リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。(エフェソの信徒への手紙 5章)
    何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
    (エフェソの信徒への手紙5章10節)
    パウロは5章で、私たちが物事を判断し、具体的行動に移る場合に大切な原則を示します。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」と。
    わたしは20歳の時に初めて教会へ行き、聖書と説教に触れました。物事を考え行動する際の正しい判断基準は何だろうと、ずっとわたしは考えてきました。そのようなわたしにとって「これだ」と大変嬉しかったものが、「何が主に喜ばれるか」を吟味するということでした。
    実際には、聖書全体をよく読み、神の御心を十分に知っていなければ、これは簡単なことではありません。しかし、少なくとも、周囲の状況や雰囲気に流されるとか自分の感情や衝動で行動する危険は回避でき、一瞬でも主に祈ってから判断することを可能にさせます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ロマ12章2節)。
    主よ、常に、あなたの御心が何かを吟味し判断することから始めさせてください。
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  • 謙遜さ、柔和さ(エフェソの信徒への手紙 4章)
    神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
    (エフェソの信徒への手紙4章1節~3節)
    3章まで神のすばらしい永遠の救いの計画や恵みなど教理的なことを教えてきたパウロは、4章から手紙の読者に実践的勧めをします。但し、「神から招かれたのですから」と、あくまで神の恵みを確認した上で勧めます。
    では何から勧めるでしょうか。霊的一致です(3~13節)。しかし、そのために、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって」と述べ、謙遜、柔和、寛容、愛という人格的特質に触れます。それも特に謙遜、柔和(直訳「すべての謙遜と柔和」)という点から始めます。これは何と大切でしょうか。キリスト者は、実践や行動に先立ち、信仰による自らの人格がまず問われるべきことを教えられます。それも、特に神の前での謙遜さや柔和さからです。主イエスも山上の説教の冒頭で「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々」をあげ、キリスト者の最も幸いな人格的特質の筆頭に、謙遜や柔和をあげられます。真に神に喜ばれる私たちの具体的な行動は、これらから生れることを重ねて教えられます。
    主よ、私たちをまず謙遜で柔和な者にしてください。
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  • キリストの愛を知る(エフェソの信徒への手紙 3章)
    あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
    (エフェソの信徒への手紙3章18節~19節)
    パウロは手紙の読者たちが霊的に成長することを願います。ここでは、特に人知を超えたキリストのすばらしい愛を知るようにと言います。
    「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを」と、パウロはさまざまな概念を総動員してキリストの愛のすばらしさを語ります。彼もキリストの愛の全貌を知っているのではありません。しかし、罪人の中で最たる者(1テモ1章15節)である自分がキリストの愛に捕えられ、キリストのものとして生きる中で主の愛を知れば知るほど、彼は「神の満ち溢れる豊かさ」に満たされる幸いを覚えるのでした。その同じ幸いに読者たちにも与ってほしかったのです。
    ルターは、若い元気な時は自分が死に向っている存在であることを覚え、老年になって死が近くなった時は、死そのものよりイエス・キリストに目を留めるべきだと言いました。私たちも年を重ねる毎に、天におられるキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さをますます知り、讃える者にされたいと思います。
    主よ、あなたの愛をさらに鮮やかにかつ豊かに知る者へと私たちを清めてください。
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  • 恵みにより、信仰によって救われる(エフェソの信徒への手紙 2章)
    事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。
    (エフェソの信徒への手紙2章8節~9節)
    もし救いが、私たちの優れた善い行いとか、あるレベルまで自分の人間性を高める私たちの努力にかかっているとするなら、だれが救われるでしょう。パウロと共に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ7章24節)と叫ぶほか、ないのではないでしょうか。
    しかし、主の御名はほむべきかな!なんと神は、このような私たちを、御子イエスを心から救い主と信じ、受け入れ、依り頼む信仰だけで、本当に救ってくださるのです。しかも、御子を信じるその信仰も神がくださったのでした。私たちは、「自分の過ちと罪のために」霊的に「死んでいた」者です(2章1節)。従って、自分で救いに至る信仰を生み出すことなどできません。すべては神の一方的な恵みによるのです。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」。この感謝をどう表せば良いでしょう。
    神よ、あなたの一方的な救いの恵みに感謝し、御名をひたすら賛美いたします!
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  • 天地創造の前に選ばれる!(エフェソの信徒への手紙 1章)
    天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
    (エフェソの信徒への手紙1章4節)
    「神のラブレター」とも言われる聖書には、驚くほど慰め、励ましに満ちた御言葉が随所に見られます。きょうの御言葉もまさにそうです。
    自らを省みますと、私たちには永遠の救いに与れる資格など一つもないことがよく分ります。受洗後、何十年たっても不信仰で罪深く、「主よ、お赦しください」と主にすがるほかない私たち!
    けれども、主イエスから離れることはイヤです。離れられません。何故でしょう。それは、神が「天地創造の前に…わたしたちを愛して、…キリストにおいてお選び」になっていたからなのです。「天地創造の前に」、しかも、十字架で命までささげてくださった慈しみ深い「キリストにおいて」です。何という神の愛と救いのご計画でしょう!
    いつまでも信仰の薄い私たちですが、神の愛にただただ感謝し、「聖なる者、汚れのない者」になることを私たちに期待しておられる神の愛に応え、御言葉にますます従順でありたいと願います。
    主よ、あなたの選びに感謝し、体も心も魂もささげます。主よ、私たちを、ご栄光をさらに顕し、あなたを永遠に喜ぶ者にしてください。
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  • 来るべき方(マタイによる福音書 11章2-11節)
    「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか。」
    (マタイによる福音書11章3節)
    「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」(10節)。そう主イエスが言われるとおり、ヨハネが「来るべき方」を告げ知らせます。疑問を起こさせるような問い方ですが、こう問うヨハネが「牢の中」にいる、ということが重要です。この問いへの主イエスのお答えは、多くのことにとらわれて、牢の中にいるような私たちへのお答えでもあるということです。
    主イエスは「見えない人は見え、…」という代表的な言葉を挙げて、イザヤ書の預言全体が実現していることを示し、ヨハネと私たちを励ましてくださったのです。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」(イザ35章4節)。預言どおりわたしが来た、わたしがあなたを救う、と。
    「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。…主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」(ヤコ5章7、10節)。「主の民よ、喜べ。主は近い」(こどもさんびか)。
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  • 主なる神はこう言われる(エゼキエル書 25章)
    主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、顔をアンモン人に向けて、彼らに預言せよ。アンモン人に言いなさい。主なる神の言葉を聞け、主なる神はこう言われる。」
    (エゼキエル書25章1節~3節)
    25章から、南ユダ王国を取り巻く、七つの国々に対する預言が語られています。
    「アンモン人に言いなさい。主なる神の言葉を聞け、主なる神はこう言われる。お前はわたしの聖所が汚され、イスラエルの地が荒らされ、ユダの家が捕囚となって行ったことを、あはは、と言って嘲った」(3節)。こうして、アンモン人は神の民の不幸を笑って嘲りました。
    モアブも、「ユダの家も他のすべての国のようになった」と言って嘲りました。彼らは、イスラエルが神に選ばれた民であることを侮ったのです。
    エドム人は、「ユダの家に復讐をした」。エドム人の罪は、神の民に対する復讐でした。
    ペリシテ人は「復讐し、嘲りの思いをもって大いに仇を報い、昔からの憎しみにかられて滅ぼそうとした」。ペリシテ人の罪は、神の民に対する昔からの憎しみでした。
    神は、神の民を嘲った国々に対して滅びを警告されました。それは、神が今もなお、神の民を愛しておられることを意味します。
    同じように、神は、私たちの敵であるサタンを滅ぼすことで、神が私たちの味方であることを示しておられます。
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  • わたしが神であることを知るようになる(エゼキエル書 24章)
    「エゼキエルは、お前たちにとってしるしとなる。すべて彼が行ったように、お前たちもするであろう。すべてが実現したとき、お前たちは、わたしが主なる神であることを知るようになる。」
    (エゼキエル書24章24節)
    バビロンがエルサレムを包囲し始めた日、神はエゼキエルにたとえを語るように言われました。さびた鍋のたとえです。さびた鍋に、肉や骨を煮込んで、錆を取ろうとしても、錆は取れません。次に、そのまま強く燃やすように言われます。料理がすべて燃え、空の鍋を火にかけて錆が剥がれ落ちるようにさせたのです。それでも錆は落ちません。それほど、神の民の罪は深かったのです。
    続いて神はエゼキエルに、大きな悲しみを予告され、その悲しみの中でも、「声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな」と言われました。そして、彼の妻が死んだとき、彼は声をあげずに悲しみ、喪に服しませんでした。
    人びとが「あなたが行っているこれらの事は、我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と尋ねると、エゼキエルが声をあげずに悲しんだように、エルサレムが滅ぼされてもイスラエルの民が声をあげずに悲しむようになると預言したのです。
    彼が妻の死に対してとった行動で、神が主であることを人びとが知ったように、私たちの歩みが人びとに神を示すものとなりますように。
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  • オホラとオホリバ(エゼキエル書 23章)
    主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、かつて二人の女性がいた。彼女たちは同じ母の娘であった。…彼女たちの名は、姉はオホラ、妹はオホリバといった。彼女たちはわたしのものとなり、息子、娘たちを産んだ。彼女たちの名前であるオホラはサマリア、オホリバはエルサレムのことである。」
    (エゼキエル書23章1節~2節,4節)
    神は、とても長いたとえを語られます。二人の娘、オホラとオホリバの話です。この二人の娘は、分裂した北イスラエル王国と南ユダ王国を表しています。北イスラエル王国の都はサマリアであり、南ユダ王国の都はエルサレムです。
    北イスラエル王国は、アッシリヤによって滅ぼされました。それまでの王たちは、一度も、偶像礼拝をやめることはありませんでした。北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた後も、南ユダ王国は残っていました。これまで北イスラエル王国がやってきたことを南ユダ王国は見ていました。それにも関わらず、南ユダ王国はまったく同じ道をたどっていったのです。
    旧約聖書は、神と神の民との関係を、結婚にたとえています。同じように新約聖書も、キリストと教会との関係を結婚にたとえています。どちらも、神と私たちとの関係が契約に基づいた、人格的な愛の交わりだからです。
    神との関係を裏切り、神を悲しませたオホラやオホリバのようにではなく、キリストの花嫁である教会の一員として、神との契約を大切に守りましょう。
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  • 破れ口に立つ者(エゼキエル書 22章)
    この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。
    (エゼキエル書22章30節)
    神の民は、金滓のようになってしまったと、神は嘆いておられます(18節)。そして、神の民を裁き、滅ぼしてしまう前に、神は、神と民との間に立って、破れ口に立つ者を探されました。「破れ口」というのは、敵の攻撃で壊された城壁の崩れかかった所で、敵と味方が入り乱れて戦う、戦いの最も激しいところです。そこに立つ者とは、戦いのまっただ中に身を置きながら、関係を修復する努力をする者、間に立って、執り成す者です。
    神は、そのような破れ口に立つ者を探されました。それは、神が関係の修復を望んでおられるからです。しかし、それでも彼らの中に見いだすことはできなかったと言われます。この時代に、バビロンには預言者エゼキエルがおり、エルサレムには預言者エレミヤがいましたが、それでも、破れ口に立つ者を見いだせなかったと言われます。
    私たちには、神と私たちとの破れ口に立ってくださったイエス・キリストがおられます。主イエス・キリストが十字架の死とあがないによって、神と私たちを和解させてくださいました。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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