リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 神のものは神に返しなさい(マタイによる福音書 22章)
    イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
    (マタイによる福音書22章20節~21節)
    主イエスはエルサレムへ入られると、毎日神殿において民衆に教えられました。そこにファリサイ派とヘロデ派の人がやってきて主イエスに議論を吹っ掛けます。彼らはなんとかして主イエスの言葉尻をとらえ、捕まえようとします。彼らは税金を皇帝に納めるのが律法に適っているかどうかを尋ねました。しかし、これは罠でした。適っていないと答えれば、それは皇帝を冒涜したことになります。逆に適っていると答えれば、民衆から反発されます。
    この問いかけに対して主イエスは適っている、いないとは答えられませんでした。主イエスはコインに刻まれている皇帝の肖像を確認させます。当時はローマ帝国によってユダヤは維持管理されていました。その現実から皇帝に税を納めなさいと言われます。
    一方で、主イエスは皇帝の支配の限界を示されます。そして「神のものは神に返しなさい」と言われました。神のものとは、私たち自身のことです。人間には神の像が刻まれています。私たちは神の被造物です。神が私たちを所有されています。ですから、私たちは皇帝にではなく、神にのみ礼拝をささげます。
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  • 主の召しに従う(マタイによる福音書 21章)
    「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
    (マタイによる福音書21章2節~3節)
    いよいよ主イエスは弟子たちとエルサレムへ入られようとしています。その時、主イエスはろばの子を連れてくるように二人の弟子に命じます。
    二人の弟子が村に行ってみると確かにろばの子がつないでありました。そこで彼らはこのろばの子を主イエスのもとへ連れて行きました。
    なぜ、ろばの子だったのでしょうか。なぜ主イエスは馬ではなく、ろばを、それも子ろばを召されたのでしょうか。それは、主イエスが権力者としてではなく、平和の使者としてエルサレムへ入城されるからです。ゼカリヤ書にこう記されています。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、…高ぶることなく、ろばに乗って来る」(9章9節)。
    さらには、ろばの子は私たちに通ずるのではないでしょうか。馬のように速く走ることのできないろば、しかも力の無いろばの子。私たちもそうです。力も能力もないろばの子を主はお入り用とされました。想像ですが、このろばの子は素直に主イエスのところまで連れてこられたはずです。主イエスが召されるのは力があるから、能力があるからではなく、主イエスに素直に従うものだからです。
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  • 目が見えるようになった二人の信仰(マタイによる福音書 20章)
    イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
    (マタイによる福音書20章32節~34節)
    主イエス一行はエルサレムの近郊のエリコに入りました。大勢の群衆も従っていました。すると、道端に二人の目の不自由な人が座って、物乞いをしていました。
    その二人は主イエスが通ると聞くと、声を張り上げて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。周りの人の制止も振り切って叫び続けました。彼らは目が見えません。主イエスがどこにいるかわかりません。主イエスに助けてもらうためには群衆の中では大声を出して呼ぶしかなかったのです。
    主イエスはこの二人の叫びに応答なさいます。そして、二人を呼び寄せ、何をしてほしいのかと尋ねられます。二人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と答えるのです。当然の答えかもしれません。しかし、ここに彼らの信仰が表れています。主イエスなら目を開くことがおできになるという信仰です。彼らは願い通りすぐに見えるようになりました。
    彼らは主イエスに従いました。目が見えるようになったばかりでなく、彼らは身を委ねることができる方に会うことができたのです。
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  • 天の国に入る者とは(マタイによる福音書 19章)
    イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
    (マタイによる福音書19章14節~15節)
    人びとが主イエスのそばに子どもたちを連れてきました。それを見た弟子たちは叱りました。弟子たちが叱った理由は、当時のユダヤ教の教えにより律法を守ることのできない子どもたちには神聖な所に近づくことは許されていないからということと、今エルサレムへの旅の途上で緊張が高まっているので子どもを相手にしている暇などないと弟子たちが思ったからでした。
    しかし、主イエスは「子供たちを来させなさい」と言われ、子どもたちを受け入れられます。さらに「天の国はこのような者たちのものである」と教えられました。
    その理由は、子どもたちが純粋無垢でかわいいからということではありません。その理由は、子どもたちが自分の力では存在することができないからです。自分ではほとんど何もできないことが分かっているからです。他から与えられるものに全面的に依存して生きているからです。
    天の国は子どものように、神を信頼し、神の無条件の恵みを受け取り、神に身を委ねる者のものです。
    きょうも神を信じて歩みましょう。
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  • 証しをする機会(ルカによる福音書 21章5-19節)
    「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」
    (ルカによる福音書21章12節~13節)
    30年ほど前、わたしは兵役のために軍隊に入り、3年間、部隊に配属されました。
    宿舎に入ると、上官たちが興味津々でわたしを見つめました。わたしがクリスチャンであることを知ると、彼らの態度が急変し、最年長の上官がわたしを隅に連れて行って、神が上か上官が上かと聞きました。わたしが「神が上です」と答えると、彼はわたしの口から「上官が上だ」という言葉が出るまで聞き続けようとします。何度聞かれても「神が上だ」と答え続けると、彼はわたしのバッグを外に放り投げて、「お前のような奴は要らない」と追い出しました。あとから分かったことですが、この部隊では直前にクリスチャン兵士に関わることで問題が起きていたとのことです。
    これがわたしの軍隊生活の始まりでした。彼らと一緒に生活し、訓練と教育を受けることはとても辛いことでした。しかし、このような環境であったからこそ、わたしは自分が信じているイエス・キリストをさまざまな形で証しすることができました。迫害はキリストを証しするチャンスです。勇気を与えてくださる神に依り頼みましょう。
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  • 悲しみの歌(エゼキエル書 19章)
    今や、その木は
    荒れ野に、乾いた水なき地に
    移し植えられた。
    また、若枝の茂る太い枝から
    火が出て、実を焼き尽くした。
    それゆえ、この木には
    支配者の杖となる強い枝はなくなった。
    この歌は悲しみの歌。
    悲しみの歌としてうたわれた。
    (エゼキエル書19章13節~14節)
    エゼキエルは、南ユダの王ヨヤキン王と共にバビロンに連れ去られ、捕囚の地で預言を語りました。19章は、残されたエルサレムについて歌う、「哀歌」と言われる悲しみの歌です。神の裁きにより滅びゆくイスラエル(南ユダ王国)、3、4節はとくにヨアハズ王、5~9節はヨヤキム王、10~14節はゼデキヤ王について歌っています。
    ユダの地エルサレムは焼き尽くされ、国の滅亡へと至ります。最後の王ゼデキヤの主への反逆により、国の滅亡を避けて通ることはできません。ダビデの子孫による王制が終わりを告げます。主を忘れ、自らの力で国を繁栄させようとするとき、主の裁きを逃れることはできません。
    しかし、自らの罪を嘆き悲しむとき、主なる神が寄り添っておられることが示されます。主なる神は、エゼキエルを通して、ダビデの子であるメシアによる永遠の契約をお示しくださいます(37章24~28節)。悲しみを通して受け取るべきは、主の裁きの厳しさ以上に、主を信じる者に与えられる救いの恵みです。悲しみの中で主を仰ぎ見て、神の救いの御業に感謝しましょう。
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  • あなたは責任転嫁をしていないか(エゼキエル書 18章)
    悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。
    (エゼキエル書18章21節~23節)
    バビロン捕囚の後、エルサレムに残った人びとは、「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と口にしていました(2節)。バビロン捕囚は先祖の罪の結果であり、自分たちには責任がないということです。これは十戒の第二戒、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出20章5節)を悪用したもので、自らの罪の責任転嫁、当事者意識の欠如にほかなりません。
    主なる神は、あなたが主の御前に立ち、自らの姿を顧みることを求めています。「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタ7章3節)とおっしゃる主の御前に、思いと言葉、行いのすべてにおいて自らを顧みることが必要です。
    「すべての過ちから離れて、…正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる」。これが主なる神の約束です。自らの罪を悔い改め、主に従おうとする者は、「新しい霊」が与えられ(31節)、キリストにある新しい命に生かされます。主イエスと共に十字架に架けられた囚人(ルカ23章43節)と姦淫の女(ヨハ8章11節)がその証しです。
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  • イスラエル再興の約束(エゼキエル書 17章)
    主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。
    (エゼキエル書17章22節~23節)
    主なる神は、「大鷲が、レバノンに飛来する。その鷲はレバノン杉の梢を切り取り、その頂の若い枝を折って、商業の地に運び、商人の町に置いた」(3、4節)とエゼキエルに語りました。バビロン捕囚によってエルサレムの指導者が連れ去られることを告げています。これは、選びの民であるイスラエルに対する主の裁きです。それほどまでにイスラエルの罪は大きいのです。
    しかし、主なる神は同時に、イスラエルを完全に滅ぼし尽くさないこと、捕囚の民からエルサレムを再興し、イスラエルに祝福を与えることを約束されました。柔らかい若枝が高くそびえる山に移し植えられ、うっそうとしたレバノン杉になる(22、23節)。この若枝は救い主である御子イエス・キリストを指し示しています。キリストの十字架による死と復活によって、新しい神の民が興されます。
    預言者エゼキエルは、主の約束を自ら確認することはできませんでした。しかし、彼は主による救いの約束を信じて、イスラエルの人びとに悔い改めを訴え続けました。
    今に生きる私たちにも、主は救いと神の国の完成を約束してくださっています。
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  • だが、永遠の契約を立てる(エゼキエル書 16章)
    「だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。…わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。」
    (エゼキエル書16章60節、62節)
    エゼキエルは、「人の子よ、エルサレムにその忌まわしいことを知らせなさい」(2節)と命じられました。「忌まわしいこと」とは神の民の背きとその結果としての裁きです。
    「わたしはお前に誓いを立てて、契約を結び、お前は、わたしのものになった」(8節)と言われる通り、イスラエルの民は神の民です。しかし、イスラエルは神の言葉に耳を傾けず、偶像の神々を神として礼拝しました。16章では、それが姦淫の不品行として描かれて、サマリアやソドムよりもいっそう堕落したと指摘されます(47節)。ついに神は「お前が行ったように、わたしもお前に対して行う」(59節)と告げて、裁きを宣告されます。
    「だが」と神はおっしゃいます。「だが、わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる」。罪を重ねて神を悲しませたイスラエルであっても、主は契約に固く立ち、罪の赦しをお与えくださいます。
    私たちに対する神の恵みの契約に、変更はありません。きょうも、主の御前に悔い改めと主への信仰をあらわして歩みましょう。
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  • 薪として火に投げ込まれる(エゼキエル書 15章)
    「主なる神はこう言われる。わたしが薪として火に投げ込んだ、森の木の中のぶどうの木のように、わたしはエルサレムの住民を火に投げ入れる。…わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである」と主なる神は言われる。
    (エゼキエル書15章6節、8節)
    聖書は、しばしば「ぶどうの木」を神の民を指し示すたとえとして用います。ヨハネ福音書15章は、主イエスがまことのぶどうの木であり、キリスト者はその枝であると語ります。
    けれども、エゼキエル書15章で、主なる神はぶどうの木を薪として火に投げ込むと言われます。イスラエルの民に対する滅びの宣言です。イスラエルの民が神に立ち帰ることなく、不信仰な歩みを重ねていたからです(8節)。主なる神は、義しく聖く真実なお方です。罪を放置したままにされません。
    この主なる神の滅びの宣言を、私たちは他人事と考えてはいけません。私たちにも、今も働いておられる主の御前に立つことが求められています。自らの姿を顧み、主を畏れ敬い、自らの罪を悔い改めることが必要です。神に立ち帰り、神の義に従って生きることが求められています。
    今や主イエス・キリストが与えられて、私たちはキリストによる罪の赦しの内に神の御前に立つことができます。主なる神は、ぶどうが実を結ぶように、私たちに罪の赦しと永遠の命の幸いを惜しみなく与えてくださいます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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