リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 本当の命綱(ルカによる福音書 12章13-21節)
    こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」
    (ルカによる福音書12章19節~20節)
    バンジージャンプをしたら紐が切れて落ちてしまった。そういう衝撃的な映像をテレビで見たことがあります。この人の命綱は役に立ちませんでした。
    役に立たない命綱は危険です。愚かな金持ちは、自らが持っている多くの財産を自らの命綱としています。それに信頼し、安心しきっています。19節の「ひと休みして」という発言に、それが表れています。しかし、死を前にして、財産という命綱は何の役にも立ちませんでした。この役に立たない命綱に信頼しきっていたところに、この金持ちの愚かさがあります。
    それでは、どのような命綱に信頼すれば、私たちは真の安心を得てひと休みできるのでしょうか。主イエスはその答えを私たちに示してくださっています。
    「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節、新改訳2017)。
    主イエスこそ、安心できる命綱です。決して切れることはありません。このお方が、今日も私たちを御もとに招いてくださっています。
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  • 律法をどう読むか(ルカによる福音書 10章25-37節)
    「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」
    (ルカによる福音書10章26節)
    「読む」とは、理解し行うことを含みます。主イエスを試そうとした律法の専門家は、自分の正しさを証明するために律法を読んでいました。彼に対して主イエスは、善いサマリア人のたとえを話されます。
    ある人が追いはぎに襲われ、半殺しにされました。それを見た祭司とレビ人は、道の向こう側を通って行ってしまいました。律法には、死体に触れると汚れるという記載があるからです(民5章2節)。この人たちは、律法の専門家と同様に、自分の正しさを証明するために律法を読んでいました。
    一方、サマリア人は憐れに思い、彼を介抱しました。当時サマリア人とユダヤ人は犬猿の仲でした。それを脇に置いて、彼は自らの憐みの感情に従ったのです。愛の心によって、追いはぎに襲われた人の隣人になったのは、このサマリア人でした。
    27節にあるように、律法は愛することと切り離して読むことはできません。主イエスは十字架の御業によって、真の愛を示されました。この愛をとおして律法を読むとき、私たちは永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。
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  • 不完全な私たちを赦す神の完全さ(マタイによる福音書 5章38-48節)
    「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
    (マタイによる福音書5章48節)
    現代社会に生きる私たちを襲う心の病の中で、多くの人が経験するものがうつ症状です。うつ症状に陥ると、今まで当たり前のようにできたことができなくなります。どんなにがんばろうとしても、まるでエンジンが空回りしているように、体が言うことをきかないのです。教会にも、このような症状で苦しんでおられる方が多くおられます。
    うつ症状に襲われる人の多くは今の自分を赦すことができずに、自分で自分を裁き続けてしまう傾向があります。そしてすべての自分のエネルギーを使い果たしてしまうのです。
    真面目な信仰者はよく「わたしは聖書が教えるように、自分の敵を愛することができません」と言って、自分の信仰が不完全であることを嘆きます。自分を赦すことができずに苦しみ続けるのです。
    しかし、神はそのような私たちを完全に赦してくださっています。だから、もはや私たちは自分を責める必要はありません。神の完全な赦しの中に生きることが信仰のうつ症状から解放させる最もよい処方箋だと言えます。神の完全さにこそ、私たちの心を向けたいと願います。
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  • 闇の現実から(士師記 12章)
    エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが、「あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ」と言ったからである。
    (士師記12章4節)
    先の11章にはエフタがアンモン人との戦いに勝利したことが記されていましたが、12章に記されるのはイスラエルの部族同士の戦いです。アンモン人との戦いにおいて、ギレアドの人エフタはギレアドと親しかったマナセの人びとに同行を呼びかけましたが、エフライムの人びとには声をかけませんでした。エフライムの人びとはこのことでエフタに激しく不平を言います。
    エフタはこれに対し、かつて自分とギレアドの人びとがアンモン人と戦っていたとき、あなたたちは助けてくれなかったと反論しますが、エフライムの人びとは私たちにことわりもなく勝手に戦いを始めるなど身の程知らずだとエフタを非難し、ギレアドの人びとを嘲ります。怒りに燃えたエフタはギレアドの人びとを集めてエフライムと戦い、エフライムを撃ち破るのです。
    同じ民族同士、しかも神の選びの民同士が互いに高ぶり、憎み、争い、命を奪い合う。士師記の時代の暗さを思わずにはおれません。この闇の現実から光なる御方、憎しみと争いの連鎖からすべての民を解き放つ十字架のキリストを仰ぐようにと、聖書は私たちを促します。
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  • ただ信頼せよ(士師記 11章)
    エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
    (士師記11章30節~31節)
    勇士エフタは、アンモン人との戦いに勝利しました。それは主が彼と共におられたからです。「主の霊がエフタに臨んだ」からです(29節)。主の民に勝利をもたらしてくださるのは、主なのです。
    ところが、エフタはこの戦いの際に、主に誓いを立てて言いました。主よ、もしこの戦いに勝たせてくださったなら、わたしの帰りを出迎えた者を焼き尽くす献げ物としてささげます。
    この誓いには、どうしても戦いに勝ちたい、勝利を確実なものとしたいとの彼の思いがにじんでいます。確かに彼は勝利しました。しかし、人間を犠牲として主に献げることは、主御自身が禁じておられたことでした。そして、何ということでしょう。帰ってきた彼を家の戸口で出迎えたのは彼の最愛の娘であったのです。エフタは悲しみ嘆きますが、主に対する誓いは取り消すことができません。彼は愛する娘の命を失わなければならなかったのです。
    この悲劇は、神と取り引きする心から生じました。「主の霊がエフタに臨んだ」。それで十分であったのです。全能の主の力に信頼すること。ただそれだけでよいのです。
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  • 主の憐れみのゆえに(士師記 10章)
    彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになり、主はイスラエルの苦しみを見るにしのびなくなった。
    (士師記10章16節)
    主の恵みを忘れて主を裏切り、偶像の神々にひれ伏す。主の怒りの御手に打たれて苦境に立たされると、臆面もなく主の御名を呼び、救いを求めて叫ぶ。しかし、すぐにまた主の恵みを忘れ、主の目に悪とされることを行う。これが繰り返される。
    要するに、イスラエルの民にとって、主なる神は「困った時の神頼み」的な存在にすぎませんでした。三浦光世氏はあるとき奥様の三浦綾子さんに、神を偶像化してはならないと言われたそうですが、イスラエルは彼らの主を偶像の一つにおとしめました。人間の罪深さがこの神の民の姿の中にあらわれています。
    主はイスラエルのそうしたありかたを底の底まで知り抜いておられました。にもかかわらず、驚くべきことにイスラエルを捨てることをなさらず、そのたびごとに助けの御手を伸ばされたのです。
    それはひとえに、「イスラエルの苦しみを見るにしのびなくな」る、主の憐れみによることであったのです。その憐れみによって、主は独り子を十字架におつけになりました。私たちが御自身にしっかりと根差して生きることができるようになるために。
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  • 信教の自由と預言者の務め(エゼキエル書 3章)
    7日の後、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。」
    (エゼキエル書3章16節~17節)
    「信教の自由」も「政教分離原則」も法制度としては近代国家の智慧です。しかし、同時にそれは聖書の教えに適うものです(創立宣言)。
    創世記1章27節は、「神は御自分にかたどって人を創造された」と教えています。すべての人間には神のかたちとしての人権があるのです。つまり、人権は国家が与えるものではなく、神から与えられた普遍的賜物です。そして、その人権の中で最も重要なものの一つとして「信教の自由」があります。なぜなら、「神のみが良心の主」であるからです(ウェストミンスター信仰告白20章2)。たとえ国家権力であっても、信教の自由、良心の自由を侵してはなりません。そして、こうした人権を守るために、日本国憲法は第19条で「思想及び良心の自由」、第20条で「信教の自由、国の宗教活動の禁止(政教分離原則)」を定めているのです。
    教会は、国家が信教の自由や政教分離原則を侵害し、基本的人権を侵害することがないように、「国家を見守る者としての預言者的な務め」(創立30周年宣言)を果たしていくことを、主から求められています。
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  • 信教の自由を守るための闘い(エステル記 4章)
    「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」
    (エステル記4章14節)
    2月11日は、休日の「建国記念の日」ではありません。私たちにとっては、「信教の自由を守る日」であり、信教の自由と政教分離を守るための闘いを自覚する日です。
    戦前、2月11日は「紀元節」とされていました。神道神話に基づき、「神武天皇が初代天皇に即位して日本国が始まった日である」として、1873年に明治政府が定めた祭日でした。それが1967年より、「建国記念の日」という名前で復活したのです。戦前の日本は天皇を現人神とする祭政一致の国家神道体制であり、神社参拝や天皇崇拝が国民に強制されました。教会もそれに追従する罪を犯しました。私たちは二度とその過ちを繰り返してはなりません。
    昨年の天皇代替わり儀式が政教分離の原則を無視して、神道の宗教儀式によって行われたことからも分かるように、再び政教分離と信教の自由を制限しようとする政治的力が強くなっています。今こそ私たちは、自らに信教の自由が与えられ、この時代に遣わされていることの使命を自覚し、信教の自由を守るために共に祈り、共に声を上げていきましょう。
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  • 死の陰の地に住む者に光を(士師記 9章)
    ミグダル・シケムの首長は皆これを聞き、エル・ベリトの神殿の地下壕に入った。…民は皆それぞれ枝を切ると、アビメレクについて行って、それを地下壕の上に積み、そこにいる者を攻めたて、地下壕に火をつけた。ミグダル・シケムの人々、男女合わせて約千人が皆、こうして死んだ。
    (士師記9章46節、49節)
    ギデオンの側女の子アビメレクは、母方の親戚を味方につけ、ギデオンの息子70人を殺しました。兄弟全員を「一つの石の上で殺す」、計画的で残忍な殺人です。彼は父から残酷さと権力欲を受け継ぎました。その後、彼はシケムで王となります。
    3年後、シケム市民はアビメレクに反乱を起こしました。彼は反乱を鎮圧し住民を虐殺します。そして彼自身も、テベツの町を攻撃したとき、町の城壁から投げ落とされた挽き臼により頭蓋骨を砕かれ、死に至ります。
    仲間割れによる殺し合い、結託していた王と民との間に「険悪な空気」を送り込まれたのは神ご自身です(23節)。この悲劇の原因は異教の神バアル・ベリトを神の民が拝んだことにあります(8章33節)。
    私たちの神は妬む神です。異教の神殿を信じて逃げ込み焼け死んだ神の民。神はそれでも民を愛されます。妬むほどに私たちを愛する神は立ち帰って生きるよう求められます。死の陰の地に住む者(マタイ4章16節)に、光なるキリストを送られた愛の神に、心から感謝をささげます。
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  • 正しい基準を教える主イエス(マタイによる福音書 5章21-26節)
    「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」
    (マタイによる福音書5章21節)
    高校生のとき、わたしはスポーツテストで50メートルのタイムを計る審判員をしたことがあります。ところが、わたしのタイムの測り方が間違っていたのでしょうか。すべての生徒の測定結果が普段の記録より良くなっていたのです。その結果、わたしはクラスメートから「走った意味がない」と怒られてしまうことになりました。すべての生徒の記録がよくなったから、それでよかったという訳にはいかなかったのです。
    律法学者やファリサイ派の人々は律法の教えを彼らなりに理解し語っているうちに、誰もが良い結果を得ることができるようにしてしまいました。知らず知らずのうちに律法の教えからズレてしまっていました。ここで主イエスが「命じられている」と言われている部分は、彼らが旧約聖書からつくりあげた一つの基準だったのです。
    主イエスは「わたしは言っておく」と、律法が要求している本当の基準をここで教えられます。主イエスの基準に従うなら、自分の力で「律法による義」を獲得できる人は誰もいません。すべての人が主イエスによって与えられる「信仰の義」を必要としています。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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