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「自社のウェブサイトがダウンする中の爆発事故。原子力発電所を運転する電力会社の経営責任が問われることとなりそうです。」
アナウンサーがこう言ったところで朝倉はテレビの電源を切った。
「醜態。」
「ええ。」
「察庁は何をやっている。」
「さあ。」
「松永は無能か。」
「そうかもしれません。」
「直江、少しはフォローしたらどうだ。」
「いえ。フォローのしようがありません。」
「お前も酷い男だな。」
朝倉は口元を緩めた。それに反して直江は表情ひとつ変えない。
「ですが、この一件で警察内で明るみになった事があります。」
この言葉に朝倉は15秒ほど沈黙し、ゆっくりと口を開いた。
「コンドウサトミこと鍋島惇の生存か。」
「はい。奴の生存が察庁内で明るみになったということで、熨子山事件に関わった人間の聴取が始まることでしょう。」
「それはお前の方でうまい具合に調整をつけておけ。」
「どのように?」
「知らぬ存ぜぬでいい。」
「と言いますと?」
「鍋島は七尾で村上よって殺害されたと判断するのが当時の状況から最も合理的な判断だった。それ以上でもそれ以下でもないと。」
「ですが、その物証が現時点において有力性を持ちえません。」
「それはどういうことだ。」
「現時点において七尾で殺害された人物の指紋が、当時のものとは全く違うものになっています。」
「なに?」
朝倉の声色が変わった。
「ご存じではありませんでしたか。」
「…初耳だな。」
「そうでしたか。」
「しかしそれはどういうことだ。県警のシステムに不具合でも起きているのか。」
「現状、それが最も有力な線です。何者かが意図的にその情報を改ざんしたとも思えませんので。」
「なるほど…。となると…警察の情報管理の杜撰さまで問題として出てくるのか…。」
「ええ。」
「因みにあそこのシステムはどこのメーカーのものだ。」
「ドットメディカルです。」
「ドットメディカル…。」
「ということはドットメディカルが鍋島の情報を何らかの形で変えた…。ということも考えられるということか?」
「優先順位は低いですが、可能性はあります。」
「ならばそこにもガサを入れねばならんな。」
「それは県警本部において準備中だそうです。」
「そうか。そういう対応だけは素早いんだな。」
「なにせ身内のことですから。」
「ふっ…。」
朝倉は立ち上がった。
「しかし直江、お前はどうも感情というものを表に出さない。」
「感情なんてものは、この仕事において足手まとい以外のなにものでもありません。」
「ふっ…その冷徹さが俺は気に入っているのだが、いまひとつお前の本心が計れないのがちょっとな。」
「そうですか。」
「そうだ。」
「特捜から転落した私を引き上げてくれたのはあなたです。」
「ほう。」
「その私を公安調査庁の人事を握る部署にとあなたはおっしゃった。あなたを信頼しない理由がありません。」
朝倉はニヤリと笑った。
「ただひとつ。私にも部長の本心が計れないところがあります。」
「なんだ。」
「私はまだ部長のお言葉しか頂いておりません。」
「…そうだな。」
「ここはひとつ長官の言質も頂きたいところです。」
「はっはっはっ!!」
朝倉は大声で笑い出した。
「貴様は思ったよりもしたたかなやつだな…いいだろう。」
「いつですか。」
「明日にでも長官との面会をセッティングする。」
ここで朝倉の携帯電話が震えた。
「ではご連絡お待ちしております。」
そう言うと直江は部長室から退出した。
「なんだ若林。」
「今もまだベッドでぐっすり寝ていますよ。そろそろ帰らないといけないんですが。」
「くくく…。」
「いやぁ40しざかりって本当なんですね。」
「そうか…。そんなにか。」
「ええ。ちょっとこっちが引くくらいでした。」
「はははは。この下衆男め。」
いつになく朝倉の表情が豊かである。
「部長。これは仕事です。」
「ああわかっている。からかってすまなかった。」
「こっちも必死なんですよ。何とかして奮い立たせないといけませんから。」
「ふふふ...今日のお前は愉快だな。自分の思い通りにアレを制御できるってのは俺にとって羨ましい限りだ。若さだな。」
「若さですか?」
「いや、特殊能力といったところか。」
「特殊能力?何のことですか?」
「…あ…いや…なんでもない。」
「お褒めの言葉として受け止めれば良いでしょうか。」
「ああ。最大級の褒め言葉だ。なんだこの下衆なやり取りは。ふふっ。」
「では旦那の方は部長のほうでよろしくお願いします。」
「ああ、慰めてやるよ。」
電話を切った朝倉は高らかに笑い出した。
「( ´,_ゝ`)クックック・・・( ´∀`)フハハハハ・・・( ゚∀゚)ハァーハッハッハッハ!!」
仕事の上で急な異動というものは混乱をもたらす。それは橘においても同じであった。
部長職に突くことで日常の雑多な仕事から開放されるとおもいきや、彼の場合はそうはいかない。前任者である部長の小池田が急遽戦線から離脱することになり、独力で融資部長としての仕事を習得せねばならなかったためだ。もちろんかつての融資部長である常務の小堀からの指導もあったが、細かなことまでは彼の指示でどうこうなるものではない。正に暗中模索。橘は早く部長としての地位を確立させようと必死だった。
それも先日の山県の激励があってのものだった。
「あんたは期せずしてこのタイミングでこのポジションを射止めた。しかし地方銀行といえどもこのポジションに登ってくる人間はそれなりの実績と評価があってのもの。棚ぼただけじゃない。自信をもってこれから職務に励んでくれ。」65
ー俺の力が試されとる…。
橘は副部長として部長を補佐していた当時の自分の姿を思い浮かべて、想像力を働かせながら懸命に書類と向き合った。
しかし橘の負担はこれだけではなかった。自身の後任として副部長職に引き上げられた人間の育成も課せられていたのである。こちらは今まで自分がやっていた業務をそのままある程度の時間を掛けて後任に引き継げば丸く収まるのだが、彼の場合事情が違った。そう、金沢銀行における消費者ローンの不良債権問題である。
ーあの言葉は…。
「さすが佐竹のお眼鏡にかなう奴らや。早速システム的におかしな所がわかり出しとる。」65
ーHAJAB端末納入時に既に特定の債務者の源泉や所得証明のスキャンデータがランダムに書き換わるプログラムが入れられとったとこまでは分からんはずや。あいつらは所詮ドットメディカルの人間。たかがSE風情でそんな大元のプログラミングまで探れん。仮にそれができたとしてもその仕組を理解できるほどシステムに精通した人間はおらん。それを取り纏めることができるのは佐竹ぐらいや。その佐竹は幸い休暇中。あいつがおらんがやったら大したことはないやろう。次長の松任はそこまでの知識はないはずや。
「橘部長。あんたがHAJABを総務部に斡旋したことは俺は知っとる。」
「そのことをネタにあんたが疑わしいとか言っとる連中が行内に居るっていうのも俺の耳に入ってきとるわけや。」65
ーでも、山県部長は俺をフォローした。
「ほやけどな部長。そんなもんは関係のない話や。部長は部長でその時の最善を総務部に提案しただけ。採用を決定したのは当時の本部や。な。」65
ーけど…あの最後に言ったあのセリフは一体なんやったんや…。
「釣り上げるもんを間違えんなや。」
「部長。…部長?」
自分の名前を呼ぶ副部長の姿がそこにはあった。
「あ?ああ…。どうした。」
「あの…支店から源泉の写しそのものを添付した紙の稟議が上がってきたんですけど、これどう処理すればいいですか。」
「あ?何や?消費者ローンか?」
「はい。データで送れって言ったんですけど、原本に勝るもんは無いやろとか言って受理しろって云うんですよ。」
ー原本やとそれ書き換えれんから困るんやろいや。
「何言っとれんて規則は規則や。イメージデータ送るように言って突っ返せま。原本は事務管へ送れって言え。」
「でもですよ原本なんですからこれでいいんじゃないですか。」
「だら。そんな例外認めたら今度からそれOKになってしまうがいや。そんなことしとると紙媒体が増えてかなわんわ。」
「あぁ…確かに。」
「そもそも文書管理なんて意味わからん仕事に手ぇ割かれるのが嫌やからシステム入れ替えたがいや。文書は能登の山奥で倉庫。俺らはデータで仕事。駄目なもんは駄目や。」
「いいがいや橘部長。」
「え?」
振り返ると常務の小堀が立っていた。
「いいがいや。支店もノルマで躍起になっとらんや。そこは柔軟に対応してやれや。」
「え?しかし…。」
小堀は融資稟議を手にとってしげしげと眺めた。
「あーこれはあれや。」
「なんですか。」
「ほらこの担当者、今年入ったばっかりの新人や。」
そう言うと小堀は担当者印の箇所を指差して橘に見せた。
「なんかパッとせん男やったけど頑張っとらいや。」
「それがどうだと言うんですか。」
「新人やから大目に見てやれや。」
「駄目ですよ。支店の教育が行き届いていないからこんな凡ミスやるんでしょう。」
「まぁそう言わんと。支店は支店で新人の頑張りを本部にアピールしてやりたいんやって。何ならそいつここでスキャンして保存しといてやったらどうや。」
「でも規則です。」
「まぁそう固いこと言わんと。」
小堀は副部長から源泉の写しを取り上げて融資部の女性行員にそれをスキャンしてPDFにするよう命じた。
「ああっ。」
「規則規則言わんと、営業店の支援をするのも融資部の仕事やろ。PDFじゃなくて写しそのものをうっかり送ってきたってだけやろいや。そこら辺はちょっと気ぃ効かせてやれま。原本はそのまま事務管に渡せばそれで済むやろ。」
「…ですが、そういう例外を作ってしまうと今後同じ事例が出てくるとそれに融資部で対応せんといかんくなって、コストが増えます。」
「原本ね…。」
「え?聞いてますか常務。」
「あ?おう。いや…なに、そう言えばここ数年突合しとらんな。」
「え?」
「ほら、ドットメディカルのシステム入れてから原本は事務管理課で集中的に取りまとめて珠洲の山奥の倉庫に保管しとるやろ。」
「え…ええ。」
「融資部に上がってくるのはデータだけや。原本は人目につかん人里離れた倉庫にひっそりと眠っとる。あそこに仕舞われたら誰もそれをよう見ようとは言わん。」
「ええ…。」
「たまにはデータと原本の突合っちゅうもんもせんといかんかな。」
「え?」
「なるほど新人はいいヒントをくれた。ワシはちょっと山県部長と相談してくるわ。」
「ええ?」
「なぁ橘部長。規則ちゅうもんは時々メンテナンスしてやんといかんがや。壁が綻んできたら塗り直す。規則を作るのはワシら役員や。こいつを怠ったらワシらの存在意義は無くなってしまう。部長、あんたもそれに近いポジションに居るんやぞ。」
そう言って小堀は融資部を後にした。
彼の背中を見送った橘はそのまま自席に崩れ落ちるように座った。
「終わった…。」
「部長、どうします?この原本。事務管にそのまま渡してもいいですか?」
橘はこの問い掛けに応える気力を持ち合わせていない。彼はただ頷くだけであった。
矢先、彼の胸元が震えた。咄嗟に席を立った彼は気分がすぐれないと言って席を外した。
トイレの個室に入り、そこに座って深く息をついた彼は携帯電話を取り出した。先ほどのメールは相馬卓からのものであった。
「なんねんて...この切羽詰まった時にメールなんか送ってくんなや。」
こうぼやきながらも彼はそれを開封した。
本文には「片倉帰宅するも妻不在。妻は若い男と外出。片倉呆然とベランダで喫煙す。」とあった。
2枚の写真が添付されており。一枚はその様子を引きで撮ったもの。もう一つはひと目見て憔悴している様子が伝わる片倉の表情を寄りで抑えた画であった。
橘は何の反応も示さず、それを即座に転送した。
「はーっ…」
彼がため息を付いたと同時に再び携帯電話が震えた。今度は通常着信のようである。
「はい。」
「なんだなんだ。」
「...ご覧のとおりです。」
「こいつは決定的だな。」
「…そうですね。」
「どうした。声に元気が無いぞ橘。」
「あ...ええ…まぁ、ちょっと…。」
「なんだ、融資部長としての重責に押しつぶされそうになってんのか。」
「はは...慣れないもんで…。」
「どうだ順調にいってるか。」
「…。」
「おい。聞こえてるのか。」
「あ…はい。」
「どうなんだ。」
「大丈夫です。順調です。」
「そうか。」
「はい。」
「今日の報告は収穫だ。この礼は弾む。」
「…ありがとうございます。」
「そのうちお前も常務だよ。」
「…。」
「今までどおり上手くやってくれ。」
こう言って電話は切られた。直後、橘は床に跪き便器を覗き込んだ。そして逆流してきた胃液をそこに放出した。
「おえっ…! げぇっ…!」
橘の激しくえずく声をよそに、トイレでハンカチを加えて手を洗う厳しい表情の山県有恒の姿がそこにはあった。