朗読少年

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朗読少年 episodes

  • 宮沢賢治 オッベルと象 第一日曜
    ……ある牛飼うしかいがものがたる
    第一日曜
     オツベルときたら大したもんだ。稲扱いねこき器械の六台も据すえつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。
     十六人の百姓ひゃくしょうどもが、顔をまるっきりまっ赤にして足で踏ふんで器械をまわし、小山のように積まれた稲を片っぱしから扱こいて行く。藁わらはどんどんうしろの方へ投げられて、また新らしい山になる。そこらは、籾もみや藁から発たったこまかな塵ちりで、変にぼうっと黄いろになり、まるで沙漠さばくのけむりのようだ。
     そのうすくらい仕事場を、オツベルは、大きな琥珀こはくのパイプをくわえ、吹殻ふきがらを藁に落さないよう、眼めを細くして気をつけながら、両手を背中に組みあわせて、ぶらぶら往いったり来たりする。
     小屋はずいぶん頑丈がんじょうで、学校ぐらいもあるのだが、何せ新式稲扱器械が、六台もそろってまわってるから、のんのんのんのんふるうのだ。中にはいるとそのために、すっかり腹が空すくほどだ。そしてじっさいオツベルは、そいつで上手に腹をへらし、ひるめしどきには、六寸ぐらいのビフテキだの、雑巾ぞうきんほどあるオムレツの、ほくほくしたのをたべるのだ。
     とにかく、そうして、のんのんのんのんやっていた。
     そしたらそこへどういうわけか、その、白象がやって来た。白い象だぜ、ペンキを塗ぬったのでないぜ。どういうわけで来たかって? そいつは象のことだから、たぶんぶらっと森を出て、ただなにとなく来たのだろう。
     そいつが小屋の入口に、ゆっくり顔を出したとき、百姓どもはぎょっとした。なぜぎょっとした? よくきくねえ、何をしだすか知れないじゃないか。かかり合っては大へんだから、どいつもみな、いっしょうけんめい、じぶんの稲を扱いていた。
     ところがそのときオツベルは、ならんだ器械のうしろの方で、ポケットに手を入れながら、ちらっと鋭するどく象を見た。それからすばやく下を向き、何でもないというふうで、いままでどおり往ったり来たりしていたもんだ。
     するとこんどは白象が、片脚かたあし床ゆかにあげたのだ。百姓どもはぎょっとした。それでも仕事が忙いそがしいし、かかり合ってはひどいから、そっちを見ずに、やっぱり稲を扱いていた。
     オツベルは奥おくのうすくらいところで両手をポケットから出して、も一度ちらっと象を見た。それからいかにも退屈たいくつそうに、わざと大きなあくびをして、両手を頭のうしろに組んで、行ったり来たりやっていた。ところが象が威勢いせいよく、前肢まえあし二つつきだして、小屋にあがって来ようとする。百姓どもはぎくっとし、オツベルもすこしぎょっとして、大きな琥珀のパイプから、ふっとけむりをはきだした。それでもやっぱりしらないふうで、ゆっくりそこらをあるいていた。
     そしたらとうとう、象がのこのこ上って来た。そして器械の前のとこを、呑気のんきにあるきはじめたのだ。
     ところが何せ、器械はひどく廻まわっていて、籾もみは夕立か霰あられのように、パチパチ象にあたるのだ。象はいかにもうるさいらしく、小さなその眼を細めていたが、またよく見ると、たしかに少しわらっていた。
     オツベルはやっと覚悟かくごをきめて、稲扱いねこき器械の前に出て、象に話をしようとしたが、そのとき象が、とてもきれいな、鶯うぐいすみたいないい声で、こんな文句を云いったのだ。
    「ああ、だめだ。あんまりせわしく、砂がわたしの歯にあたる。」
     まったく籾は、パチパチパチパチ歯にあたり、またまっ白な頭や首にぶっつかる。
     さあ、オツベルは命懸いのちがけだ。パイプを右手にもち直し、度胸を据えて斯こう云った。
    「どうだい、此処ここは面白おもしろいかい。」
    「面白いねえ。」象がからだを斜ななめにして、眼を細くして返事した。
    「ずうっとこっちに居たらどうだい。」
     百姓どもははっとして、息を殺して象を見た。オツベルは云ってしまってから、にわかにがたがた顫ふるえ出す。ところが象はけろりとして
    「居てもいいよ。」と答えたもんだ。
    「そうか。それではそうしよう。そういうことにしようじゃないか。」オツベルが顔をくしゃくしゃにして、まっ赤になって悦よろこびながらそう云った。
     どうだ、そうしてこの象は、もうオツベルの財産だ。いまに見たまえ、オツベルは、あの白象を、はたらかせるか、サーカス団に売りとばすか、どっちにしても万円以上もうけるぜ。
    7 min
  • 宮沢賢治 ありときのこ
    苔こけいちめんに、霧きりがぽしゃぽしゃ降ふって、蟻ありの歩哨ほしょうは鉄てつの帽子ぼうしのひさしの下から、するどいひとみであたりをにらみ、青く大きな羊歯しだの森の前をあちこち行ったり来たりしています。
     向むこうからぷるぷるぷるぷる一ぴきの蟻ありの兵隊へいたいが走って来ます。
    「停とまれ、誰だれかッ」
    「第だい百二十八聯隊れんたいの伝令でんれい!」
    「どこへ行くか」
    「第五十聯隊 聯隊本部ほんぶ」
     歩哨はスナイドル式しきの銃剣じゅうけんを、向むこうの胸むねに斜ななめにつきつけたまま、その眼めの光りようや顎あごのかたち、それから上着うわぎの袖そでの模様もようや靴くつのぐあい、いちいち詳くわしく調しらべます。
    「よし、通れ」
     伝令はいそがしく羊歯しだの森のなかへはいって行きました。
     霧きりの粒つぶはだんだん小さく小さくなって、いまはもう、うすい乳ちちいろのけむりに変かわり、草や木の水を吸すいあげる音は、あっちにもこっちにも忙いそがしく聞こえだしました。さすがの歩哨もとうとうねむさにふらっとします。
     二疋ひきの蟻ありの子供こどもらが、手をひいて、何かひどく笑わらいながらやって来ました。そしてにわかに向むこうの楢ならの木の下を見てびっくりして立ちどまります。
    「あっ、あれなんだろう。あんなところにまっ白な家ができた」
    「家じゃない山だ」
    「昨日はなかったぞ」
    「兵隊へいたいさんにきいてみよう」
    「よし」
     二疋の蟻は走ります。
    「兵隊さん、あすこにあるのなに?」
    「なんだうるさい、帰れ」
    「兵隊さん、いねむりしてんだい。あすこにあるのなに?」
    「うるさいなあ、どれだい、おや!」
    「昨日はあんなものなかったよ」
    「おい、大変たいへんだ。おい。おまえたちはこどもだけれども、こういうときには立派りっぱにみんなのお役やくにたつだろうなあ。いいか。おまえはね、この森をはいって行ってアルキル中佐ちゅうさどのにお目にかかる。それからおまえはうんと走って陸地測量部りくちそくりょうぶまで行くんだ。そして二人ともこう言いうんだ。北緯ほくい二十五度ど東経とうけい六厘りんの処ところに、目的もくてきのわからない大きな工事こうじができましたとな。二人とも言ってごらん」
    「北緯ほくい二十五度ど東経とうけい六厘りんの処ところに目的もくてきのわからない大きな工事こうじができました」
    「そうだ。では早く。そのうち私は決けっしてここを離はなれないから」
     蟻ありの子供こどもらはいちもくさんにかけて行きます。
     歩哨ほしょうは剣をかまえて、じっとそのまっしろな太い柱はしらの、大きな屋根やねのある工事をにらみつけています。
     それはだんだん大きくなるようです。だいいち輪廓りんかくのぼんやり白く光ってぶるぶるぶるぶるふるえていることでもわかります。
     にわかにぱっと暗くらくなり、そこらの苔こけはぐらぐらゆれ、蟻ありの歩哨ほしょうは夢中むちゅうで頭をかかえました。眼めをひらいてまた見ますと、あのまっ白な建物たてものは、柱が折おれてすっかり引っくり返かえっています。
     蟻の子供らが両方りょうほうから帰ってきました。
    「兵隊へいたいさん。かまわないそうだよ。あれはきのこというものだって。なんでもないって。アルキル中佐ちゅうさはうんと笑わらったよ。それからぼくをほめたよ」
    「あのね、すぐなくなるって。地図に入れなくてもいいって。あんなもの地図に入れたり消けしたりしていたら、陸地測量部りくちそくりょうぶなど百あっても足りないって。おや! 引っくりかえってらあ」
    「たったいま倒たおれたんだ」歩哨は少しきまり悪わるそうに言いいました。
    「なあんだ。あっ。あんなやつも出て来たぞ」
     向むこうに魚の骨ほねの形をした灰はいいろのおかしなきのこが、とぼけたように光りながら、枝えだがついたり手が出たりだんだん地面じめんからのびあがってきます。二疋ひきの蟻ありの子供らは、それを指ゆびさして、笑わらって笑って笑います。
     そのとき霧きりの向むこうから、大きな赤い日がのぼり、羊歯しだもすぎごけもにわかにぱっと青くなり、蟻の歩哨ほしょうは、またいかめしくスナイドル式銃剣しきじゅうけんを南の方へ構かまえました。
    7 min
  • 宮沢賢治 なめとこ山の熊 そのニ
    小十郎が谷をばちゃばちゃ渉わたって一つの岩にのぼったらいきなりすぐ前の木に大きな熊が猫ねこのようにせなかを円くしてよじ登っているのを見た。小十郎はすぐ鉄砲をつきつけた。犬はもう大悦おおよろこびで木の下に行って木のまわりを烈はげしく馳はせめぐった。
     すると樹の上の熊はしばらくの間おりて小十郎に飛びかかろうかそのまま射うたれてやろうか思案しているらしかったがいきなり両手を樹からはなしてどたりと落ちて来たのだ。小十郎は油断なく銃を構えて打つばかりにして近寄って行ったら熊は両手をあげて叫んだ。
    「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
    「ああ、おれはお前の毛皮と、胆きものほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」
    「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」
     小十郎は変な気がしてじっと考えて立ってしまいました。熊はそのひまに足うらを全体地面につけてごくゆっくりと歩き出した。小十郎はやっぱりぼんやり立っていた。熊はもう小十郎がいきなりうしろから鉄砲を射ったり決してしないことがよくわかってるというふうでうしろも見ないでゆっくりゆっくり歩いて行った。そしてその広い赤黒いせなかが木の枝の間から落ちた日光にちらっと光ったとき小十郎は、う、うとせつなそうにうなって谷をわたって帰りはじめた。それからちょうど二年目だったがある朝小十郎があんまり風が烈しくて木もかきねも倒れたろうと思って外へ出たらひのきのかきねはいつものようにかわりなくその下のところに始終見たことのある赤黒いものが横になっているのでした。ちょうど二年目だしあの熊がやって来るかと少し心配するようにしていたときでしたから小十郎はどきっとしてしまいました。そばに寄って見ましたらちゃんとあのこの前の熊が口からいっぱいに血を吐いて倒れていた。小十郎は思わず拝むようにした。
     一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。
    「婆ばさま、おれも年老とったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌やんたよな気するじゃ」
     すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母はその見えないような眼をあげてちょっと小十郎を見て何か笑うか泣くかするような顔つきをした。小十郎はわらじを結えてうんとこさと立ちあがって出かけた。子供らはかわるがわる厩うまやの前から顔を出して「爺じさん、早ぐお出でや」と言って笑った。小十郎はまっ青なつるつるした空を見あげてそれから孫たちの方を向いて「行って来るじゃぃ」と言った。
     小十郎はまっ白な堅雪の上を白沢の方へのぼって行った。
     犬はもう息をはあはあし赤い舌を出しながら走ってはとまり走ってはとまりして行った。間もなく小十郎の影は丘の向うへ沈んで見えなくなってしまい子供らは稗ひえの藁わらでふじつきをして遊んだ。
     小十郎は白沢の岸を溯のぼって行った。水はまっ青に淵ふちになったり硝子ガラス板をしいたように凍ったりつららが何本も何本もじゅずのようになってかかったりそして両岸からは赤と黄いろのまゆみの実が花が咲いたようにのぞいたりした。小十郎は自分と犬との影法師がちらちら光り樺かばの幹の影といっしょに雪にかっきり藍あいいろの影になってうごくのを見ながら溯って行った。
     白沢から峯を一つ越えたとこに一疋の大きなやつが棲すんでいたのを夏のうちにたずねておいたのだ。
     小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって溯って行った。そこに小さな滝があった。小十郎はその滝のすぐ下から長根の方へかけてのぼりはじめた。雪はあんまりまばゆくて燃えているくらい。小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡めがねをかけたような気がして登って行った。犬はやっぱりそんな崖がけでも負けないというようにたびたび滑りそうになりながら雪にかじりついて登ったのだ。やっと崖を登りきったらそこはまばらに栗の木の生えたごくゆるい斜面の平らで雪はまるで寒水石という風にギラギラ光っていたしまわりをずうっと高い雪のみねがにょきにょきつったっていた。小十郎がその頂上でやすんでいたときだ。いきなり犬が火のついたように咆ほえ出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼をつけておいた大きな熊が両足で立ってこっちへかかって来たのだ。
     小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のような両手をびっこにあげてまっすぐに走って来た。さすがの小十郎もちょっと顔いろを変えた。
     ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐あらしのように黒くゆらいでやって来たようだった。犬がその足もとに噛かみ付いた。と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
    「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
     もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
    「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
     とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光りんこうをあげた。すばるや参しんの星が緑や橙だいだいにちらちらして呼吸をするように見えた。
     その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環わになって集って各々黒い影を置き回々フイフイ教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸しがいが半分座ったようになって置かれていた。
     思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴さえ冴ざえして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。
    13 min
  • 宮沢賢治 なめとこ山の熊 その一
    なめとこ山の熊くまのことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢ふちざわ川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴ほらあなががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。
     中山街道はこのごろは誰たれも歩かないから蕗ふきやいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁にげて登らないように柵さくをみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の胆いも私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の胆いは名高いものになっている。
     腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆いありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲なぐりあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。
     淵沢小十郎はすがめの赭黒あかぐろいごりごりしたおやじで胴は小さな臼うすぐらいはあったし掌てのひらは北島の毘沙門びしゃもんさんの病気をなおすための手形ぐらい大きく厚かった。小十郎は夏なら菩提樹マダの皮でこさえたけらを着てはむばきをはき生蕃せいばんの使うような山刀とポルトガル伝来というような大きな重い鉄砲をもってたくましい黄いろな犬をつれてなめとこ山からしどけ沢から三つ又からサッカイの山からマミ穴森から白沢からまるで縦横にあるいた。木がいっぱい生えているから谷を溯のぼっているとまるで青黒いトンネルの中を行くようで時にはぱっと緑と黄金きんいろに明るくなることもあればそこら中が花が咲いたように日光が落ちていることもある。そこを小十郎が、まるで自分の座敷の中を歩いているというふうでゆっくりのっしのっしとやって行く。犬はさきに立って崖がけを横這よこばいに走ったりざぶんと水にかけ込んだり淵ののろのろした気味の悪いとこをもう一生けん命に泳いでやっと向うの岩にのぼるとからだをぶるぶるっとして毛をたてて水をふるい落しそれから鼻をしかめて主人の来るのを待っている。小十郎は膝ひざから上にまるで屏風びょうぶのような白い波をたてながらコンパスのように足を抜き差しして口を少し曲げながらやって来る。そこであんまり一ぺんに言ってしまって悪いけれどもなめとこ山あたりの熊は小十郎をすきなのだ。その証拠には熊どもは小十郎がぼちゃぼちゃ谷をこいだり谷の岸の細い平らないっぱいにあざみなどの生えているとこを通るときはだまって高いとこから見送っているのだ。木の上から両手で枝にとりついたり崖の上で膝をかかえて座ったりしておもしろそうに小十郎を見送っているのだ。まったく熊どもは小十郎の犬さえすきなようだった。けれどもいくら熊どもだってすっかり小十郎とぶっつかって犬がまるで火のついたまりのようになって飛びつき小十郎が眼めをまるで変に光らして鉄砲をこっちへ構えることはあんまりすきではなかった。そのときは大ていの熊は迷惑そうに手をふってそんなことをされるのを断わった。けれども熊もいろいろだから気の烈はげしいやつならごうごう咆ほえて立ちあがって、犬などはまるで踏みつぶしそうにしながら小十郎の方へ両手を出してかかって行く。小十郎はぴったり落ち着いて樹きをたてにして立ちながら熊の月の輪をめがけてズドンとやるのだった。すると森までががあっと叫んで熊はどたっと倒れ赤黒い血をどくどく吐き鼻をくんくん鳴らして死んでしまうのだった。小十郎は鉄砲を木へたてかけて注意深くそばへ寄って来てこう言うのだった。
    「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射うたなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰たれも相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」
     そのときは犬もすっかりしょげかえって眼を細くして座っていた。
     何せこの犬ばかりは小十郎が四十の夏うち中みんな赤痢せきりにかかってとうとう小十郎の息子とその妻も死んだ中にぴんぴんして生きていたのだ。
     それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎あごのとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆いをせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。
     小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした。ある年の春はやく山の木がまだ一本も青くならないころ小十郎は犬を連れて白沢をずうっとのぼった。夕方になって小十郎はばっかぃ沢へこえる峯みねになった処ところへ去年の夏こさえた笹小屋ささごやへ泊ろうと思ってそこへのぼって行った。そしたらどういう加減か小十郎の柄にもなく登り口をまちがってしまった。
     なんべんも谷へ降りてまた登り直して犬もへとへとにつかれ小十郎も口を横にまげて息をしながら半分くずれかかった去年の小屋を見つけた。小十郎がすぐ下に湧水わきみずのあったのを思い出して少し山を降りかけたら愕おどろいたことは母親とやっと一歳になるかならないような子熊と二疋ひきちょうど人が額に手をあてて遠くを眺ながめるといったふうに淡い六日の月光の中を向うの谷をしげしげ見つめているのにあった。小十郎はまるでその二疋の熊のからだから後光が射すように思えてまるで釘付くぎづけになったように立ちどまってそっちを見つめていた。すると小熊が甘えるように言ったのだ。
    「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」
     すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。
    「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの」
     子熊はまた言った。
    「だから溶けないで残ったのでしょう」
    「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」
     小十郎もじっとそっちを見た。
     月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧よろいのように光っているのだった。しばらくたって子熊が言った。
    「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」
     ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃コキエもあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。
    「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」
    「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」
    「いいえ、お前まだ見たことありません」
    「知ってるよ、僕この前とって来たもの」
    「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう」
    「そうだろうか」子熊はとぼけたように答えました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。風があっちへ行くな行くなと思いながらそろそろと小十郎は後退あとずさりした。くろもじの木の匂においが月のあかりといっしょにすうっとさした。
     ところがこの豪儀な小十郎がまちへ熊の皮と胆きもを売りに行くときのみじめさといったら全く気の毒だった。
     町の中ほどに大きな荒物屋があって笊ざるだの砂糖だの砥石といしだの金天狗きんてんぐやカメレオン印の煙草たばこだのそれから硝子ガラスの蠅はえとりまでならべていたのだ。小十郎が山のように毛皮をしょってそこのしきいを一足またぐと店では又来たかというようにうすわらっているのだった。店の次の間に大きな唐金からかねの火鉢ひばちを出して主人がどっかり座っていた。
    「旦那だんなさん、先せんころはどうもありがどうごあんした」
     あの山では主のような小十郎は毛皮の荷物を横におろして叮ていねいに敷板に手をついて言うのだった。
    「はあ、どうも、今日は何のご用です」
    「熊の皮また少し持って来たます」
    「熊の皮か。この前のもまだあのまましまってあるし今日ぁまんついいます」
    「旦那さん、そう言わなぃでどうか買って呉くんなさぃ。安くてもいいます」
    「なんぼ安くても要らなぃます」主人は落ち着きはらってきせるをたんたんとてのひらへたたくのだ、あの豪気な山の中の主の小十郎はこう言われるたびにもうまるで心配そうに顔をしかめた。何せ小十郎のとこでは山には栗くりがあったしうしろのまるで少しの畑からは稗ひえがとれるのではあったが米などは少しもできず味噌みそもなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。
    23 min
  • 宮沢賢治 座敷童子のはなし
    ぼくらの方の、ざしき童子ぼっこのはなしです。
     あかるいひるま、みんなが山へはたらきに出て、こどもがふたり、庭にわであそんでおりました。大きな家にだれもおりませんでしたから、そこらはしんとしています。
     ところが家の、どこかのざしきで、ざわっざわっと箒ほうきの音がしたのです。
     ふたりのこどもは、おたがい肩かたにしっかりと手を組みあって、こっそり行ってみましたが、どのざしきにもたれもいず、刀かたなの箱はこもひっそりとして、かきねの檜ひのきが、いよいよ青く見えるきり、たれもどこにもいませんでした。
     ざわっざわっと箒の音がきこえます。
     とおくの百舌もずの声なのか、北上きたかみ川の瀬せの音か、どこかで豆まめを箕みにかけるのか、ふたりでいろいろ考えながら、だまって聴きいてみましたが、やっぱりどれでもないようでした。
     たしかにどこかで、ざわっざわっと箒の音がきこえたのです。
     も一どこっそり、ざしきをのぞいてみましたが、どのざしきにもたれもいず、ただお日さまの光ばかりそこらいちめん、あかるく降ふっておりました。
     こんなのがざしき童子ぼっこです。
    「大道だいどうめぐり、大道めぐり」
     一生けん命めい、こう叫さけびながら、ちょうど十人の子供こどもらが、両手りょうてをつないでまるくなり、ぐるぐるぐるぐる座敷ざしきのなかをまわっていました。どの子もみんな、そのうちのお振舞ふるまいによばれて来たのです。
     ぐるぐるぐるぐる、まわってあそんでおりました。
     そしたらいつか、十一人になりました。
     ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても十一人だけおりました。そのふえた一人がざしきぼっこなのだぞと、大人おとなが出て来て言いいました。
     けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼっこでないと、一生けん命眼めを張はって、きちんとすわっておりました。
     こんなのがざしきぼっこです。
     それからまたこういうのです。
     ある大きな本家では、いつも旧きゅうの八月のはじめに、如来にょらいさまのおまつりで分家の子供らをよぶのでしたが、ある年その一人の子が、はしかにかかってやすんでいました。
    「如来さんの祭まつりへ行きたい。如来さんの祭りへ行きたい」と、その子は寝ねていて、毎日毎日言いいました。
    「祭まつり延のばすから早くよくなれ」本家のおばあさんが見舞みまいに行って、その子の頭をなでて言いました。
     その子は九月によくなりました。
     そこでみんなはよばれました。ところがほかの子供こどもらは、いままで祭りを延ばされたり、鉛なまりの兎うさぎを見舞いにとられたりしたので、なんともおもしろくなくてたまりませんでした。
    「あいつのためにひどいめにあった。もう今日は来ても、どうしたってあそばないぞ」と約束やくそくしました。
    「おお、来たぞ、来たぞ」みんながざしきであそんでいたとき、にわかに一人が叫さけびました。
    「ようし、かくれろ」みんなは次つぎの、小さなざしきへかけ込こみました。
     そしたらどうです。そのざしきのまん中に、今やっと来たばっかりのはずの、あのはしかをやんだ子が、まるっきりやせて青ざめて、泣なきだしそうな顔をして、新しい熊くまのおもちゃを持もって、きちんとすわっていたのです。
    「ざしきぼっこだ」一人が叫んでにげだしました。みんなもわあっとにげました。ざしきぼっこは泣きました。
     こんなのがざしきぼっこです。
     また、北上きたかみ川の朗妙寺ろうみょうじの淵ふちの渡わたし守もりが、ある日わたしに言いました。
    「旧暦きゅうれき八月十七日の晩ばん、おらは酒さけのんで早く寝ねた。おおい、おおいと向むこうで呼よんだ。起おきて小屋こやから出てみたら、お月さまはちょうどそらのてっぺんだ。おらは急いそいで舟ふねだして、向こうの岸きしに行ってみたらば、紋付もんつきを着きて刀かたなをさし、袴はかまをはいたきれいな子供こどもだ。たった一人で、白緒しろおのぞうりもはいていた。渡わたるかと言いったら、たのむと言いった。子どもは乗のった。舟ふねがまん中ごろに来たとき、おらは見ないふりしてよく子供を見た。きちんと膝ひざに手を置おいて、そらを見ながらすわっていた。
     お前さん今からどこへ行く、どこから来たってきいたらば、子供はかあいい声で答えた。そこの笹田ささだのうちにずいぶんながくいたけれど、もうあきたから他ほかへ行くよ。なぜあきたねってきいたらば、子供はだまってわらっていた。どこへ行くねってまたきいたらば、更木さらきの斎藤さいとうへ行くよと言った。岸についたら子供はもういず、おらは小屋こやの入口にこしかけていた。夢ゆめだかなんだかわからない。けれどもきっと本当だ。それから笹田がおちぶれて、更木の斎藤では病気もすっかり直ったし、むすこも大学を終わったし、めきめき立派りっぱになったから」
     こんなのがざしき童子ぼっこです。
    9 min
  • 宮沢賢治 氷河鼠の毛皮 そのニ
    毛皮外套をあんまり沢山もつた紳士はもうひとりの外套を沢山もつた紳士と喧嘩けんくわをしましたがそのあとの方の人はたうとう負て寝たふりをしてしまひました。
     紳士はそこでつゞけさまにウヰスキーの小さなコツプを十二ばかりやりましたらすつかり酔ひがまはつてもう目を細くして唇くちびるをなめながらそこら中の人に見あたり次第くだを巻きはじめました。
    『ね、おい、氷河鼠の頸のところの毛皮だけだぜ。えゝ、氷河鼠の上等さ。君、君、百十六疋の分なんだ。君、君斯かう見渡すといふと外套二枚ぐらゐのお方もずゐぶんあるやうだが外套二枚ぢやだめだねえ、君は三枚だからいいね、けれども、君、君、君のその外套ぐわいたうは全体それは毛ぢやないよ。君はさつきモロツコ狐ぎつねだとか云いつたねえ。どうしてどうしてちやんとわかるよ。それはほんとの毛ぢやないよ。ほんとの毛皮ぢやないんだよ』
    『失敬なことを云ふな。失敬な』
    『いゝや、ほんとのことを云ふがね、たしかにそれはにせものだ。絹糸で拵こしらへたんだ』
    『失敬なやつだ。君はそれでも紳士かい』
    『いゝよ。僕は紳士でもせり売屋でも何でもいゝ。君のその毛皮はにせものだ』
    『野蕃やばんなやつだ。実に野蕃だ』
    『いゝよ。おこるなよ向ふへ行つて寒かつたら僕のとこへおいで』
    『頼まない』
     よその紳士はすつかりぶり/\してそれでもきまり悪さうにやはりうつ/\寝たふりをしました。
     氷河鼠ひようがねずみの上着を有もつた大将は唇くちびるをなめながらまはりを見まはした。
    『君、おい君、その窓のところのお若いの。失敬だが君は船乗りかね』
     若者はやつぱり外を見てゐました。月の下にはまつ白な蛋白石たんぱくせきのやうな雲の塊が走つて来るのです。
    『おい、君、何と云つても向ふは寒い、その帆布一枚ぢやとてもやり切れたもんぢやない。けれども君はなか/\豪儀なとこがある。よろしい貸てやらう。僕のを一枚貸てやらう。さうしよう』
     けれども若者はそんな言げんが耳にも入らないといふやうでした。つめたく唇を結んでまるでオリオン座のとこの鋼いろの空の向ふを見透かすやうな眼をして外を見てゐました。
    『ふん。バースレーかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが外套を一枚お貸申すとしようぢやないか。黄いろの帆布一枚ぢやどうしてどうして零下の四十度を防ぐもなにもできやしない。黒狐だから。おい若いお方。君、君、おいなぜ返事せんか。無礼なやつだ君は我輩を知らんか。わしはねイーハトヴのタイチだよ。イーハトヴのタイチを知らんか。こんな汽車へ乗るんぢやなかつたな。わしの持船で出かけたらだまつて殿さまで通るんだ。ひとりで出掛けて黒狐を九百疋とつて見せるなんて下らないかけをしたもんさ』
     こんな馬鹿ばかげた大きな子供の酔どれをもう誰たれも相手にしませんでした。みんな眠るか睡ねむる支度でした。きちんと起きてゐるのはさつきの窓のそばの一人の青年と客車の隅すみでしきりに鉛筆をなめながらきよときよと聴き耳をたてて何か書きつけてゐるあの痩やせた赤髯あかひげの男だけでした。
    『紅茶はいかゞですか。紅茶はいかゞですか』
     白服のボーイが大きな銀の盆に紅茶のコツプを十ばかり載せてしづかに大股おほまたにやつて来ました。
    『おい、紅茶をおくれ』イーハトヴのタイチが手をのばしました。ボーイはからだをかゞめてすばやく一つを渡し銀貨を一枚受け取りました。
     そのとき電燈がすうつと赤く暗くなりました。
     窓は月のあかりでまるで螺鈿らでんのやうに青びかりみんなの顔も俄にはかに淋さびしく見えました。
    『まつくらでござんすなおばけが出さう』ボーイは少し屈かがんであの若い船乗りののぞいてゐる窓からちよつと外を見ながら云ひました。
    『おや、変な火が見えるぞ。誰たれかかがりを焚たいてるな。をかしい』
     この時電燈がまたすつとつきボーイは又
    『紅茶はいかがですか』と云ひながら大股おほまたにそして恭しく向ふへ行きました。
     これが多分風の飛ばしてよこした切れ切れの報告の第五番目にあたるのだらうと思ひます。
           ×
     夜がすつかり明けて東側の窓がまばゆくまつ白に光り西側の窓が鈍い鉛色になつたとき汽車が俄にとまりました。みんな顔を見合せました。
    『どうしたんだらう。まだベーリングに着く筈はずがないし故障ができたんだらうか。』
     そのとき俄に外ががや/\してそれからいきなり扉とびらががたつと開き朝日はビールのやうにながれ込みました。赤ひげがまるで違つた物凄ものすごい顔をしてピカ/\するピストルをつきつけてはひつて来ました。
     そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊しろくまといつた方がいゝやうな、いや、白熊といふよりは雪狐ゆきぎつねと云つた方がいいやうなすてきにもく/\した毛皮を着た、いや、着たといふよりは毛皮で皮ができてるというた方がいゝやうな、ものが変な仮面をかぶつたりえり巻を眼まで上げたりしてまつ白ないきをふう/\吐きながら大きなピストルをみんな握つて車室の中にはひつて来ました。
     先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだ睡ねむつてゐたゆふべの偉らい紳士を指さして云ひました。
    『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物の上にねラツコ裏の内外套うちぐわいたうと海狸びばあの中外套と黒狐裏表の外外套を着ようといふんだ。おまけにパテント外套と氷河鼠ひようがねずみの頸くびのとこの毛皮だけでこさへた上着も着ようといふやつだ。これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ、叩たたき起せ。』
     二番目の黒と白の斑ぶちの仮面をかぶつた男がタイチの首すぢをつかんで引きずり起しました。残りのものは油断なく車室中にピストルを向けてにらみつけてゐました。
     三番目のが云ひました。
    『おい、立て、きさまこいつだなあの電気網をテルマの岸に張らせやがつたやつは。連れてかう』
    『うん、立て。さあ立ていやなつらをしてるなあさあ立て』
     紳士は引つたてられて泣きました。ドアがあけてあるので室へやの中は俄にはかに寒くあつちでもこつちでもクシヤンクシヤンとまじめ腐つたくしやみの声がしました。
     二番目がしつかりタイチをつかまへて引つぱつて行かうとしますと三番目のはまだ立つたまゝきよろきよろ車中を見まはしました。
    『外ほかにはないか。そこのとこに居るやつも毛皮の外套ぐわいたうを三枚持つてるぞ』
    『ちがふちがふ』赤ひげはせはしく手を振つて云ひました。『ちがふよ。あれはほんとの毛皮ぢやない絹糸でこさへたんだ』
    『さうか』
     ゆふべのその外套をほんとのモロツコ狐ぎつねだと云つた人は変な顔をしてしやちほこばつてゐました。
    『よし、さあでは引きあげ、おい誰たれでもおれたちがこの車を出ないうちに一寸ちよつとでも動いたやつは胸にスポンと穴をあけるから、さう思へ』
     その連中はぢりぢりとあと退ずさりして出て行きました。
     そして一人づつだんだん出て行つておしまひ赤ひげがこつちへピストルを向けながらせなかでタイチを押すやうにして出て行かうとしました。タイチは髪をばちやばちやにして口をびくびくまげながら前からはひつぱられうしろからは押されてもう扉とびらの外へ出さうになりました。
     俄にはかに窓のとこに居た帆布の上着の青年がまるで天井にぶつつかる位のろしのやうに飛びあがりました。
     ズドン。ピストルが鳴りました。落ちたのはたゞの黄いろの上着だけでした。と思つたらあの赤ひげがもう足をすくつて倒され青年は肥ふとつた紳士を又車室の中に引つぱり込んで右手には赤ひげのピストルを握つて凄すごい顔をして立つてゐました。
     赤ひげがやつと立ちあがりましたら青年はしつかりそのえり首をつかみピストルを胸につきつけながら外の方へ向いて高く叫びました。
    『おい、熊くまども。きさまらのしたことは尤もつともだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉くれ。ちよつと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから』
    『わかつたよ。すぐ動かすよ』外で熊どもが叫びました。
    『レールを横の方へ敷いたんだな』誰かが云ひました。
     氷ががりがり鳴つたりばたばたかけまはる音がしたりして汽車は動き出しました。
    『さあけがをしないやうに降りるんだ』船乗りが云ひました。赤ひげは笑つてちよつと船乗りの手を握つて飛び降りました。
    『そら、ピストル』船乗りはピストルを窓の外へはふり出しました。
    『あの赤ひげは熊くまの方の間諜かんてふだつたね』誰たれかが云ひました。わかものは又窓の氷を削りました。
     氷山の稜かどが桃色や青やぎらぎら光つて窓の外にぞろつとならんでゐたのです。これが風のとばしてよこしたお話のおしまひの一切れです。
    17 min
  • 宮沢賢治 氷河鼠の毛皮 その一
    このおはなしは、ずゐぶん北の方の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。氷がひとでや海月くらげやさまざまのお菓子の形をしてゐる位寒い北の方から飛ばされてやつて来たのです。
     十二月の二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗つてイーハトヴを発たつた人たちが、どんな眼めにあつたかきつとどなたも知りたいでせう。これはそのおはなしです。
           ×
     ぜんたい十二月の二十六日はイーハトヴはひどい吹雪でした。町の空や通りはまるつきり白だか水色だか変にばさ/\した雪の粉でいつぱい、風はひつきりなしに電線や枯れたポプラを鳴らし、鴉からすなども半分凍つたやうになつてふら/\と空を流されて行きました。たゞ、まあ、その中から馬そりの鈴のチリンチリン鳴る音が、やつと聞えるのでやつぱり誰たれか通つてゐるなといふことがわかるのでした。
     ところがそんなひどい吹雪でも夜の八時になつて停車場に行つて見ますと暖炉の火は愉快に赤く燃えあがり、ベーリング行の最大急行に乗る人たちはもうその前にまつ黒に立つてゐました。
     何せ北極のぢき近くまで行くのですからみんなはすつかり用意してゐました。着物はまるで厚い壁のくらゐ着込み、馬油を塗つた長靴ながぐつをはきトランクにまで寒さでひびが入らないやうに馬油を塗つてみんなほう/\してゐました。
     汽罐車きくわんしやはもうすつかり支度ができて暖さうな湯気を吐き、客車にはみな明るく電燈がともり、赤いカーテンもおろされて、プラツトホームにまつすぐにならびました。
    『ベーリング行、午後八時発車、ベーリング行。』一人の駅夫が高く叫びながら待合室に入つて来ました。
     すぐ改札のベルが鳴りみんなはわい/\切符を切つて貰もらつてトランクや袋を車の中にかつぎ込みました。
     間もなくパリパリ呼子が鳴り汽罐車は一つポーとほえて、汽車は一目散に飛び出しました。何せベーリング行の最大急行ですから実にはやいもんです。見る間にそのおしまひの二つの赤い火が灰いろの夜のふゞきの中に消えてしまひました。こゝまではたしかに私も知つてゐます。
           ×
     列車がイーハトヴの停車場をはなれて荷物が棚たなや腰掛の下に片附き、席がすつかりきまりますとみんなはまづつくづくと同じ車の人たちの顔つきを見まはしました。
     一つの車には十五人ばかりの旅客が乗つてゐましたがそのまん中には顔の赤い肥ふとつた紳士がどつしりと腰掛けてゐました。その人は毛皮を一杯に着込んで、二人前の席をとり、アラスカ金の大きな指環ゆびわをはめ、十連発のぴかぴかする素敵な鉄砲を持つていかにも元気さう、声もきつとよほどがらがらしてゐるにちがひないと思はれたのです。
     近くにはやつぱり似たやうななりの紳士たちがめいめい眼鏡めがねを外したり時計を見たりしてゐました。どの人も大へん立派でしたがまん中の人にくらべては少し痩やせてゐました。向ふの隅すみには痩た赤ひげの人が北極狐ほくきよくぎつねのやうにきよとんとすまして腰を掛けこちらの斜はすかひの窓のそばにはかたい帆布はんぷの上着を着て愉快さうに自分にだけ聞えるやうな微かすかな口笛を吹いてゐる若い船乗りらしい男が乗つてゐました。そのほか痩て眉まゆも深く刻み陰気な顔を外套ぐわいたうのえりに埋てゐる人さつぱり何でもないといふやうにもう睡ねむりはじめた商人風の人など三四人居をりました。
           ×
     汽車は時々素通りする停車場の踏切でがたつと横にゆれながら一生けん命ふゞきの中をかけました。しかしその吹雪もだん/\をさまつたのかそれとも汽車が吹雪の地方を越したのか、まもなくみんなは外の方から空気に圧おしつけられるやうな気がし、もう外では雪が降つてゐないといふやうに思ひました。黄いろな帆布の青年は立つて自分の窓のカーテンを上げました。そのカーテンのうしろには湯気の凍り付いたぎらぎらの窓ガラスでした。たしかにその窓ガラスは変に青く光つてゐたのです。船乗りの青年はポケツトから小さなナイフを出してその窓の羊歯しだの葉の形をした氷をガリガリ削り落しました。
     削り取られた分の窓ガラスはつめたくて実によく透とほり向ふでは山脈の雪が耿々かうかうとひかり、その上の鉄いろをしたつめたい空にはまるでたつたいまみがきをかけたやうな青い月がすきつとかゝつてゐました。
     野原の雪は青じろく見え煙の影は夢のやうにかけたのです。唐檜たうひやとゞ松がまつ黒に立つてちらちら窓を過ぎて行きます。じつと外を見てゐる若者の唇くちびるは笑ふやうに又泣くやうにかすかにうごきました。それは何か月に話し掛けてゐるかとも思はれたのです。みんなもしんとして何か考へ込んでゐました。まん中の立派な紳士もまた鉄砲を手に持つて何か考へてゐます。けれども俄にはかに紳士は立ちあがりました。鉄砲を大切に棚たなに載せました。それから大きな声で向ふの役人らしい葉巻をくはへてゐる紳士に話し掛けました。
    『何せ向ふは寒いだらうね。』
     向ふの紳士が答へました。
    『いや、それはもう当然です。いくら寒いと云つてもこつちのは相対的ですがなあ、あつちはもう絶対です。寒さがちがひます。』
    『あなたは何べん行つたね。』
    『私は今度二遍目ですが。』
    『どうだらう、わしの防寒の設備は大丈夫だらうか。』
    『どれ位ご支度なさいました。』
    『さあ、まあイーハトヴの冬の着物の上に、ラツコ裏の内外套うちぐわいたうね、海狸びばあの中外套ね、黒狐くろぎつね表裏の外外套ね。』
    『大丈夫でせう、ずゐぶんいゝお支度です。』
    『さうだらうか、それから北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套ね………。』
    『大丈夫です』
    『それから氷河鼠ひようがねずみの頸くびのとこの毛皮だけでこさへた上着ね。』
    『大丈夫です。しかし氷河鼠の頸のとこの毛皮はぜい沢ですな。』
    『四百五十疋ぴき分だ。どうだらう。こんなことで大丈夫だらうか。』
    『大丈夫です。』
    『わしはね、主に黒狐をとつて来るつもりなんだ。黒狐の毛皮九百枚持つて来てみせるといふかけをしたんだ。』
    『さうですか。えらいですな。』
    『どうだ。祝盃しゆくはいを一杯やらうか。』紳士はステームでだんだん暖まつて来たらしく外套を脱ぎながらウヱスキーの瓶びんを出しました。
     すぢ向ひではさつきの青年が額をつめたいガラスにあてるばかりにして月とオリオンとの空をじつとながめ、向ふ隅すみではあの痩やせた赤髯あかひげの男が眼をきよろきよろさせてみんなの話を聞きすまし、酒を呑のみ出した紳士のまはりの人たちは少し羨うらやましさうにこの豪勢な北極近くまで猟に出かける暢気のんきな大将を見てゐました。
    12 min
  • 宮沢賢治 グスコーブドリの伝記 九 カルボナード島
    九 カルボナード島
     それからの五年は、ブドリにはほんとうに楽しいものでした。赤ひげの主人の家にも何べんもお礼に行きました。
     もうよほど年はとっていましたが、やはり非常な元気で、こんどは毛の長いうさぎを千匹以上飼ったり、赤い甘藍かんらんばかり畑に作ったり、相変わらずの山師はやっていましたが、暮らしはずうっといいようでした。
     ネリには、かわいらしい男の子が生まれました。冬に仕事がひまになると、ネリはその子にすっかりこどもの百姓のようなかたちをさせて、主人といっしょに、ブドリの家にたずねて来て、泊まって行ったりするのでした。
     ある日、ブドリのところへ、昔てぐす飼いの男にブドリといっしょに使われていた人がたずねて来て、ブドリたちのおとうさんのお墓が森のいちばんはずれの大きな榧かやの木の下にあるということを教えて行きました。それは、はじめ、てぐす飼いの男が森に来て、森じゅうの木を見てあるいたとき、ブドリのおとうさんたちの冷たくなったからだを見つけて、ブドリに知らせないように、そっと土に埋めて、上へ一本の樺かばの枝をたてておいたというのでした。ブドリは、すぐネリたちをつれてそこへ行って、白い石灰岩の墓をたてて、それからもその辺を通るたびにいつも寄ってくるのでした。
     そしてちょうどブドリが二十七の年でした。どうもあの恐ろしい寒い気候がまた来るような模様でした。測候所では、太陽の調子や北のほうの海の氷の様子から、その年の二月にみんなへそれを予報しました。それが一足ずつだんだんほんとうになって、こぶしの花が咲かなかったり、五月に十日もみぞれが降ったりしますと、みんなはもうこの前の凶作を思い出して、生きたそらもありませんでした。クーボー大博士も、たびたび気象や農業の技師たちと相談したり、意見を新聞へ出したりしましたが、やっぱりこの激しい寒さだけはどうともできないようすでした。
     ところが六月もはじめになって、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない木を見ますと、ブドリはもういても立ってもいられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちょうどあの年のブドリの家族のようになる人がたくさんできるのです。ブドリはまるで物も食べずに幾晩も幾晩も考えました。ある晩ブドリは、クーボー大博士のうちをたずねました。
    「先生、気層のなかに炭酸ガスがふえて来れば暖かくなるのですか。」
    「それはなるだろう。地球ができてからいままでの気温は、たいてい空気中の炭酸ガスの量できまっていたと言われるくらいだからね。」
    「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴ふくでしょうか。」
    「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放散を防ぎ、地球全体を平均で五度ぐらい暖かくするだろうと思う。」
    「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」
    「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
    「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようおことばをください。」
    「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事にかわれるものはそうはない。」
    「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
    「その相談は僕はいかん。ペンネン技師に話したまえ。」
     ブドリは帰って来て、ペンネン技師に相談しました。技師はうなずきました。
    「それはいい。けれども僕がやろう。僕はことしもう六十三なのだ。ここで死ぬなら全く本望というものだ。」
    「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。一ぺんうまく爆発してもまもなくガスが雨にとられてしまうかもしれませんし、また何もかも思ったとおりいかないかもしれません。先生が今度おいでになってしまっては、あとなんともくふうがつかなくなると存じます。」
     老技師はだまって首をたれてしまいました。
     それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。
     すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。
     そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅あかがねいろになったのを見ました。
     けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪たきぎで楽しく暮らすことができたのでした。
    10 min
  • 宮沢賢治 グスコーブドリの伝記 八 秋
    八 秋
     その年の農作物の収穫は、気候のせいもありましたが、十年の間にもなかったほど、よくできましたので、火山局にはあっちからもこっちからも感謝状や激励の手紙が届きました。ブドリははじめてほんとうに生きがいがあるように思いました。
     ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行った帰り、とりいれの済んでがらんとした沼ばたけの中の小さな村を通りかかりました。ちょうどひるころなので、パンを買おうと思って、一軒の雑貨や菓子を買っている店へ寄って、
    「パンはありませんか。」とききました。するとそこには三人のはだしの人たちが、目をまっ赤かにして酒を飲んでおりましたが、一人が立ち上がって、
    「パンはあるが、どうも食われないパンでな。石盤セキパンだもな。」とおかしなことを言いますと、みんなはおもしろそうにブドリの顔を見てどっと笑いました。ブドリはいやになって、ぷいっと表へ出ましたら、向こうから髪を角刈りにしたせいの高い男が来て、いきなり、
    「おい、お前、ことしの夏、電気でこやし降らせたブドリだな。」と言いました。
    「そうだ。」ブドリは何げなく答えました。その男は高く叫びました。
    「火山局のブドリが来たぞ。みんな集まれ。」
     すると今の家の中やそこらの畑から、十八人の百姓たちが、げらげらわらってかけて来ました。
    「この野郎、きさまの電気のおかげで、おいらのオリザ、みんな倒れてしまったぞ。何なしてあんなまねしたんだ。」一人が言いました。
     ブドリはしずかに言いました。
    「倒れるなんて、きみらは春に出したポスターを見なかったのか。」
    「何この野郎。」いきなり一人がブドリの帽子をたたき落としました。それからみんなは寄ってたかってブドリをなぐったりふんだりしました。ブドリはとうとう何がなんだかわからなくなって倒れてしまいました。
     気がついてみるとブドリはどこかの病院らしい室の白いベッドに寝ていました。枕まくらもとには見舞いの電報や、たくさんの手紙がありました。ブドリのからだじゅうは痛くて熱く、動くことができませんでした。けれどもそれから一週間ばかりたちますと、もうブドリはもとの元気になっていました。そして新聞で、あのときの出来事は、肥料の入れようをまちがって教えた農業技師が、オリザの倒れたのをみんな火山局のせいにして、ごまかしていたためだということを読んで、大きな声で一人で笑いました。
     その次の日の午後、病院の小使がはいって来て、
    「ネリというご婦人のおかたがたずねておいでになりました。」と言いました。ブドリは夢ではないかと思いましたら、まもなく一人の日に焼けた百姓のおかみさんのような人が、おずおずとはいって来ました。それはまるで変わってはいましたが、あの森の中からだれかにつれて行かれたネリだったのです。二人はしばらく物も言えませんでしたが、やっとブドリが、その後のことをたずねますと、ネリもぼつぼつとイーハトーヴの百姓のことばで、今までのことを話しました。ネリを連れて行ったあの男は、三日ばかりの後、めんどうくさくなったのか、ある小さな牧場の近くへネリを残して、どこかへ行ってしまったのでした。
     ネリがそこらを泣いて歩いていますと、その牧場の主人がかわいそうに思って家へ入れて、赤ん坊のお守もりをさせたりしていましたが、だんだんネリはなんでも働けるようになったので、とうとう三四年前にその小さな牧場のいちばん上の息子むすこと結婚したというのでした。そしてことしは肥料も降ったので、いつもなら厩肥まやごえを遠くの畑まで運び出さなければならず、たいへん難儀したのを、近くのかぶら畑へみんな入れたし、遠くの玉蜀黍とうもろこしもよくできたので、家じゅうみんなよろこんでいるというようなことも言いました。またあの森の中へ主人の息子といっしょに何べんも行って見たけれども、家はすっかりこわれていたし、ブドリはどこへ行ったかわからないので、いつもがっかりして帰っていたら、きのう新聞で主人がブドリのけがをしたことを読んだので、やっとこっちへたずねて来たということも言いました。ブドリは、なおったらきっとその家へたずねて行ってお礼を言う約束をしてネリを帰しました。
    8 min

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