リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 万人祭司の教会(ペトロの手紙一 2章1-10節)
    しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
    (ペトロの手紙一2章9節)
    宗教改革は、本質的に教会改革でした。ルターが最初期の書物、たとえば『キリスト者の自由』において強調しているのは信仰における神の御前での「身分の平等」です。
    中世においては「聖なる教会」と「汚れた世俗」の差は根本的なものとみなされました。しかし、ルターは腐敗したローマ教会の聖職者位階制度に対する激しい批判を込めて、いわゆる聖職者と世俗の人との間には一切の身分上の差別は存在しないと主張しました。聖書によれば、われわれはみな一つの洗礼、一つの福音、一つの信仰を持つ同じキリスト者であり、すべての者が聖別された「祭司」として神に仕える存在とされています。ルターは、「みなが教皇なのだ」とさえ言いました。これを「万人祭司の原理」と言います。
    教会は一部の聖職者のものではなく、みんなのものです。互いに罪を告白し、執り成し合い、キリストの赦しを語り合う「聖徒の交わり」であり、神の家族、神の民です。それぞれ委ねられる働きには違いがあっても、そこにお客さんは一人もいません。それぞれが神から与えられている務めと賜物があるのです。
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  • 神の言葉に聞き従う(ペトロの手紙二 1章16-21節)
    何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。
    (ペトロの手紙二1章20節~21節)
    日本キリスト改革派教会の伝統においては、「連続講解説教」が主流です。これは、宗教改革者たちの実践を模範としたものです。説教は、神の言葉である聖書を解き明かすがゆえに、神の言葉です。聖書全体は、同一著者なる聖霊による一貫性をもち、どの書物も、どの章も、どの節においても信仰者たちへのメッセージをもっています。私たちに求められるのは、自分の言葉を捨てて、その神の言葉のすべてに聴き従うということです。
    ただし連続講解という形式が絶対的なわけではなく、大事なのは、与えられる御言葉にひれ伏し聴くという姿勢です。時代や流行に合わせるのではなく、聖書の視点から、時代や流行を解釈するのです。自分の手の中に聖書を置くのではなく、聖書の中に、また聖書の下に自分を置くという姿勢です。
    連続講解説教を聞き続ける中で、「この御言葉がきょう与えられるとは」と、意外な喜び、驚き、戸惑いを覚えることは、誰もが経験することです。わたし以上にわたしを知っておられる神は、わたしの思いを超えて、わたしの聞くべき言葉を与えてくださいます。
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  • 神が語りかけてこられる(申命記 5章23-27節)
    「我々の神、主は大いなる栄光を示されました。我々は今日、火の中から御声を聞きました。神が人に語りかけられても、人が生き続けることもあるということを、今日我々は知りました。…この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。」
    (申命記5章24節~25節)
    宗教改革者たちは、ひたすらに聖書を読んだ人たちでした。当時の教会の硬直化した教えに縛られることなく、聖書を原語で読み、新鮮な福音の再発見に心を躍らせました。それを人びとに身近な言葉に訳して提供したので、誰もが神の言葉に触れることができるようになりました。あの時代、人びとは「神からの語りかけ」を聞く喜びに満たされていました。
    生ける神である主は、聖書を通して、聖霊において、私たちに語りかけてこられます。物言わぬ死んだ神である偶像とは違います。きょうの箇所にあるように、神から直接語りかけられるというのは、本来恐るべきことです。そういう恐るべき御声を、神は聖書に封じてくださり、私たちが触れることができるようにしてくださいました。
    今や私たちは、本としての聖書があまりにも身近すぎて、その恐れ(畏れ)を見失っている世代かもしれません。それゆえに、神の言葉に触れる喜びや驚きを見失っているのかもしれません。聖書を通して、きょうも神が語りかけてくださいます。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サム上3章10節)。
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  • 罪のために死んでいた(エフェソの信徒への手紙 2章4-6節)
    しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
    (エフェソの信徒への手紙2章4節~6節)
    「罪のために死んでいた」。激しい言葉遣いです。でも、こういう言葉で自分の過去を振り返ることができる人は幸いです。神の恵みによって、自分の過ちに気づかせていただいた人です。そして今は、「キリストと共に生きる」喜びを知っている人です。
    宗教改革者カルヴァンは、その代表作である『キリスト教綱要』の冒頭で、自分自身の罪と悲惨とをはっきりと認識する必要を教え、「自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできない」と言います。不快感という言葉がおもしろいです。それほどの、徹底した自己否定が必要と言うのです。いや、むしろ聖なる神の御前に立つということを真剣に考えるなら、そうならざるを得ないのです。カルヴァンという人は、神の御前での自分の罪深さに対して絶望しきっていた人でした。
    私たちはまさしく「死んでいた」者でした。しかし、そのような者を、憐れみ豊かな神がこの上なく愛してくださいました。この愛からすべてが始まりました。「お前を棄てたくない、再生させる」と神が望んでくださったのです。
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  • ただ神の恵みによって(エフェソの信徒への手紙 2章1-10節)
    事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
    (エフェソの信徒への手紙2章8節~9節)
    ただ神の恵みによって救われる。私たちはそれを信じて、受け取らせていただくだけでいい。この「福音=グッドニュース」を、聖書から再発見したことが、ルターの原動力でした。当時のローマ・カトリック教会から破門されようとも、この福音をもう離したくない、そういう思いに突き動かされるままに進んでいくうちに、いつの間にか新しい教会が誕生していたというのが、実際の感覚でありましょう。それほどに、ルターにとって福音は命、力、そして光でした。
    逆に言えば、それをいただくまでの彼は、死の暗闇にさまよっていました。神の御心に沿って歩みたいと、禁欲的な生活に励めば励むほどに、自分のどうしようもない汚れが見えて来て、裁きの神への恐れがどんどん大きくなっていく。
    同様に、「こんなわたしでは裁かれる、神は怒っておられる」と、自分の罪深さにひそかに悩んでいる方がいらっしゃるかもしれません。でも、その罪の自覚が与えられたのは、神の恵みであり、救いの始まりです。すでに神は、あなたを救い始めていてくださいます。だから、もう恐れなくていいのです。
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  • ファリサイ派の人と徴税人(ルカによる福音書 18章9-14節)
    「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
    (ルカによる福音書18:14)
    その当時、ファリサイ派の人と徴税人は対照的でした。ファリサイ派の人は、アブラハムの子という特権意識と律法の遵守によって、正しい人とみなされていました。逆に徴税人は、私腹を肥やすことや異邦人との交際などによって、罪人として軽蔑されていました。
    しかし、このときファリサイ派の人は立って、断食や10分の1の献金のような自分の義を誇る祈りをささげました。徴税人は遠くに立ち、自分の罪に心を留め、神の憐れみを求めて祈りました。偽善に満ち、高慢なファリサイ派の人と、自分は罪人であり無価値な者であると認めている徴税人の姿が、非常に鋭く対比されています。
    マシュー・ヘンリーは、「彼の祈りは短かった。ため息と嘆息が彼の言葉を呑み込んだからである。しかし、彼が語ったことは素晴らしかった」と解説しています。
    主イエスは、義とされて家に帰ったのは徴税人であったと語られます。神の御前にへりくだる、低い姿が求められています。私たちの祈りの姿は、ファリサイ派の人なのか、それとも徴税人なのでしょうか。
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  • 兄弟を得る(マタイによる福音書 18章)
    「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」
    (マタイによる福音書18章15節~16節)
    「兄弟を得る」という「兄弟」とは誰のことでしょうか。それは私を神が愛してくださっているように、神が愛しておられる人のことです。
    その兄弟が罪を犯したとき、私たちはどのようにすべきか。それには、いろいろな対処の仕方があると思います。見て見ぬふりをする。私たちは、愛を教えられているのだと言って、その罪を見逃す。罪を指摘し、神に立ち帰るように促す。主イエスは、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃいました。
    教会は、単なる同好の群れではありません。教会は、主イエス・キリストにある群れ、兄弟姉妹の集いです。そうであるならば、口先だけの兄弟としてではなく、真のキリストにある兄弟を得るために、まず、一人で兄弟にその罪を忠告する。それが聞き入れられなければ、二人三人の兄弟と一緒に忠告する。
    真の主にある兄弟ならば、必ず悔い改めに至るでしょう。私たちもまた兄弟の忠告を受け入れましょう。神は迷い出た1匹の羊が見つけられるように、罪人の立ち帰りを望み、喜んでくださいます。
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  • 主の御声に聞き従う(マタイによる福音書 17章)
    ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
    (マタイによる福音書17章5節~7節)
    主イエスは三人の弟子を連れて山に登りました。そこで、弟子たちが見たのは、栄光に輝く主イエスが、モーセとエリヤと共に語り合う光景でした。その時、ペトロは、自分たちがどれほどすばらしいところに置かれているかを訴えずにはおれませんでした。そこに天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と声がしました。天の父なる神の声です。私たちの父なる神が、私たちに望まれていることが、ここに語られています。
    私たちが、この世を生きるときの指針は、父なる神が愛され、やがてその御心を十字架の上で完全に果たしてくださった、この主イエスの御言葉に聞くことです。ペトロは三者の会談に感動し、その事態を仮小屋に留め置こうとしましたが、本当にすばらしいことはどこにあっても神の御声に聞き従うことです。そこに、神の栄光が輝く道が開かれていきます。
    神の声に聴き従うことを恐れる必要はありません。真の幸いを得る道は、主イエスの御言葉を聞くことにあります。主イエスは、「恐れることはない」と、常に私たちを励まし導いてくださいます。
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  • 真の命を得るために(マタイによる福音書 16章)
    「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
    (マタイによる福音書16章24節~26節)
    主イエスは、弟子たちに、ご自分が多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっていると告げられました。するとペトロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、主イエスの言葉を否定しました。ペトロは、人間的な考えの中で、主イエスの言葉を聞いていたからです。しかし、主イエスは、人間的な思いで命について考えるのではなく、真の命がどこにあるのかをよく考えなさい、とおっしゃいました。
    真の命はどこにあるのか。それは、主イエスの十字架の贖いの下に与えられる命にあります。その命は他のなにものにも代えがたい尊いものです。ですから、私たちは、主イエスと同じように「自分の十字架を背負」うのです。それはこの世の成功や賞賛を求めるのではなく、主イエスがそうされたように、父なる神の御心を尋ね求め、謙遜に、従順に従う歩みです。
    主イエスは、父なる神に従い通すことによって、その命を真にご自分のものとなさいました。私たちもこの主イエスを信じ、従うことによって真の命をいただく者になりましょう。
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  • 神の言葉に生きる(マタイによる福音書 15章)
    「それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」
    (マタイによる福音書15章5節~6節)
    ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、何かにつけて主イエスや弟子の行動に言いがかりをつけました。きょうの箇所でも、食事の前に手を洗わないことは、言い伝えを破ることだと言ってきました。主イエスは、この言いがかりに対して直接答えようとはされません。言い伝えを守るかどうかは、本来どちらでも良いことだからです。主イエスは、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」と言って、きょうの聖句を語られます。
    神は私たちに聖書を通して、「あなたの父と母を敬え」と教えておられます。しかし、「言い伝え」によれば、「神への供え物にする」とひと度決められたものは、たとえそれが父と母を養うのに必要なものであっても、変更することはできませんでした。また、その「言い伝え」を悪用し、父と母を養わない言い訳にする人もいました。それは神が求められる愛を踏みにじる行為であり、「神の言葉を無に」するものです。
    私たちは、主イエスに救われた者として、どのように生きるのでしょうか。本当に神の言葉に生きる。そのことが問われています。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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