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「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」マタイの福音書 7章15~29節
預言者
用心せよ→一見見分けがつかない。すぐには分からない。
偽預言者の主張=
主イエスの答え=
何が問題なのか?
天におられるわたしの父の御心を行うものが天の御国に入る
天の御国=神の支配
天の御国は死んでから行くところではなく、この地にやって来るもの
天の御国に入る
「幸いなるかな!心(霊)の貧しい者!天の御国は彼らのものだ!」マタイ5:3
山上の説教の教えの中心
父なる神との1対1の関係の重要性
・あなたがたの天の父を信頼せよ
ルカの福音書 17章7~10節
主イエスは、正しい預言をなし、悪霊を追い出し、病を癒し、多くの奇跡を行った。しかし、父なる神様からそれについての報酬を得ようなどとは思われなかった。
・主イエスが受けた報酬は、十字架であった。
ピリピ人への手紙 2章6~11節
この主イエスが、私たちを天の支配、神の国に招き入れ、神の子としてくださる。
・霊の貧しい者として生きよ。
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」 7章24~27節
ヨハネの福音書 15章7~8節
律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられた。
権威ある教え=言葉が現実を動かす。言葉が現実となる
イザヤ書 55章10~11節
キリストという動かぬ岩の上に、私たちの存在が建てあげられる。
「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」イザヤ書9:7
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。マタイの福音書 7章13~14節
人生は選択の連続と言われる
広い道(多くの人が通る)→滅び
見出すものが少ないのなら、そもそもどうやって選択すれば良いのか?
“シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
→自分の意志と決心で狭い門を通ることはできない
選んでいるのか?
自分の存在に関わる最重要事項
私たちにできることはそれに応答すること
滅びに至る広い門vs.いのちに至る狭い門
「わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」イザヤ書 41章9~10節
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」ヨハネの福音書 15章16節
「トマスはイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。』
「そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。・・・わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。・・・わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」
「私の霊が私のうちで衰え果てたときにもあなたは私の道をよく知っておられます。私が歩くその道に彼らは罠を仕掛けています。」詩篇 142篇3節
「ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。
“イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。”マタイの福音書 1章18~25節
当時の婚約=結婚と同じ法的制約
婚約中に婚約者が死亡→未亡人として登録
マリアにも姦淫の罪の嫌疑
ヨセフの思慮=如何にしてマリアを救うか
インマヌエル 神が私たちと共におられる
im 共に
神が私と共に インミエル または インマディエル
ヒゼキヤ 主は強める
なぜ、イエスは「インマルエル」(神は我らと共におられる)と呼ばれたのか?
これを理解する鍵:
“主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」”出エジプト記 33章1~5節
紀元前1900年頃 イスラエルのエジプト移住
モーセの命がけの嘆願
幕屋の機能
そのほか、香やパンの捧げ物
捧げ物→神様との関係の回復
イエスが「インマヌエル」と呼ばれた理由
イエス自身が完全な捧げ物となった
ヘブル10:10
10:14
“さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは何もありません。」マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。”ルカの福音書 1章26~56節
聖霊への言及
マタイの福音書 5回
歴史的価値が最も高い「ルカの福音書」と「使徒の働き」を合わせると著者ルカは56回聖霊に言及している。
聖書にはマリアの親についての言及がない
マリアは恐らく孤児
マリアはどのような心境だったのか?
当時の婚約=結婚と同じ法的制約
婚約中に婚約者が死亡→未亡人として登録
マリアにも姦淫の罪の嫌疑
しかし、マリアは恐れによって縮こまってはいなかった。
マリアに与えられた強い聖霊体験
“マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
(egalliasen:過去形)
マリアは、自分の体に聖霊が激しく臨み、それまでの自分の体ではなくなる経験をした。
聖霊に満たされたマリアの到着
聖霊が救いの計画を実行
聖霊によるマリア懐妊
聖霊が鳩のようにイエスの上に留まる
イエスの十字架と復活の後
“聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。”マタイの福音書 7章6~12節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
犬=異邦人、神を知らぬ者
イエスの宣教の範囲=イスラエルの中に限定
“イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。”マタイの福音書 10章5~8節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
“また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。”マタイの福音書 18章15~17節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
“イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。”マタイの福音書 15章21~28節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
“それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。”マタイの福音書 15章29~37節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
求めよ。そうすれば与えられる。
人間の行為だけを聖書は問題とするのか?
“そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」”創世記 3章8~9節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
“あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。”マタイの福音書 18章12~13節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
“見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”ヨハネの黙示録 3章20節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
“ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」”ルカの福音書 11章13節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
愛は分離しない
マタイの福音書第7章1節〜5節
岩本遠億牧師
2019年11月17日
さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。マタイの福音書 7章1~5節
さばく krino=選ぶ、区別する、分離する→判断する、裁く、
×判断の放棄
人間の罪の根源=自分が善悪の基準
自分=善、正しい
あなた=悪、間違っている
裁く=分離する→私は上、あなたは下
人を排除する
キリストの平和教会の基本方針
・人の批判をしない
・その場にいない人の噂話をしない
人を批判するときの基準は何か?
・自分の気持ち
・社会規範、社会的常識
・聖書の言葉(解釈)・・・これが一番厄介
人を批判する動機は何か?
・教えてやろう・・・上から目線、支配欲
“信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。”ローマ人への手紙 14章1~9節
ローマ教会内の対立:肉を食べるか否か
市場に売っている肉:一旦偶像の宮に捧げたもの
信仰の強い人:偶像に供えた肉を食べても偶像崇拝に加担することにはならないと考える人。
信仰の弱い人:偶像に供えた肉を食べると偶像崇拝に加担することになると考える人。
どうやったら兄弟の目の中の塵を取り除けるのか?
兄弟と一つになることによって
=自分の基準を放棄することによって可能
仕えることによって
弟子たちの足を洗った主イエス
兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いを自分よりも優れた者として尊敬しなさい。ローマ12:10
優れた者
×能力が優れている
○身分が上
一人一人の心の中に植え付けられている神の言葉に信頼する。
またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」 マルコの福音書 4章26~29節
全てを包み込んで「然り」とする主イエスを信頼する。見上げる。
「私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束はことごとく、この方において『然り』となったからです。それで、私たちは、この方を通して神に『アーメン』と唱え、栄光を帰するのです。」コリントの信徒への手紙 二 1章19~20節(共同訳)
自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。
ルカの福音書12章13~34節
詩篇第23篇
あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食していることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。誠に、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。断食をするときには頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたがたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたがたの父が報いてくださいます。マタイの福音書第6章16節〜18節
当時のイスラエル人の義務
主イエスご自身も施しを推奨し、祈り、断食を行われた。
何を問題となさったのか?
当時の社会状況を知ることが必要
第一神殿以前:
第一神殿時代(紀元前10世紀〜紀元前6世紀)
第二神殿時代(バビロン捕囚(紀元前6世紀)以降)
新約時代のイスラエルは、律法だけでなく、種々の律法の解釈、言い伝えを守ることが社会的な規範となっていた。
信仰が個人の内的な問題ではなく、社会的な名誉と結びつく。
聖書における断食
新約時代に追加された断食日
断食の方法
粗布を着て、灰をかぶる:悲しみと懺悔を表す
ルカの福音書 18章10~14節
マタイの福音書 9章14~15節
現代のキリスト教会に当てはめると
隠れた神様との関係だけに真がある
私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』マタイの福音書 6章9~13節
分配法則 A ×(B + C)=A×B + A×C
主の祈り=主イエスの集団の祈り
○私たちの父よ ×私の父よ
「私たちの天の父」という言葉によって思い浮かぶ人
私たちの天のお父様。御国が来ますように。
「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」マタイの福音書 12章28節
「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。『神の国は、目に見える形で来るものではありません。「見よ、ここだ」とか、「あそこだ」とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。』」ルカの福音書 17章20~21節
私たちの天のお父様。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
自分が最善と思うことが実現することが御心か?
私が最善と思うことと、あなたが最善と思うことの間に不一致がある。私が昨日最善と思ったことと、今日最善と思うことの間に不一致があることもある。
私たちの天の父の御心を求める
私たちの天のお父様。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。(赦したように)
負い目=罪
最大の罪=「神はいない」と心の中で思うこと
自分に都合が良ければ、神はいると思い、
「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」
私たちの天のお父様
私たちと私たちに罪を犯すものも、あなたの子。
主イエスの伝道生涯
神様、あなたを否定する罪を赦して下さい。
私たちの天のお父様。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。
試み/試練=神様を否定させようとする力
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカの福音書 22章31~32節
「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」
『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』マタイの福音書 6章9~13節
○私たちの父よ ×私の父よ
「私たちの天の父」という言葉によって思い浮かぶ人
=あなたによって神の国がもたらされる人
マタイの福音書 5章23~24節
“ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。”
ネヘミヤ記 1章4~7節
“このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。「ああ、天の神、主よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちはあなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった、命令も掟も定めも守りませんでした。”
「だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。」
コリント人への手紙 第二 11章29節
ヨハネの福音書 17章20~23節
“わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。”
御名が聖なるものとされますように。
神の御名は私たちが祈らなくても「聖」。なぜ、このように祈ることを教えられたのか?
マザー・テレサの」祈り 『自分より他人を』
「主よ、私が空腹を覚えるとき、パンを分ける相手に出会わせてください。
のどが渇くとき、飲み物を分ける相手に出会えますように。
寒さを感じるとき、暖めてあげる相手に出会わせてください。
不愉快になるとき、喜ばせる相手に出会えますように。
私の十字架が重く感じられるとき、だれかの重荷を背負ってあげられますように。
貧しくなるとき、貧しい人に出会わせてください。
ひまがなくなるとき、時間を割いてあげる相手に出会えますように。
私が屈辱を味わうとき、だれかを褒めてあげられますように。
気が滅入るとき、だれかを力づけてあげられますように。
理解してもらいたいとき、理解してあげる相手に出会えますように。
かまってもらいたいとき、かまってあげる相手に出会わせてください。
私が自分のことしか頭にないとき、私の関心が他人にも向きますように。
空腹と貧困の中に生き、そして死んでいく世の兄弟姉妹に奉仕するに値する者となれますように。
主よ、私をお助けください。
主よ、私たちの手をとおして日ごとのパンを今日彼らにお与えください。
私たちの思いやりをとおして、 主よ、彼らに平和と喜びを与えください。」
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