リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 破れ口に立つ者(エゼキエル書 22章)
    この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。
    (エゼキエル書22章30節)
    神の民は、金滓のようになってしまったと、神は嘆いておられます(18節)。そして、神の民を裁き、滅ぼしてしまう前に、神は、神と民との間に立って、破れ口に立つ者を探されました。「破れ口」というのは、敵の攻撃で壊された城壁の崩れかかった所で、敵と味方が入り乱れて戦う、戦いの最も激しいところです。そこに立つ者とは、戦いのまっただ中に身を置きながら、関係を修復する努力をする者、間に立って、執り成す者です。
    神は、そのような破れ口に立つ者を探されました。それは、神が関係の修復を望んでおられるからです。しかし、それでも彼らの中に見いだすことはできなかったと言われます。この時代に、バビロンには預言者エゼキエルがおり、エルサレムには預言者エレミヤがいましたが、それでも、破れ口に立つ者を見いだせなかったと言われます。
    私たちには、神と私たちとの破れ口に立ってくださったイエス・キリストがおられます。主イエス・キリストが十字架の死とあがないによって、神と私たちを和解させてくださいました。
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  • 神から試みられるとき(エゼキエル書 21章)
    それは試みを経たものである。もし、それが侮る杖でないとしたら、一体何であろう、と主なる神は言われる。
    (エゼキエル書21章18節)
    ネゲブの森を焼き尽くす火も、エルサレムに向かって送られる剣も、神が神の民を、罪から悔い改めさせて引き戻させるための試練でした。それらの試練が「杖」と言われています。
    火が森を焼き尽くしていくことは、イスラエルの民の目には、神の裁きとして見えたことでしょう。同じように、エルサレムに向けられた剣も、神の裁きとして見えたことと思います。しかし、これらの試練は、神の民が罪を悔い改め、神に立ち帰るよう期待されて起きたことでした。もし、神の裁きが民を苦しめるだけのものなら、神からの預言もなく、悔い改めへの招きもなかったでしょう。
    私たちの信仰生活でも、時には試練が、神の裁きのように見えることがあります。しかし、その試練の中でもなお神を信頼することができます。聖書がこう約束しているからです。
    「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブ12章5~6節)。
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  • 神の愛を知るとき、神の前の自分を知る(エゼキエル書 20章)
    わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる。
    (エゼキエル書20章42節~43節)
    神の民イスラエルは、エジプトからの救いを経験していながら、神が共におられることの喜びと恵みを忘れてしまいました。
    バビロンに捕囚となっている神の民の将来と、故郷エルサレムを思う、イスラエルの長老たちが、エゼキエルのもとに主の御心を求めて集まったとき、神はエゼキエルをとおして言われました。
    「わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分を汚したすべての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪のゆえに自分を嫌悪するようになる」と。
    光から離れたところでは、シャツに着いた小さな汚れに気付くことはありませんが、光に近づくほど、小さな汚れにも気づきます。同じように、私たちの信仰生活でも、神の愛と恵みを受けるとき、神の御前にある自分を知り、心からの罪の悔い改めへと導かれるのです。
    神が神の民を何度も赦されたように、神は何度でも、私たちを赦して、悔い改めへと導いてくださいます。
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  • 天の国は近づいた(マタイによる福音書 3章1-12節)
    そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言った。
    (マタイによる福音書3章1節~2節)
    主イエスが来られます。それで「悔い改めよ、天の国は近づいた」と告げられます。
    この1年も、家庭や職場や教会の一致を破ろうとするいろいろなことがあって、疲れ果ててしまったかもしれません。きょうも共通聖書日課に示されている併読すべき聖書個所に導かれましょう。
    「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を…救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い、不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように」(詩72編12~14節)。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、…父である方をたたえさせてくださいますように」(ロマ15章5、6節)。これらの祈りにこたえて、私たちの主は来られます。
    「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。…弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」(イザ11章3、4節)。主の霊に満たされたキリストが、心を剣で刺し貫くような教えによって私たちを悔い改めさせ、私たちの間の平和を回復してくださいます。
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  • イエスの焼き印(ガラテヤの信徒への手紙 6章)
    これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
    (ガラテヤの信徒への手紙6章17節)
    「イエスの焼き印を身に受けている」とは、強烈な表現です。それは、本来、自分が自分の物ではなく、誰かの所有物としての奴隷の身分を表わす言葉だからです。
    このようなパウロの生き様に比べると、人との摩擦を避け、迫害されないために割礼を勧めている人びと(12節)は、何と情けなく見えてくることでしょう。
    「イエスの焼き印」を受けた者は、しかし、自らを誇る者ではありません。むしろ、その逆です。自分が弱く何一つ誇れるところのない者であることをよく知っている人びとです(3、4節)。だからこそ、罪を犯す人を柔和な心で導くことができるのです(1節)。互いに重荷を担い合い(2節)、すべての人に親切になれるのです(10節)。
    「イエスの焼き印」は、十字架の形でしょうか、それともハートの形でしょうか。いずれにせよ、永遠に魂に刻まれる神の愛の形であることは確かです。そして、この焼き印を身に受けた人びとこそ、神によって新しく創造された人なのです(15節)。
    そのような人びとの上に、主イエスの平和と憐れみがありますように(16節)!
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  • 霊の導きに従って歩もう!(ガラテヤの信徒への手紙 5章)
    わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
    (ガラテヤの信徒への手紙5章25節)
    パウロは、キリスト者の生活を表現するのに、しばしば、「走る」とか「歩く」という比喩を使います。「あなたがたはよく走っていました」(7節)、「霊の導きに従って歩みなさい」(16節)、「霊の導きに従ってまた前進しましょう」(25節)等々。
    それは、キリスト者の人生が、やがて訪れる希望の実現に向かって前進し続けるものだからです(5節)。そして、何よりキリスト者を活かすキリストと霊御自身が生きておられ、私たちの心と体を絶えず「愛の実践」へと促すからです(6節)。
    命の霊の働きは、水の流れに似ています。絶えず流れている水は、いつでも新鮮で透き通っています。そのほとりに植えられた木は、時が来れば実を結びます(22節。詩1編3節)。しかし、そこから逸れて脇道に入ると水は淀み始め、やがて悪臭を放ちます(19~21節)。
    霊を呼び込む必要はありません。キリストに結ばれているなら、あなたにもすでに霊は与えられているのですから。その霊の流れを妨げないこと、脇道に入らないこと、それたらすぐに流れに戻る(悔い改める)ことです!
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  • 神の子の自由を失うな!(ガラテヤの信徒への手紙 4章)
    わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
    (ガラテヤの信徒への手紙4章19節)
    「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった…。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(5章1節)。そのことだけが、パウロの願いです。にもかかわらず、「あなたがたのことで途方に暮れている」と無力感に打ちひしがれています(20節)。言葉だけではどうにもならないこともあるのです。
    キリスト者に与えられた自由とは、自分が好き勝手にする自由のことではありません。「アッバ、父よ」と神を呼び求める神の子の自由です(6節)。神に知られている幸せを生きる自由です(9節)。キリストにある人びとをどんな人でも喜んで愛する自由です(14節)。
    反対に、世の価値観に支配されること、形だけの信仰生活、この世の地位や名誉で人を判断すること、要するに福音を失った魂をパウロは「奴隷」と呼ぶのです。
    ああ、私たちは何と容易く自由を失って奴隷状態に戻ってしまうことか。何は無くとも毎日が喜びであった無邪気な子どもの心を、何とすぐに失ってしまうことか。私たちの内に、再びキリストが形づくられますように!
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  • 目の前に十字架を(ガラテヤの信徒への手紙 3章)
    ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。
    (ガラテヤの信徒への手紙3章1節)
    この実に豊かな内容を持つ1章の中で、心にとまったメッセージは何でしょうか。
    何の行いにもよらず、ただ福音によって心動かすという“霊”の働きの素晴しさでしょうか(2節)。そのとおりです! その恵みのゆえに神を賛美しましょう。
    キリストが私たちの呪いとなられ、今や私たちがすべての呪いから解放されていることでしょうか(13節)。そのとおりです! その愛のゆえに主を賛美しましょう。
    何千年も前に語られたアブラハムへの神の約束が、私たちにも及んでいることの驚きでしょうか(22節)。そのとおりです! その真実のゆえに主を賛美しましょう。
    洗礼とは、キリストと結ばれ、その愛の衣をまとうことだとの気付きでしょうか(27節)。そのとおりです! 計り知れない洗礼の恵みのゆえに主を賛美しましょう。
    そうして、今や私たちは皆、何の差別もなくキリストにあって一つとされていることの喜びでしょうか(28節)。そのとおりです! 何という驚くべき恵み、神の救いの御業でしょうか。
    こんなにも恵みに満ちた十字架をきょうも目の前に!
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  • まっすぐ歩く(ガラテヤの信徒への手紙 2章)
    しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたは…どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
    (ガラテヤの信徒への手紙2章14節)
    主イエスを三度も否定したペトロは、ペンテコステの日に聖霊を受けて、強い信仰を持つ弟子に生まれ変わったはずでした。しかし、信仰者の成長はそれほど単純ではないことをきょうの御言葉は教えてくれます。
    イエス・キリストの福音は「どんな国の人でも」救う力があると確信し(使徒10章35節)、異邦人とも食事の交わりを持っていたペトロ。ところが、目の前に律法を重んじる人びとが現れると、彼らを「恐れてしり込みし、身を引こうとしだした」のです(12節)。
    キリストの十字架の福音は、罪深い私たち自身を超え、人を分け隔てする律法を超えて、ただ神の愛に生きる者へと造り変える恵みの力です。ところが、目の前の現実を恐れて「まっすぐ歩いていない」と、まるで湖上のペトロのように沈みそうになるのです(マタイ14章30節)。
    「人を恐れると、わなに陥る。主に信頼する者は安らかである」(箴言29章25節、口語訳)。わたしを愛してくださった方(20節)をまっすぐ見つめて歩みましょう。それが、福音の真理に生きる道だからです。
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  • 天からの福音(ガラテヤの信徒への手紙 1章)
    兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。
    (ガラテヤの信徒への手紙1章11節~12節)
    『ガラテヤの信徒への手紙』は、新約聖書の中でも異彩を放っています。新約聖書の約半分を占める書簡を書いたパウロが、自分の存在をかけてまことの「福音」を守ろうとしている手紙だからです。
    かつてパウロの宣教によってキリストの福音へと導かれた人びとが、今や「ほかの福音」(6節)に乗り換えようとしている現実に、パウロは衝撃を受けたのです。「ほかの福音」と言っても何か別の福音があるわけではなく、イエス・キリストが成し遂げてくださり、告げ知らされるべき福音はただ一つなのに!
    しかも、パウロは、自分を売り込むために言っているのではない。もしこのまことの福音に反することを告げ知らせているのなら、自分もまた呪われるがよい、とさえ言います(8節)。この福音こそ、パウロを変え歴史を変えた、聖書全体を貫く神の啓示の中心だからです。
    それは、あのクリスマスの夜に、羊飼いたちに与えられたような知らせです。天から、一方的に与えられた福音です。ですから、誰も誇ってはなりません。ただ神を賛美することこそ、ふさわしい応答なのです(24節)。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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