リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 心からの悔い改め(士師記 8章)
    ギデオンは彼らに答えた。「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」
    (士師記8章23節)
    勝利を収めたギデオンが王になることを、イスラエルの人びとは求めます。しかし彼は「主があなたたちを治められる」と断りました。とても信仰的な発言に聞こえます。でも実はそうではないのです。彼は口先では信仰を語り神を尊びますが、実際は王のように振舞います。勝利という手柄が彼を高慢にしました。ミディアンの王たちを殺したのは個人的な復讐の色が濃く、仲間のスコトやペヌエルの住民も彼を助けることを拒否しました。彼が主の命令を踏み越えたからです。
    さて、ギデオンは戦利品の金を集め、礼拝用のエフォドを造ります。そして、祭司のように自分勝手に礼拝を行いました。これは伝統的な祭司職の軽視を意味します。彼の自宅にはバアル像があったため誘惑されたのでしょう。指導者のこの軽薄な行動は、人びとが聖所を軽んじるきっかけとなります。そのため、民全体に偶像礼拝の腐敗が広がりました。
    私たちも自分の言葉と行いを顧みましょう。言葉と行いの間にズレがないか、口先だけの信仰でないか。神は私たちの真心からの悔い改めと献身を愛してくださいます。
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  • 神からのテスト(士師記 7章)
    ギデオンは、その夢の話と解釈を聞いてひれ伏し、イスラエルの陣営に帰って、言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたたちの手に渡してくださった。」
    (士師記7章15節)
    ギデオンはミディアン連合軍と数キロの距離で向き合っています。ギデオン軍は3万2千人、対する敵は13万5千人(8章10節)。相手は4倍以上であるのに、神は人が勝利を誇らないために恐れる兵士を去らせます。そうして2万2千人が去り、残るは1万人。3分の2近くが離脱し将軍ギデオンの心は萎えたに違いありません。それでも主は兵士が多いと言い、水飲み場で手から水をすすって飲んだ者だけを残されました。こうして神からの二度のテストを経て残った兵士はたった300人です。
    その夜、主はギデオンに敵陣への偵察を命じます。彼にとって敵は「いなご」や「海辺の砂のように数多く」見えました(12節)。実は将軍の彼こそが戦いを恐れていたのです。そのとき、彼は敵たちがイスラエルに圧倒される夢について語るのを耳にします。彼らはイスラエルの神を恐れていました。ギデオンは話に心打たれ、神を礼拝します。彼の心は恐れから勝利の確信に変えられました。
    神は信仰者の目を御自身に向けることで励まし、強めてくださいます。神にこそ私たちは勇気をいただくのです。
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  • 変革は弱く小さなところから(士師記 6章)
    その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」
    (士師記6章11節~12節)
    ギデオンは敵を避けて、酒ぶねの中に隠れていました。彼のことを御使いは「勇者よ」と言います。人の目にギデオンは勇者らしくありません。しかし、神は彼を用いられるのです。
    ギデオンはやめてほしいと弁解します。「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」(15節)。自分の弱さを数えるギデオンに神はしるしを与えて勇気づけます。
    さて、ギデオンが神から最初に命じられた仕事は自分の家を清めることです。彼の家にはバアルの祭壇がありました。その祭壇を、彼は人目を恐れてこっそり夜中に壊しました。
    近所の人たちは怒り、ギデオンを殺そうとします。しかし、ここで彼の父親が回心し真の神の側に立ったのです。「もしバアルが神なら…自分で争うだろう」(31節)。
    神に強くされた弱い人たちを神は用いてくださいます。「わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリント12章10節)。この後、ギデオンを中心にして神の戦いに参加する人たちが続々と与えられました。
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  • 進んで身をささげるとき(士師記 5章)
    デボラとアビノアムの子バラクは、その日次のように歌った。
    イスラエルにおいて民が髪を伸ばし
    進んで身をささげるとき
    主をほめたたえよ。
    もろもろの王よ、聞け
    君主らよ、耳を傾けよ。
    わたしは主に向かって歌う。
    イスラエルの神、主に向かって
    わたしは賛美の歌をうたう。
    (士師記5章1節~3節)
    士師デボラは、イスラエルに勝利を与えてくださった神に心からの賛美をささげました。それが士師記5章にある長い歌です。
    歌の内容は次のとおりです。敵の将軍シセラは、多くの軍勢によりイスラエルを襲いました。しかし、神は戦場に大雨を降らせ、戦車はぬかるみで立ち往生し、軍馬は逃げ出しました(21、22節)。命からがら脱出したシセラも、逃げ込んだ天幕で寝首をかかれ、命を落とします。
    デボラは、まさに主が民に先立たれ勝利を賜ったのだと喜びにあふれ、力いっぱいイスラエルの神、主を賛美します。しかし、この歌を共に歌えない民がありました。戦いに参加しなかった部族です(15~17節)。自分たちとはこの戦いは関係が薄いと思ったのでしょう。
    勝利の歌は「進んで身をささげ」た者たちに与えられます。この言葉は「ボランティア」とも訳せます。問題が多いこの世にあって、神は人の自由な意思を用いてご計画を実現されます。主の戦いに進んで身をささげる時、喜びの賛美の歌が私たちに約束されています。
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  • 戦いの主人公は誰なのか(士師記 4章)
    デボラは、「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」と答え、直ちにバラクと共にケデシュに向かった。
    (士師記4章9節)
    イスラエルが主の前に再び悪を行ったため、主はカナンの王ヤビンと将軍シセラに主の民を隷属させられました。彼らは鉄の戦車を900両持っており、軍事技術に勝っていました。
    対するイスラエルは、高価な軍備はおろか国も組織されていません。支配は20年におよびます。イスラエルの人びとは悩み、主に助けを求めて祈りました。イスラエルに勝ち目はあるのでしょうか。
    勝ち目はある、と女預言者デボラは考えました。彼女はバラクを指導者にして戦士1万人を集結させます。デボラはバラクに神の御心を告げます。「わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢を…集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す」と(7節)。何と神は敵の将軍をまるで自分の将棋の駒のように自由に扱われるのです。それでもバラクはデボラに同行を願い、神ではなく人間に助けを求めます(8節)。結果、勝利はしてもその栄誉はバラクにもたらされません。
    信仰は神が私たちのために戦ってくださることを教えます。私たちのために戦ってくださる主に信頼し、きょう一日を歩みましょう。
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  • それでも救う神(士師記 3章)
    イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのためにひとりの救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。イスラエルの人々は貢ぎ物を彼の手に託して、モアブの王エグロンのもとに送った。
    (士師記3章15節)
    背信、裁き、叫び、そして士師による救い、これが士師記のパターンを作っています。そしてまた、この理想の形式が次第に崩れていくところに、この時代の悲しみがあります。二番目の士師エフドからすでに崩壊が始まります。
    神が起こされた敵モアブの王エグロンは、神の民を18年間苦しめました。助けを求める民に神が与えられた士師は左利きのエフドです。彼は両刃の剣を作り、右足に縛り付けます。左利きの彼には使いやすく、敵の警備を欺くためでもあります。
    エフドは丸腰と思われ、一人敵陣に入り、貢ぎ物を収めます。「神からの託宣」と言って内密の話をもちかけ、王と二人きりと油断させたところを剣で一突き。王は死にました。非常に太った王の名前エグロンは「子牛」という皮肉な意味です。彼は贈物に弱く騙されやすい。また王が殺されても家来は気づかない。敵の滑稽さとエフドの狡猾さが対照的です。エフドはだまし討ちをした点で不完全ですが、それでも神は彼を用いました。人間の弱さや罪がはびこる時代にも、神は助け手を必ず備えてくださいます。
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  • 律法による義ではなく、信仰による義(マタイによる福音書 5章13-20節)
    「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
    (マタイによる福音書5章20節)
    ロシアの文豪トルストイは、晩年に主イエスが教えた山上の説教の内容に傾倒し、真のキリスト者はその言葉の通りに生きることが大切だと主張しました。ところが、自分の財産を貧しい人に施そうとしたときに家族の反対を受けて、彼は家出をします。結局、彼は旅先の小さな駅舎で一人息を引き取った、と言われています。
    「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」と、主イエスは私たちに教えています。もしこの義が山上の説教の内容を実践することであるとしたら、私たちもトルストイと同じ挫折を経験するはずです。律法学者やファリサイ派の人々は「律法による義」を追い求めました。人間の行いと努力による義を求めました。
    しかし、どんなに私たちが努力しても、自分の力で神の義を満たすことはできません。主イエスはそのような私たちのために、十字架にかかって完全な義を実現してくださいました。山上の説教の教えはこの主イエスに私たちを導く案内人のような役割を果たしています。「信仰による義」こそが私たちには必要であると気づかされるのです。
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  • 尽きることのない主の憐れみ(士師記 2章)
    主の僕、ヌンの子ヨシュアは110歳の生涯を閉じ、…その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。
    (士師記2章8節、10節)
    指導者ヨシュアが亡くなりました。それでも、神のなさった大いなる御業を見た長老たちが生きている間、民は主に仕えました。しかし、次の世代になると、「主を知らず」、主の「御業も知ら」ず(10節)、カナンの豊饒の神バアルやアシュトレトを拝むようになります。神は怒りに燃え、敵の手に民を任せ、略奪されるがままになさいました。
    苦しみ呻く民を神は憐れみ、士師を立てて、外敵から救ってくださいます。ところが、その士師が死ぬと、神の民は以前よりひどく堕落しました。
    このように、神の民はまるでらせん階段を転がり落ちるかのように悪くなります。これは、神の裁きであると同時に、異教の民の中で信仰の節操を彼らが守るかどうか、試みるためでもありました(22節)。
    その後も主は民を憐れんで、士師を送ってくださいます。背き続ける民を憐み、何度でも。ここに暗い時代を照らす光があります。神に従うことができない民の代わりに主イエスが父なる神に従いきることで、私たちの命を勝ち取ってくださったのです。
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  • 熱くも冷たくもない信仰(フィリピの信徒への手紙 1章)
    主がユダと共におられたので、ユダは山地を獲得した。だが、平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった。
    (フィリピの信徒への手紙1章19節)
    リーダーのヨシュアが死に、約束の土地への態度が変わります。士師記の1章は映画で言うと予告編のように、これからのことを圧縮して示す序文です。
    さて土地を獲得するために、最初に立ち上がったユダ族はエルサレム南西方面で戦果を得ました。しかし占領は敵の戦車を恐れて徹底できません。かつてヨシュアは、鉄の戦車を追い出せると言いました(ヨシュ17章18節)。この言葉を彼らは忘れてしまったのでしょう。
    またベニヤミン族はエブス人と共に住み、ヨシュアの真似をしてベテルを攻めたヨセフ族は、神の言葉に背いて異邦人を生き延びさせます。北部の部族も戦いは中途半端でした。
    つまり戦いは征服にはじまりつつも、異教の民との妥協的共存で終わるのです。彼らは少しの戦いで満足し戦いを止めます。一見、戦いが無いことは平和に見えるかもしれません。しかしそれは偶像礼拝への「罠」だと聖書は語ります(2章3節)。神への信仰を守るための戦いをお座なりにした平和は本当の平和ではありません。私たちの信仰に戦いはあるでしょうか。
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  • 憐れみの器(フィリピの信徒への手紙 2章19-30節)
    だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。
    (フィリピの信徒への手紙2章29節-30節)
    「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています」(4章18節)。エパフロディトはフィリピ教会からの支援物資を、牢獄にいるパウロに送り届けるために遣わされた人です。おそらく彼は、そのままパウロのもとに留まり、捕らわれの身であったパウロの代わりに、キリストのために働いたのでしょう。パウロは彼を、「わたしの兄弟、協力者、戦友」であると言います(25節)。
    しかし、彼は病にかかり、それ以上働けなくなりました。「せっかく祈りと期待をもって送り出してくれたのに、申し訳ない」と感じたかもしれません。実力主義の世の中では、結果が出なかったり、役に立たないと判断されたりすれば、簡単に切り捨てられます。しかし、ここには弱い者に注がれる主の憐れみが教えられています。
    パウロは、エパフロディトをフィリピに帰すにあたり、「彼を大いに歓迎するように。彼のような人を敬うように」と勧めます。病で弱った者は、フィリピに戻っても何もできないのでしょうか。いいえ、主の教会では、弱さを知っている者こそが、憐れみの器として用いられるのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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