション」と重なります。
心理学の文脈では、エドワード・デシとリチャード・ライアンが、『人を伸ばす力 ― 内発と自律のすすめ』(新曜社)の中で、人は外的な報酬よりも、内発的な動機によってより深く持続的に行動すると述べています。
つまり、パッションというのは、
気合いや意志というよりも、「知りたい」「やってみたい」という自然な衝動から始まると思います
その小さな火種が、波紋の最初の一滴になる。
そう言ってる気がしました
2、仲間は創発の原点にもなる
イノベーターリップルモデルでは1人でできないことは、仲間を集めて分担しようと、言っています
また一方の見方では、先に「協力」がくる場合もあると思います
生物学者のリン・マーギュリスは、『細胞進化における共生』(講談社)において、生命の進化における大きな飛躍は、競争ではなく共生によって起きてきたことを示しました。
つまり、何かを分担する為に仲間を求めるのではなくて
何かを一緒にやろうとするプロセスの中で、新たなものが創発され、結果として仲間になる。
仲間は“集めるもの”ではなく、“生まれるもの”のの起点になる
そんな感でもあると思いました
3、大義は、共助の中で立ち上がる
タンさんの言う「共助の精神」とは、イノベーターリップルの、大義の根っこにあるものではないかと感じました
経済思想家のカール・ポランニーは、『大転換』の中で、人間の経済は市場交換だけでなく、互酬性(助け合い)によって支えられてきたと論じました。
だから、共助の精神があるからこそ、誰もが幸せになるべく大義が生まれてくる
自分や仲間だけが幸せで良いという気持ちには、とても狭い範囲の大義しかいらない
本当の大義は、共助の精神があるからこそ、生まれてくるものだと思いました
共助の中で生まれた関係性が、
「これはやるべきことだよね」という共通認識になったとき、それが大義になる。
一言でいうと、
好奇心が波紋になっていくノベーション
そんな話をしています^ ^
参考:本: 2030 来たるべき世界 発行日 2026年3月30日 企画 朝日地球会議 著者 エマニュエル・トッド オードリー・タン モニカ・トフト 三牧聖子 大野博人 越智光夫 佐橋 亮 錦田愛子 聞き手 青山直篤 五十嵐大介 高久 潤 望月洋嗣 コーディネーター 長野智子 発行所 朝日新聞出版
文筆家の土門蘭さんの言葉に、とても考えさせられました
曰く
"人の中には、言葉が通る水路がある。その水路は「ほんとうのこと」が湧いてくる自分の水源と、外の世界をつないでいる。きれいにしておかないと、いくら水源から「ほんとうのこと」が湧いたって、通りが悪くて外に出ない。そればかりか、滞った水が汚れて固まり、水源に蓋をしてしまう。その結果、中から「ほんとうのこと」が出てこなくなる。"
"言葉の水路をなるべくきれいに保っておくための、毎日の排水作業。それが「誰にも読ませない文章」を書く意味であり、そうしないとすぐに書けなくなってしまうんだと、独立してから気がついた。だから毎晩必ず「誰にも読ませない文章」を書いて、水路をリセットしてから眠るようにしている。"
ここから私は思いました
1、制御する自分を休ませる
2、自分の根っこと繋がる時間
3、排水作業にパッションの源が垣間見える
1、制御する自分を休ませる
誰かと話をする、SNSに発信する、報告書を書く、提案書を書く、みたいになにかを発信する機会は、誰にもたくさんあるかと思いますが
コンプライアンスや誰かから批判を浴びないかなど、自然と自分を制御する力を使ってしまっているのかなと思いました
実は自分の中には、自由に発信が湧いてくる水路と、それを制御しようとするアクティビティがあるという気づきは、目から鱗が落ちる話だと思いました
自分の中で意識して、制御しようとするアクティビティをオフにするということを、意識して行うことが実はとても大切という学びを頂きました
2、自分の根っこと繋がる時間
土門さんは、そのために、日記をつけるという時間を必ず毎日確保されているというお話でした
自分はそんな時間を確保できているのか?という問いを立てた時に、自分の場合、お風呂に入ってる時に、結構独り言で言ってることが、実はそうなのかもなあと思いました
日記を書くということになると、自分の場合は、例えば自分が人知れずなくなってしまった時とかに、発見されたら嫌だなあとか、そんなとこまで考えてしまいます
でももしかしたら、別に記録に残す必要もなくて、お風呂でも散歩でもトレーニングでもいいので、何か1人になってる時に、独り言で自分と会話する、と言うことでも
自分の根っこと繋がって、誰にも恥ずかしくなくて、1人で、ぶつぶつ話すとか、もしかしたら、カラオケポックスとかでも、何か閉じられた空間で
王様の耳はロバの耳じゃないですけど、自分の根っこから繋がる言葉を吐き出す、そんな機会を意識してつくことが
自分の排水溝のお掃除になる、それは一つの気づきとして頂きました
3、排水溝にパッションの源が垣間見える
もしかすると、そんな時が、実は、自分が気づいていない、パッションの源との接続できる良い機会なのかも知れないなあと思いました
それは記録はしてないんだけど、ああ、なんか自分、そんな気持ちなのかあとか、気づいたらメモる、くらいでも良いのかも知れません
そういうパッションの源は、意識してない時に突然訪れるので、排水溝をとにかくスムーズにしておく作業がとても大切だなあと思いました
ということで、
一言で言えば
排水作業にパッションの源が宿るノベーション
そんなことを思いました
参考:本: ほんとうのことを書く練習 「わたしの言葉」で他者とつながる文章術 2026年3月3日 プリント版第1刷発行 著者 土門蘭 発行所 ダイヤモンド社
哲学者のウィトゲンシュタインの言葉にグッときました。
曰く
"人は思想に対して、値札をつけることができるかもしれない。
値の張る思想もあれば、安い思想もある。
では、思想の代金は、何によって支払われるのだろうか。
私の考えでは、それは勇気によってだ。"
ここから私は思いました
1、自分の思想をそのまま出せるか
2、人の思想をそのまま受け入れられるか
3、思想は何にも縛ることはできない
1、自分の思想をそのまま出せるか
私は毎日YouTubeやpodcastで私の気づいたことや考えた事などをお話しして発信したりしておりますが
その言葉が、本当に自分自身の偽らざる気持ちとして、本当に話すことができているのか?
と指摘されているような気がしてしまいました
どうしても、炎上しないかなとか、こんなこと言ったら誰かから批判されちゃわないかなとか、心のビビり作用が働いてしまって、自分自身の本当の言葉になっていないのではないか
そこに必要なのは、ひとかけらの勇気なのであると
ウィトゲンシュタインさんから、厳しく指摘されたような気がしました
2、人の思想をそのまま受け入れられるか
また、逆に、人のお話を受け取る際にも、それはとても権威のある人の話だからとか
ベストセラーで売れているものだからとか、外的要因によって、値付けされている基準で
思想を受け取ったり、とらなかったりしているのではないか?ということにも、自分の中で問い直さなければならないかもしれない
そんなことも思いました。
もしかしたら、たまたま隣にてお話しした方からのお話に、とても大切な思想への気づきがあったり、本当に大切なことが隠れているということにも
心を常に開いていられるか、そんなことを問い直されているような気もしました
3、思想は何にも縛ることはできない
そう考えると、どうしても資本主義の中に住んでいる私としては、値札が高くついているようなもの
または権威があったり、有名だったり、そんな思想や考えに、ついつい流されてしまっているのかもしれないなあと思いました
自分自分がお話しする時もそうだし、人のお話を聞く上でも、何にも縛られていないオープンな気持ちで、思想について、思いを巡らし、発信することができるか
そこには、さまざまな批判を受けるかもしれない、または反対意見をいただくかもしれない
でも、そこに自分の思想を打ち込むことこそ、生きている上での大切なあかしになるし
自らの情熱の源に突き刺さる、そんな生きがいを得られる行動なのかもしれないなと、勇気、という言葉を大切にしたいと思いました。
ということで一言で言えば
思想の値札ノベーション
そんな話をしています
参考: NHK Eテレ東京 100分de名著 ウィトゲンシュタイン“論理哲学論考”“哲学探究” (4)心はどこにある? 4月27日(月) https://www.web.nhk/tv/an/meicho/pl/series-tep-XZGWLG117Y/ep/L2K3MQ17LP
一橋大学大学院経営管理研究科教授の藤原雅俊さんと、一橋大学名誉教授の伊丹敬之さんから、新たな顧客ニーズの捉え方に関する気づを頂きました
"障壁と闘う不常識な顧客は、製品やサービスの自由な使用を妨げる制約を障壁として認識し、時に規則や法律を逸脱してでもその壁を取り払って自分の好きなように使いたいと考える顧客のことを指す。
その逸脱行為は、違法な領域に踏み込む場合もあれば、違法とは言い切れない場合もある。
そのため本書では、「非」常識とはせず、「不」常識な顧客と表現している。
何としてでも障壁を打ち破ろうする彼らの欲求は、時に社会問題を引き起こすほどに強い。まさに障壁と闘っているのである。"
ここから私は思いました
1、逸脱は「ズレ」ではなく「兆し」
2、ルールの外側に、ニーズが先にある
3、制御できない欲求が、市場を動かす
1、逸脱は「ズレ」ではなく「兆し」
この「不常識な顧客」という言葉は、本田宗一郎さんが使われていたそうですが、このような存在を認識したら、つい排除することを考えてしまうのではないかと思います
でも少し見方を変えると、彼らは単なる問題児ではなくて、既存の設計と現実の欲求のズレを最も強く体現している人たちでもあるということなのかもしれないと思いました
経営学者のエリック・フォン・ヒッペルが、イノベーションの多くは「リードユーザー」から生まれると言っているように、
まだ市場が気づいていないニーズを、先に体験している人たちということなのかもしれない
つまり逸脱しているのではなくて、未来にズレている。
そう考えると、この違和感は、何かの兆しなのか?と捉える発想を持っておく必要があるなあと思いました。
2、ルールの外側に、ニーズが先にある
ルールというのは、過去の最適解の積み重ねでできていますので、
だからこそ、それを超えようとする行為は、単なる反抗ではなく、新しい使い方の提案でもあるということなのかもしれない
決してルールの逸脱を奨励するものではなく、もしかして、ルール自体が時代についていけていないのでは?と一瞬考えてみることも必要かと思いました
社会学者のミシェル・ド・セルトーは、人は与えられた制度の中でも「勝手に使い方を変えていく」と語っています。
制度が上から設計するのに対して、生活者は下から意味を作り替えていく、ものであると
ここのギャップがあるところが、実はイノベーションにおける種の可能性があると言ってもいいのかもしれないなあと思いました
3、制御できない欲求が、市場を動かす
ただし、この欲求の強さが大きすぎると、ときに社会問題になるほどのエネルギーを持ってしまうこともあるかと思います
経済学者のヨーゼフ・シュンペーターが言う「創造的破壊」も、まさにこういう制御不能な力から生まれているのかもしれません
長い目で見ると既存の秩序を壊しながら、新しい秩序をつくっていく力が必ず起きる。
企業側がいくらコントロールしようとしても、止めきれない流れである場合もあるかもしれません
そして、止めながらも、さらに、その流れをどう受け止めるかが問われているような気がしました
不常識な顧客は、ある意味破壊者であるかもしれませんが、
同時に、まだ言語化されていない未来を、自らが率先して先に試している人たちでもあるのかもしれません。
一言でいうと、
「不常識は、未来の使い方の先行実験」かもしれない
不常識ノベーション
そんな話をしています
参考:本: 顧客ニーズを射抜く 学び上手な企業の戦略思考 電子書籍データ作成日 2026年2月10日 第1版 著者 藤原雅俊・伊丹敬之 発行 株式会社日経BP
動画で観たい方はこちら
https://youtu.be/NjB8yfRn2cg
映画『ウィキッド 永遠の約束』は、期待をはるかに超えて、大号泣と感動の嵐でした。プログラムから、監督、ジョン・M・チュウさんの言葉に、"仲間"の存在について考えさせられました
曰く
「ふたりの世界観が完全に対立し、どちらかが相手を倒さなければならなくなるのです。そうした状況での友情とは?
同時に本作で描かれるのは自らの人生を守りたいという気持ちと、人を愛する気持ちとのせめぎ合いです。そこに善悪の葛藤も加わります。
本来の自分になる勇気を愛する友が持てずにいる時、どの時点で助けるのか。それとも見捨てるのか。
本作ではこうした疑問が友情の醜さと美しさの中に描かれています。どこか悲しくて、ほろ苦い友情を通してね。
そして、美しい歌とダンスを通じて描かれるのは、ふたりの女性の成長と真実を知った時の姿です」
ここから私は思いました
1、対立が関係を深める
2、相手をそのまま受け入れられるか
3、二度と会えなくても続く友情とは
1、対立が関係を深める
実は、ぶつかることは、関係の終わりではないのかもしれないなあと思いました。
むしろ、ぶつかることで、初めて相手の輪郭がはっきり見えてくることもあるなあと
ドイツの社会学者・哲学者のゲオルク・ジンメルは『社会学』の中で、「対立」や「闘争」をネガティブなものとしてだけでなく、関係を生み出し、維持する力として捉えてます。
良い魔女と悪い魔女と、レッテルを貼られた2人は、何度も対立をせざるを得ない状況に追い込まれながらも
さらに強く強固な友情が生まれていった、そのことを思うと、個人や組織や国の対立、紛争も
だからこそ分かり合える、良い機会が訪れていると、ポジティブに捉えることで、新たな道筋を描くこともできるかもそれない
そんなことを教えてくれてるような気がしました
2、相手をそのまま受け入れられるか
相手が何か間違ってることをしてると思う時、相手を思うほど、「変わってほしい」と願ってしまうことがあるなあと思います
でも、それは本当に相手のためなのか、少し立ち止まって考えたくなりました
臨床心理学者のカール・ロジャーズは、人は本来、自ら成長しようとする力(自己実現傾向)を持っていると主張し、
その成長を支えるために重要な一つが、無条件の肯定的関心(相手をそのまま受け入れる)ことにあると言われてます。
仲間や例えば子供についても、手を差し伸べることも必要ですが、その人のままでいることを認めることもまた必要なのかもしれない
相手を変えることではなく、
相手が自分で選ぶことを信じられるかどうか。
本当の仲間としてどう接すべきなのか、とても難しいけれども、問い続けなければいけないなあと思いました
3、二度と会えなくても続く友情とは
物理的に会えなくなることが、友情の終わりだとは限らない。そんなメッセージを頂いた気がしました
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは『星の王子さま』の中で、「大切なものは、目に見えない」と有名な言葉を語っています
それは、距離や時間では測れない友情の在り方も示してくれているような気がします
一緒に過ごした時間が終わっても、それまで懸命に本気でぶつかり合い、対立し合った、その人との関係は、必ず自分の中に残り続ける。
いま、会えないという事実よりも、
どう関わり、何を受け取ったか。
それは、目に見えない大切な物として、残り続けている
それこそが本当の友情、仲間、繋がり、そんなことを教えて頂いた気がしました
対立しても、ぶつかっても、二度と会えなくなってても
自分の中に残っていたら、それは、きっと本当の関係だったということ
一言でいうと、仲間とは、友情とは、ぶつかり合った分だけ、距離や時間を超えて、自分の中に生き続けるものなのかもしれない
対立するからこそノベーション
そんなことを思わせて頂きました
参考:映画 Wicked 永遠の約束 出演:シンシア・エリヴォ アリアナ・グランデ他 監督:ジョン・M・チュウ 脚本:ウィニー・ホルツマン and ウィニー・ホルツマン&デイナ・フォックス 製作:マーク・プラット デイヴィッド・ストーン 原作:ミュージカル劇「ウィキッド」〈作詞・作曲:スティーヴン・シュワルツ 脚本:ウィニー・ホルツマン〉 / グレゴリー・マグワイアの原作小説に基づく https://wicked-movie.jp
このミステリーがすごい大賞で、文庫本グランプリの四島祐之介(ししまゆうのすけ)さんの「アナヅラさま」に、人の心の業をかんがえさせられました。
Amazon書籍購入の冒頭文より
"顔にぽっかり穴のあいたバケモノが人を攫って、穴の中に吞み込んでしまう。バケモノの名は「アナヅラさま」。
――ある地方都市で女性が相次いで行方不明になるなか、そんな噂が囁かれるようになった。行方不明者の捜索依頼を受けた探偵・小鳥遊穂香(たかなしほのか)は、都市伝説の裏に連続殺人鬼がいると睨み、調査を進めるが……。"
ここから私は思いました
1、自分の中にあるアナ
2、「見たくないもの」は物語にある
3、わからないまま向き合えるか
1、自分の中にあるアナ
「アナヅラさま」は、ただの怪物というよりも、
人の内側にある何かが形になった存在のようにも思えました
心理学者のカール・ユングは、
人の無意識の中に「影(シャドウ)」があると言われています
それは、自分では認めたくない感情や衝動のこと
だから怪物が怖いのは、
それが自分の中にあるものと、どこか共鳴してしまうところがあるのかもしれないなあと思いました
イノベーションも
見たくない違和感や不安の中にこそ、新しい問いの種があると思います
心地よいものだけを見ていると、変化は生まれにくい。
少し目を背けたくなるものに、真の課題がある。
改めてそんなことを気づかせていただきました
2、「見たくないもの」は物語にある
今回のお話で象徴的なのは、都市伝説という形をとって、何か不気味なもの迫ってきている感覚が、どきどきを後押しして頂いた気がしました
民俗学者の柳田國男は、
『遠野物語』の中で、怪異や伝承を通して人々の不安や価値観を描き出されたように
物語が、その時代の人たちが言葉にできないものを、代わりに語ってくれる存在、ということがあると思いました
「アナヅラさま」は、もしかしたら
誰もが感じている、溜め込んでいる何かをどこかに捨ててしまってスッキリしたい、そんな気持ちが、形になったものなのかもしれないなあと思いました
実は、イノベーションのヒントとして、表には出ていないけれども、都市伝説や、なぜか流布する物語の中に、
誰もが感とはているけれども言葉にできない、本当の気持ちみたいなものがあって
そこに、新しい価値の入り口があるということも、ありうるのかもなあと思いました。
3、わからないまま向き合えるか
都市伝説の怪物の話などに出会うと
どうしても「正体をはっきりさせたい」と思うけれども、なかなかそこに辿り着くことはできない
本当なのかもしれないし、単なる作り話なのかもしれないモヤモヤ感があると思います
だからと言って、そんなのあるわけないじゃん、で切り捨ててしまっていいのか、ということも考える必要がある気がしました
エマニュエル・レヴィナスが
理解できない他者とどう向き合うかを、問われていたように
理解できない前提で、でも問い続けるということは続けるという姿勢が、イノベーションにもとても大切なことだと改めて思いました
すぐに答えを出すよりも、
違和感や不気味さを、そのまま持ち続けながら、問い続ける
そこから、新しい価値が生まれてくる、そんなことを思い出させていただきました
ということで一言でいうと、
アナヅラさまノベーション
それは、誰の心にもあるけれども、表には出てないこと
都市伝説などの物語の中に、何らかの真実が隠されているのかもしれないこと
そして、それらを、問い続けること、そんなイノベーションにつながるお話だったなあと
思われていただきました
そんな話をしています
参考:本:アナヅラさま 配信日 2026年2月4日 著者 四島祐之介 発行所 株式会社 宝島社
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