リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • キリストのへりくだり(フィリピの信徒への手紙 2章1-18節)
    何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
    (フィリピの信徒への手紙2章3節-5節)
    一致して歩むようにというパウロの言葉から、フィリピの教会の現実が見えてきます。何らかの争いや不和によって、思いを一つにできないでいたのです。
    教会はキリストの体です。一人ひとりは各器官です。一つの体の中で、各器官どうしが争っていては、体は前に進めません。足は前に進もうとしているのに、目が横を向いていてはしっかりと歩けません。
    パウロは、フィリピの教会が一致して歩むために「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」と教えます。そして、そのへりくだりはキリストのうちにはっきりと示されているのだと。
    時に、へりくだるのが難しく、「わたしを誰だと思っているのだ」と言いたくなる時もあります。しかし、私たちは誰でもないただの罪人です。神の身分でありながら、僕の身分となって自らの命をささげたキリストは、「わたしを誰だと思っているのだ」などとは言われませんでした。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」へりくだられたキリストが、私たちの内に生きておられます。
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  • 幸せの板挟み(フィリピの信徒への手紙 1章12-30節)
    この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
    (フィリピの信徒への手紙1章23節-24節)
    「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)。これは、牢獄に入れられ、何らかの判決が下されるのを待っているパウロの告白です。
    自分がもし釈放されて、さらに生きることが許されるならば、わたしにとって生きるとはキリストである。主に仕え、実り多い働きができるだろう。それも幸いなこと。
    しかし、もし死刑の判決が出て、牢獄から出ることなくこの世を去るとしても、それはただちにキリストと今より密に結ばれることになるのだから、それもまた幸い。
    パウロは、牢獄にいながら、自分は幸せの板挟み状態であると言っているのです。判決がどう下ろうとも、キリストと共に歩む幸いが用意されている。
    「進むも地獄、退くも地獄」という言葉があります。どう生きても厳しい現実が待っている。そのような不安の板挟み状態を生きている人も少なくないでしょう。しかし、キリストに結ばれているならば、私たちも幸せの板挟み状態を生きているのです。生きるにしても死ぬにしても、キリストが共におられます。
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  • 感謝・喜び・祈り(フィリピの信徒への手紙 1章1-11節)
    わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
    (フィリピの信徒への手紙1章3節-4節)
    私たちは、自分の身がいつどうなるかわからない状況に置かれるとき、まず誰の顔を思い浮かべるでしょうか。愛する家族や、お世話になった人たち、大切な時間を共に過ごした兄弟姉妹ではないでしょうか。パウロは、この手紙を牢獄の中で記しました。自分の身に何が起こってもおかしくない状況で、フィリピの教会の兄弟姉妹たちを覚えて祈っていたのです。
    この手紙を読むと、フィリピの教会にも争いや不一致があったことがわかります。地上の教会は、どこかに弱さや破れを抱えています。
    しかし、フィリピの群れに向けられるパウロの眼差しは、感謝と喜びに溢れています。それは、パウロがイエス・キリストの福音を通して、フィリピの兄弟姉妹たちを見ているからです。キリストの十字架の贖いのゆえに、ただ恵みによって赦されたこと。この恵みの福音を通して、フィリピの群れの兄弟姉妹を見つめています。
    きょう、私たちは誰を思い浮かべて祈るのでしょうか。恵みの福音の光の中で、感謝と喜びの眼差しを持って、とりなすことができますように。
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  • 山上の説教(マタイによる福音書 5章1-12節)
    「心の貧しい人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである。
    …
    平和を実現する人々は、幸いである、
    その人たちは神の子と呼ばれる。」
    (マタイによる福音書5章3節、9節)
    主イエスは山に登って、九つの幸いを説かれました。それらは、弟子たちだけではなく、天の国の民とされたすべての者に約束された幸いです。
    「幸い」は「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、そして「義に飢え渇く人々」に与えられます。それは、周囲からの圧迫と自らの無力さによって、神のもとに逃れざるをえない人々に与えられます。
    また、この「幸い」は、「憐れみ深い人々」、「平和を実現する人々」にも与えられます。それは、私たちが神の御心に従って、人々に仕える時に与えられます。
    主イエスは十字架にお架かりになり、流された血によって、神と私たちの間に平和を打ち立ててくださいました。こうして、主イエスは神と人に仕え、平和を実現されたのです。
    主の日の礼拝で語られる御言葉と、ともに働く聖霊とが、私たちの内にキリストを形づくります。そのキリストが私たちに、幸いの教えを生きるように促してくださいます。私たちの行うことは微々たるものですが、主イエスは私たちを励まし、支えてくださるのです。
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  • 今、悔い改めることの大切さ(エゼキエル書 33章)
    わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
    (エゼキエル書33章11節)
    エルサレムの陥落という決定的な出来事を経験し、あまりにも大きな罪を犯してしまったために滅びるしかないと絶望する捕囚の民。彼らに対して、主なる神はエゼキエルを通して励ましの言葉をかけてくださいました。主は決して悪人が死ぬことを喜ばれません。むしろ悔い改めて悪しき道から立ち帰って生きることを喜んでくださるお方です。それはエルサレムの陥落と捕囚を経験した民にこそ当てはまります。悔い改めて生きる道は、どれほど大きな罪を犯した者たちにも常に残されているのです。
    過去の正しさが現在の罪を贖うことはできません。同時に、過去の罪が現在の真実な悔い改めを無効にすることもできません。なぜなら主なる神は、善悪の量を計って人を裁かれるのではなく、今この時の悔い改めを重んじてくださるお方だからです。
    私たちは生かされている、きょうという日に、真実な悔い改めと、イエス・キリストを信じる信仰をもって、御言葉に聞き従う歩みを積み重ねていきたいと思います。「またいずれそのうちに」と思っている人に、明日があるとは限らないからです。
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  • 割礼なき者の滅び(エゼキエル書 32章)
    「陰府の中から、最も強い勇士たちが
    エジプトとその同盟者たちに語る
    割礼のない者、剣で殺された者たちは
    下ってきてそこに横たわる、と。」
    (エゼキエル書32章21節)
    ここにはエルサレム陥落の知らせが伝えられてから間もなくエゼキエルに啓示された、エジプトに対する神の審判の預言が記されています。
    前半はエジプトの王ファラオに対する嘆きの歌です。ここでファラオは殺される巨大な「わに」にたとえられています。水中で暴れまわる暴虐な「わに」のようなファラオも、主なる神によって多くの民を通して裁かれ滅ぼされます。闇は神の刑罰のしるしであり、豊かな水が澄むのは人も家畜も追いやられていなくなるからです。こうして周囲の民に不安と恐怖を呼び起こしつつエジプトは滅びるのです。
    後半には陰府に下るエジプトの姿が描かれています。彼らが滅んで陰府に下ると、そこには先に滅んだ多くの国がすでに横たわっています。地上で恐れられ、栄華を極めた国々も、その高ぶりのゆえに「恥を負う」ことになります。そこにいるのは「割礼のない者」、異邦人です。しかし、神の民はこの滅亡にあうことは決してありません。主イエスが私たちの代わりに全ての恥を負ってくださったからです。私たちはこの恵みに感謝しつつ、愛する隣人たちの救いのために祈りましょう。
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  • 鳥が巣を作る木(エゼキエル書 31章)
    「大枝には空のすべての鳥が巣を作り
    若枝の下では野のすべての獣が子を産み
    多くの国民が皆、その木陰に住んだ。」
    (エゼキエル書31章6節)
    ここでエジプトは比類なく美しい巨木にたとえられています。その木は他の木々よりも高くそびえ、すべての鳥がその枝に巣を作り、すべての獣、多くの国民がその木陰に宿りました。しかしそのような繁栄もファラオ自身の力によるのではなく、創造者であられる主なる神のご計画によってもたらされたものでした。そのことを悟らずおごり高ぶったエジプトは、その傲慢のゆえに裁かれ滅ぼされ、荒れ果てた場所として鳥と獣の住みかとされます。
    すなわち、もはやエジプトに庇護を求める者はいなくなり、かえって彼らに侵略されます。この預言はバビロンによるエルサレム包囲の終わりごろに語られたと考えられます。窮地でなおエジプトに期待を寄せる民に、その愚かさが明らかにされたのです。
    神を忘れて傲慢になった国はみな、歴史の流れに飲み込まれ、滅びました。主の御国のみが決して裏切ることのない、永遠に続く神の国なのです。そのはじまりはからし種のように小さいのですが、やがては空の鳥が巣を作るほどの大木になります。この神の国に宿り、その成長に仕える者となりましょう。
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  • 剣を奪い与える方(エゼキエル書 30章)
    「主なる神はこう言われる。
    泣き叫べ、ああ、その日は災いだ。
    その日は近い。主の日は近い。
    それは密雲の日、諸国民の裁きの時である。
    剣がエジプトに臨み、戦慄がクシュを襲う。」
    (エゼキエル書30章2節-4節)
    ここでは、主が力強い御手を振るわれる「主の日」に行われるエジプトへの裁きが預言されています(1節~19節)。主なる神は、高慢(6、18節)のゆえに、また偶像崇拝(13節)のゆえにエジプトを打たれます。そしてそのための道具としてバビロンの王ネブカドレツァルを用いられます。彼は自分でエジプトを攻めていると思っていたことでしょう。しかし彼も主なる神によって遣わされた器に過ぎませんでした。しかもそのバビロンも「悪しき者たち」と呼ばれています(12節)。私たちはこの悪しき者さえ用いながら裁きを行われる主なる神こそが絶対的な世界の支配者であられることを覚えるべきです。
    さまざまな困難を経験する中で、私たちは時に自らの小ささ弱さを思い知らされることがあるかもしれません。しかし、主に頼らず人間的な知恵や力という「エジプト」に頼ることは最も愚かなことです。その腕を強め、その手に剣を与えてくださるのは主なる神であることを覚えて、私たちはいつも御言葉の剣を携え、暗闇の力に立ち向かう者でありたいと思います。
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  • 真に頼るべき方(エゼキエル書 29章)
    「その日、わたしはイスラエルの家のために一つの角を生えさせ、彼らの間にあってその口を開かせる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」
    (エゼキエル書29章21節)
    29~32章にかけて、エジプトに対する預言が語られていきますが、29章1~16節はバビロン軍のエルサレム包囲の頃のものです。
    エジプトはユダに対して反乱をそそのかしますが、バビロン軍が侵攻してきたときにはユダを裏切りました。ここで言及されるエジプトの罪は「ナイル川はわたしのもの、わたしが造ったものだ」という高ぶりと(3、9節)、「イスラエルの家にとって葦の杖にすぎない」こと(6節)、すなわちユダに対する裏切りです。そのようなエジプトの王を主なる神は従者もろとも滅ぼし、国土を廃虚とし、その後に小国として再興すると言われます。このことを通してユダは、主なる神に頼らずエジプトに頼るという長年の誘惑から救われるのです。
    私たちもさまざまな苦難を経験するときに、主なる神以外のものを頼りにして自分を救おうとする誘惑が常にあります。しかしそれらは本当の意味で私たちを助けてはくれません。私たちが真に頼るべき方は「葦の杖」のようなエジプトではなく、罪と死の支配を打ち砕く「一つの角」なるメシア、主イエスだけなのです。
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  • 高慢を裁かれる神(エゼキエル書 28章)
    「お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。」
    (エゼキエル書28章9節)
    ここには「わたしは神だ」(2節)と高ぶる都市国家ティルスの君主への裁きの言葉が語られています(1~19節)。ティルスは世俗的な知恵によって繁栄を築き、富を増し加えていきました。しかしその過程において不正が行われ、不法がみちるようになり、やがては「わたしは神だ」と言うほどおごり高ぶるようになってしまうのです。
    そのようなティルスの高慢を神は「最も暴虐な外国人」(7節)であるバビロン軍によって滅ぼされます。その時、自らを神とする彼の思いは幻想に過ぎないということが明らかになるのです。
    人間が神のようになろうとする罪への誘惑は、アダムとエバの時代から常にありますが、神は必ずその罪を裁かれます。私たちはこのことを覚えて、私たちの国の、そして世界の為政者たちが、自らの利益のみを考えて平気で不正を行い、人の命を軽んじ、その内心にまで踏み込み支配しようとするような罪を犯さぬように、諦めずに祈りたいと思います。そして真の神のみを神とする者に与えられる祝福を豊かに味わい、喜んで証しできる者でありたいと願います。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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