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By 楠元純一郎&レオー
The podcast currently has 443 episodes available.
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第184回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章13段落)
ラジオ収録20241120
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
The criticism aimed at, in a word, is not that which, without reason, determines to reject, but that which considers each piece of apparent knowledge on its merits, and retains whatever still appears to be knowledge when this consideration is completed.
批判の目的は一言でいえば、理由なく否定することを決定することではなく、見かけの知識一つひとつをその長点に基づき検討し、その検討が完了したときにまだ知識であると思われるものはなんであれ保持することである。
总之,我们所要达到的批判并不是毫无理由地就决定摒弃每种显而易见的知识,而是根据每种显而易见的知识的价值来对它加以衡量,经过衡量以后,保留下来任何表现为知识的东西。
That some risk of error remains must be admitted, since human beings are fallible.
人は間違いを犯しやすいので、なんらかの誤りの危険は許容されねばならない。
因为人类是容易犯错误的,所以必须承认还有错误的危险。
Philosophy may claim justly that it diminishes the risk of error, and that in some cases it renders the risk so small as to be practically negligible.
哲学は誤りのリスクを減らし、場合によってはそのリスクを実際に無視できるほどに小さくするということを正当に主張できるだろう。
哲学可以公道地自认为,它可以减少错误的危险,而且就某些情形而论,它使得错误小到实际上是微不足道的程度。
To do more than this is not possible in a world where mistakes must occur; and more than this no prudent advocate of philosophy would claim to have performed.
誤りが必ず起きるこの世界においてこれ以上のことをするのは不可能であり、哲学の慎重な論者ならこれ以上のことをやったとは言わないだろう。
在这个必然会发生错误的世界里,若想作得比这更多,便是不可能的了。况且也没有慎重的哲学倡导者会说,他们所要完成的会比这还多。
ラジオ収録20240011020
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」、ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎 中国語翻訳・朗読 レオー(中国語講師・中国大慶の小学校美術教諭)朗読 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)読解者 福留邦浩(国際関係学博士)
青臭いのも、体のつめたいのも、はじめのうちこそ気味がわるかつたがお姫様だとおもへばなにもかも平気になり、背なかにある三日月がたの斑文はんもんを可愛らしい眼だと思ふやうになつた。
<斑紋(はんもん)→まだら模様、まだら→色の濃淡、種類が入り混じっているもの。>
尽管蚕宝宝一身草腥味,通体冰凉,一开始我不太喜欢,但想到它们是小公主,一切困难似乎都能克服,蚕背上月牙形状的斑纹也被我看作可爱的眼睛。
お姫様は四たびめの禅定から出たのちには体もすきとほるほど清浄になり、桑の葉さへたべずにとみかうみして入寂にふじやくの場所をもとめる。
<四(よ)たびめの→四度目の。禅定(ぜんじょう)→心が動揺することのない瞑想の境地。清浄(しょうじょう)→仏教用語で、煩悩や罪がないこと、汚れなく清らかなこと。とみかうみ→とみこうみ→あっちを見たりこっちを見たり。入寂(にゅうじゃく)→僧侶が死ぬこと。>
小公主结束第四次禅定后,身体干净得近乎透明,连桑叶也不再吃,只顾东张西望地寻找入定的地方。
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第183回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章12段落③)
ラジオ収録20241113
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
But there are beliefs—such, for example, as the belief that physical objects exactly resemble our sense-data—which are entertained until we begin to reflect, but are found to melt away when subjected to a close inquiry.
しかし、例えば物理的な物体がセンスデータによく似ているという信念のように、我々が内省を始めるまでは抱いていても、綿密な審査をすると溶けてなくなる信念もある。
但是有些信念——例如,相信物理客体恰恰和我们感觉材料相像——直到我们开始思索的时候,还是我们所怀有的一个信念;但是一经仔细探讨过之后,这个信念就不存在了。
Such beliefs philosophy will bid us reject, unless some new line of argument is found to support them.
哲学は、そのような信念を支持する論拠が新たに見出されない限り、そのような信念を我々に拒否するよう命じるであろう。
像这类的信念,除非另有支持它们的新论证被发现,不然哲学就劝告我们要把它们丢弃掉。
But to reject the beliefs which do not appear open to any objections, however closely we examine them, is not reasonable, and is not what philosophy advocates.
しかし、どんなに綿密に精査しても反駁する余地のないような信念を拒否することは合理的ではななく、哲学が提唱するものでもないだろう。
但是有些信念,不论我们怎样仔细地研究,看来仍是无可反对的。要摒弃这种信念是不合理的,而且也不是哲学所要提出的东西。
ラジオ収録20240011013
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」、ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎 中国語翻訳・朗読 レオー(中国語講師・中国大慶の小学校美術教諭)朗読 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)読解者 福留邦浩(国際関係学博士)
さて帰つてくれば姉は手拭をかぶつて前垂の両端を帯にはさみ、私は笊をかかへて桑つみにでかける。
<手拭(てぬぐい)→手を拭く布、タオル。前垂(まえだれ)→一般には、汚れ防止用に腰から前に垂れ下げる布、前下がり。笊(ざる)→竹を割(さ)いて編んだ道具、籠。>
放学回家后,姐姐系好头巾和围裙两边的带子,我抱着竹筐,一起出门采桑叶。
さうして指の先を黒くしながら
手のとどくかぎりうまさうなのをよつてつみつこをする。
<うまそうなの→美味しそうなもの。よって→選って、選んで。つみつこ→摘っこ→摘比べ→摘み方を競って遊ぶこと、かけっこ(駆けっこ)→走る競争>
我们将能够到的看上去好吃的叶子都摘了个遍,摘到指尖被染的发黑。
冷い唇からはきだす糸の美しいつやが仇となつて遠い昔から人の手にのみ育てられたこの虫は自ら食を求めようとはせず蓆のうへに頭をならべておとなしく桑の葉のふりまかれるのを待つてるのを伯母さんは「お姫様だつたげなでこのお行儀のええことはの」とさもほんとらしくいふ。
<つや(艶)→あでやかで、なまめかしく、色っぽい様。仇(あだ)となって→逆効果となること。蓆(むしろ)→敷物、座、針のむしろ
→針を植えた敷物→人に責められていたたまれない苦しく恐ろしい状況。だったげなで→だったそうで。お行儀(ぎょうぎ)→礼儀の面から見た立ち居振る舞い。さも→いかにも、実に、そのようにも。>
蚕宝宝冰冷的嘴里吐出闪着美丽光泽的丝线,这成了他们的罪孽。自古以来,这种昆虫便由人类亲手养大,它们不会主动找食吃,只是在草席上排好,乖乖地等待人将桑叶撒落。“它们以前都是小公主,所以才会这么规矩。”阿姨煞有介事地解释。
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第182回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章12段落①前回の再考②)
ラジオ収録20241106
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
Hence the criticism of knowledge which philosophy employs must not be of this destructive kind, if any result is to be achieved.
したがって、哲学者が使用する知識批判は、もし何らかの結果を得ようとするならば、このような破壊的なものであってはならない。
因此,倘使要达到任何结果,哲学所运用的批判的知识,便必然不属于破坏性的一类。
Against this absolute scepticism, no logical argument can be advanced.
この絶対的な懐疑主義に対して、論理的な議論はできない。
对这种绝对的怀疑主义,并没有逻辑的论证可以提出反驳。
But it is not difficult to see that scepticism of this kind is unreasonable.
しかし、この種の懐疑主義が不合理であることを理解することは難しくない。
但是,这种怀疑主义是不合理的,这一点却不难明了。
Descartes' 'methodical doubt', with which modern philosophy began, is not of this kind, but is rather the kind of criticism which we are asserting to be the essence of philosophy.
近代哲学の始まりとなったデカルトの「方法的懐疑」はこの種のものではなく、むしろ、我々が哲学の本質であると主張している批判である。
笛卡儿的“方法论的怀疑”是近代哲学的开端,并不属于这一类;它是那种我们所断定属于哲学本质的批判方法。
His 'methodical doubt' consisted in doubting whatever seemed doubtful; in pausing, with each apparent piece of knowledge, to ask himself whether, on reflection, he could feel certain that he really knew it.
デカルトの「方法的懐疑」は、疑わしいと思われることはなんであれ疑うこと、つまり、見かけの知識ごとに、自分がそれを本当に知っていると確信できるかどうかを自問するために立ち止まってよく考えてみることで成り立っていた。
他的“方法论的怀疑”在于怀疑任何似乎可以怀疑的事物,在于有了一点显然的知识,再经过一番思索之后,便自己思忖是否他觉得真的知道了这件事物。
This is the kind of criticism which constitutes philosophy.
これが哲学を構成している批判である。
这就是构成为哲学的那种批判方法。
Some knowledge, such as knowledge of the existence of our sense-data, appears quite indubitable, however calmly and thoroughly we reflect upon it.
我々のセンスデータの存在に関する知識のようななんらかの知識は、どんなに冷静に徹底的に考えてみてもまったく疑いようがない。
有些知识,例如关于我们的感觉材料存在的知识,无论我们如何平心静气地彻底思索它,也表现出它是不容加以怀疑的。
In regard to such knowledge, philosophical criticism does not require that we should abstain from belief.
そのような知識に関して、哲学的批判は我々が信念を控えるべきであるということを要求しない。
关于这种知识,哲学的批判并不是要我们不去相信它。
ラジオ収録2024001106
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」、ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎 中国語翻訳・朗読 レオー(中国語講師・中国大慶の小学校美術教諭)朗読 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)読解者 福留邦浩(国際関係学博士)
家のまはりには切りのこした桑の木があつたので慰みかたがた子供たちの実地教育にもなるといふ父の考から近処ですこしばかりの種をわけてもらつて蚕をかつたことがあつた。
<蚕(かいこ)→桑の葉を食べる昆虫で絹糸になる繭(まゆ)を生産する。>
我家附近有一棵没被砍倒的桑树。父亲一方面觉得那是一种慰藉,一方面又觉
得可以给孩子们一些动手的机会,曾经从邻居那里要了些蚕蛹来给我们养。
母や伯母は面倒だ面倒だといふものの実はいくらか得意で、もう大丈夫二度とくることのない昔の労苦を思ひだして楽しみながらいそいそと桑をきざんでやる。
<きざんで→刻んで→細かく切ること。>
母亲和阿姨老是说照顾蚕宝宝很麻烦,其实却很在行。她们回想起过去的苦日子,知道那些辛苦已经不会重来,欢快地切碎桑叶喂蚕,乐在其中。
はじめはただ葉のしたにかくれてるのが日に日に大きくなり坊主頭をふりたててはじからくひかいてゆく。
<はじから→端から・くひかいて→食い荒かして>
蚕宝宝们起初总是躲在叶子下面,后来一天天长大,摇晃着圆乎乎的光头,从树叶的一头啃到另一头。
私も小さな羊羹の函に五六匹いれてもらつて、伯母さんがお蚕様はもとお姫様だつたなぞと教へたもので寐るときにはちやんと御機嫌ようをし、朝はまたおはやうをして、留守の世話をよくよく頼んで学校へゆく。
<羊羹(ようかん)→小豆や白小豆を煮て寒天と砂糖で練り上げている和菓子。函→箱(はこ)>
我也分得五六只蚕,装在羊羹的盒子里。阿姨告诉我蚕宝宝以前都是小公主,所以我睡前都礼貌地对它们说晚安,起床后也会问它们早安,拜托家人一定要好好照顾它们
才去上学。
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第181回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章12段落①)
ラジオ収録20241030
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
When, however, we speak of philosophy as a criticism of knowledge, it is necessary to impose a certain limitation.
しかしながら、我々は哲学のことを知識に対する批判と呼ぶ場合、一定の制限を課す必要がある。
然而,当我们说哲学是一种批判的知识的时候,必须加上一定的界限。
If we adopt the attitude of the complete sceptic, placing ourselves wholly outside all knowledge, and asking, from this outside position, to be compelled to return within the circle of knowledge, we are demanding what is impossible, and our scepticism can never be refuted.
もし我々が我々自身をあらゆる知識の外に置き、この外側の立場から知識の輪の中に戻ることを余儀なくされるよう求めながら、完全な懐疑主義者の態度をとるなら、我々は不可能なことを要求しており、我々の懐疑主義は決して反駁され得ない。
倘使我们采取完全怀疑者的态度,把自身完全置于一切知识之外,而又从这个立场来要求必须回到知识的范围之内;那么我们便是在要求不可能的事,而我们的怀疑主义也就永远不会被人所驳倒了。
For all refutation must begin with some piece of knowledge which the disputants share; from blank doubt, no argument can begin.
あらゆる反駁のためには、論争者が共有するなんらかの知識から始めなければならない。空白(知識の輪の外)からの疑いからは議論は始まらない。
因为一切的批驳言论都是从争论者所共同具有的知识出发的;没有一种论证应该从空洞的怀疑出发。
ラジオ収録2024001030
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」、ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎 中国語翻訳・朗読 レオー(中国語講師・中国大慶の小学校美術教諭)朗読 松尾欣治(哲学者・大学外部総合評価者)読解者 福留邦浩(国際関係学博士)
ある日のことまたそんなにして川のなかに立つてたとき私は足もとにあるまつ白な石を拾はうとして身をかがめた。それを兄はぢきに見つけて
「なにする」といつた。「石をひろふんです」
「ばか」私はもういつものやうに恐れなかつた。こなひだから考へて考へて考へぬいてある。
<身をかがめる→身体を前に折り曲げて低い姿勢をとること。ぢきに→すぐに。ひろふんです→拾(ひろ)うんです>
有一天,我们又这样站在河里。我蹲下身子,打算捡起脚边一颗洁白的石子,
立刻被哥哥抓到。
“你在干吗?”他说。
“我在捡石子。”我回答。
“笨蛋。”
这次我没有像往常那样害怕。这段日子以来,我已经想了又想,想清楚了。
「兄さん」 私は後ろからしづかに呼びかけた。
「兄さんが魚をとるのに僕はなぜ石をひろつちやわるいんです」
兄は「生意気いふな」と怒鳴りつけた。私は冷かに笑つてまともに兄の顔を見つめながら「僕のいふことがちがつてるなら教へてください」
<生意気(なまいき)→たいしたことないにもかかわらず、偉そうにすること。>
“哥哥,”我在他身后冷静地说,“你可以钓鱼,我为什么不能捡石子?”
“少来劲!”哥哥怒吼。
我冷冷地笑着,认真地盯着哥哥的脸:
“如果我说得不对,请你指正。”
兄は「殴るぞ」といつて手をあげた。私は黙つて垂れさがつた枝のさきにびくをかけ崖をあがつて帰りかけたが、うす暗い木の蔭にこごんでるのを見ると急に気の毒になり あんなにいふけれどきつとやつぱし寂しいんだらう とおもつて岸のうへから一所懸命によんだ。「兄さん、兄さん、居てあげませうか」 兄は知らん顔して網をそろへてゐる。
<屈(こご)んでる→膝を曲げて腰を落とすこと、しゃがむこと。やっぱし→やっぱり>
“你找打!”哥哥说着扬起手来。我默默地将鱼篓挂在一根垂下来的树枝上,
打算爬上山崖回家,可看到他弯着身子蹲在昏暗的树荫里,忽然觉得心疼,心想尽
管他说那么重的话,可到底还是因为寂寞吧。于是我站在岸上,拼命地喊:
“哥哥,哥哥,我留下来陪你吧?”
可哥哥装作没听见一样收紧渔网。
「さやうなら」 私は丁寧に帽子をとつてひとりで家へ帰つた。それからは私たちは決していつしよに出かけなかつた。
“再见。” 我礼貌地脱下帽子,和他打过招呼便一个人回家了。
自此以后,我们再也没有一起出过门。
<LeoNRadio日の出 われらのラッセル哲学第180回『哲学の諸問題』
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章11段落)
ラジオ収録20241009
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
Philosophical knowledge, if what has been said above is true, does not differ essentially from scientific knowledge; there is no special source of wisdom which is open to philosophy but not to science, and the results obtained by philosophy are not radically different from those obtained from science.
哲学的な知識は、もしこれまで述べてきたことが真実であるならば、科学的な知識と本質的に異ならない。すなわち、哲学には開かれていて科学にはそうではない特別な知恵の源は存在せず、哲学によって得られる結果は科学によって得られる結果と根本的に異ならない。
倘使我们上述的一切是真确的,那么哲学的知识和科学的知识便基本上没有区别;没有一种知识之源是只供哲学吸取而不供科学吸取的,哲学所获得的结果也不会和科学所获得的结果有根本的差异。
The essential characteristic of philosophy, which makes it a study distinct from science, is criticism.
哲学を科学とは異なる学問とする、哲学の本質的な特徴は批判である。
哲学的根本特点便是批判,正是这种特点使得它成为一种和科学不同的学问。
It examines critically the principles employed in science and in daily life; it searches out any inconsistencies there may be in these principles, and it only accepts them when, as the result of a critical inquiry, no reason for rejecting them has appeared.
哲学は科学や日常生活で用いられる原理を批判的に検討する。哲学はこれらの原理にあるかもしれないあらゆる矛盾を探し出し、批判的な審査の結果、それらの原理を否定する理由がないような場合にのみそれらを受け入れるのである。
哲学对于科学上和日常生活上所使用的那些原则都要加以批判地研究,而且要从这些原则中找出它们的不一致来;只有在找不到摈斥它们的理由的时候,才把它们作为批判研究的结果接受下来。
If, as many philosophers have believed, the principles underlying the sciences were capable, when disengaged from irrelevant detail, of giving us knowledge concerning the universe as a whole, such knowledge would have the same claim on our belief as scientific knowledge has; but our inquiry has not revealed any such knowledge, and therefore, as regards the special doctrines of the bolder metaphysicians, has had a mainly negative result.
もし、多くの哲学者が信じてきているように、科学の根底にある原理が、無関係な細部についてはさておき、全体としての宇宙に関する知識を我々に与えることができるのであれば、そのような知識は科学的な知識と同じように我々の信念に対して訴求するであろう。しかし我々の研究はそのような知識を明らかにしてこなかったため、より大胆な形而上学者の特別な教義に関して、主として否定的な結果をもたらした。
许多哲学家都这样相信:倘使科学所根据的那些原则摆脱了一切毫不相关的东西的纠缠之后,而能提供给我们有关宇宙整体的知识,那么这种知识便和科学知识同样地可以要求我们信仰;但是我们的探讨还没有揭示出任何这种知识来,因此关于大胆的形而上学者的特殊学说,主要地便只能有否定的结果了。
But as regards what would be commonly accepted as knowledge, our result is in the main positive: we have seldom found reason to reject such knowledge as the result of our criticism, and we have seen no reason to suppose man incapable of the kind of knowledge which he is generally believed to possess.
しかし、知識として普通に受け入れられているようなものに関して、我々の結果は主として肯定的である。すなわち、我々は我々の批評の結果的としての知識を否定する理由をめったに見出せなかったし、そして人が一般に信じられている知識を持ち得ないと考える理由もないのである。
但是关于普通可以作为知识加以接受的东西,我们的结果主要地是肯定的;我们很少找到可以摈弃这种知识的理由,作为是批判的结果,而且我们认为也没有什么理由可以认为,人并不能掌握他通常所信以为具有的那种知识。
"The problems of philosophy" by Bertrand Russell(第14章10段落)
ラジオ収録20240918
「レオンラジオ日の出」テーマ曲 作詞作曲 楠元純一郎 OP「水魚の交わり」ED 「遺伝子の舟」司会 楠元純一郎(法学者) 日本語訳 楠元純一郎 中国語訳 レオー(美術家・録音師) 日本語訳監修 松尾欣治(哲学者)福留邦浩(国際関係学者)
Principles such as the law of gravitation are proved, or rather are rendered highly probable, by a combination of experience with some wholly a priori principle, such as the principle of induction.
重力の法則のような原則は、帰納法のようなまったく先験的な原則との組み合わせによって証明されているし、またはむしろ蓋然性が高い。
像引力定律的原则就是凭借经验和某种完全先验的原则(例如归纳法原则)的结合而得到了证实,或者是表现出很大的或然性的。
Thus our intuitive knowledge, which is the source of all our other knowledge of truths, is of two sorts: pure empirical knowledge, which tells us of the existence and some of the properties of particular things with which we are acquainted, and pure a priori knowledge, which gives us connexions between universals, and enables us to draw inferences from the particular facts given in empirical knowledge.
かくして、我々の他のすべての真実の知識の源泉である我々の直感的な知識には、2種類ある。すなわち、我々が直接知覚した特定の事物の存在とその性質を我々に教えてくれる純粋経験的な知識と、普遍的なものどうしの繋がりを我々に示し、我々が経験的知識から与えられた特定の事実から推論を導き出すことを可能にする純粋な先験的知識である。
因此,我们的直观知识(它是我们所有其他真理知识的根源)就有两种:一种是纯粹的经验知识,它告诉我们有关我们所认识的特殊事物的存在和它们的一些性质,另一种是纯粹的先验知识,它告诉我们关于共相之间的关系,使我们得以根据经验知识中所提供的特殊事实作出推论。
Our derivative knowledge always depends upon some pure a priori knowledge and usually also depends upon some pure empirical knowledge.
我々の派生的な知識は常になんらかの純粋先験的知識に依存しており、通常は純粋経験的知識にも依存している。
我们的派生的知识永远依赖于某种纯粹的先验知识,通常也依赖于某种纯粹的经验知识。
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