リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • 生きてきたこと、それ自体に慰めがある(エゼキエル書 14章)
    「お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、わたしがエルサレムにくだした災い、わたしがそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」
    (エゼキエル書14章22節~23節)
    人びとがいかに楽観的な空気に浸り、また偶像に心寄せて恐れを取り繕ったとしても、神の裁きをやり過ごすことはできません。罪が重ねられています。神の怒りの時が迫っています。それは飢饉、荒廃、滅び、疫病として、それまでの生活が徹底的に破壊され、覆される時です。
    その時を見据える私たちは神の裁きが持つその厳粛さに心を寄せます。妥協はありません。誰もが自分の罪を背負う。どのような義人も、隣人への裁きを肩代わりすることはできません。「彼らは自分の息子、娘たちすら救うことはできない」(18節)。愛する者の明日さえ担い、守ることができないのです。
    神はその怒りを発せられることを通して、神が人間に命を与え、また奪い得るものであることを知らされます。 きょうまで、私たちが生きてきたことに、愛する者が生かされてきたことに慰めを受けます。神がそうおゆるしくださいましたから。私たち一人ひとりの生には、神がそうあることを求めてくださったというあたたかな恩寵があります。その事実が、私たちに平安を抱かせ、天を仰がせます。
    0 min
  • 真実を指さす言葉に耐える(エゼキエル書 13章)
    「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい。『それは、はがれ落ちる』と。」
    (エゼキエル書13章10節~11節)
    エゼキエルが語り示す預言とは対照的に、イスラエルの人びとの間には妙に楽観的な空気が漂っていました。主の預言者が語る神の怒り、破滅の時を茶化したりもしていました。誰も本当のことを知りたくなかったからです。自分の罪深さと世界の腐敗を指摘する言葉を聞きたくなかった、その日を楽しくやり過ごしたかったからです。
    そのような空気が醸し出された背後には、「むなしい幻を見る預言者」の存在がありました。彼らは、主から遣わされていないのに「主は言われる」と語り、平和がないのに「平和だ」と語り、人びとの目から真実を遠ざける人たちでした。なぜ、彼らはそんなことをしたのか。それは、そうすることが民に喜ばれ、もてはやされたからです。心地よい欺きを民は求めました。そして、民はその偽りに魅了されていく。それは悲しく、滑稽な姿ですが、同じ根を私たちも持っています。
    真実は麗しい姿をしているとは限りません。厳しく、醜くさえある。しかし、真実には力があります。人を変え、生かしめるのは真実だけです。その言葉にこそ耳を澄ましたい。耐えたい。救われたい。
    0 min
  • 奇異な行為に神の恩寵が潜む(エゼキエル書 12章)
    「あなたは言わねばならない。『わたしは、あなたたちのためのしるしである。わたしがやって見せたようなことが、彼らに起こる。彼らは捕囚として、捕囚の地へ行く。彼らの中の首長も、暗闇の中で荷物を肩に担ぎ、壁に運び出すための穴をうがって出て行く。彼は目でこの土地を見ないように顔を覆う。』」
    (エゼキエル書12章11節~12節)
    幻は離れ、その意識をバビロンに戻したエゼキエルは続けて、エルサレムに残る民への預言を神から受け取ります。それは民に待ち受ける末路と希望とを示すものでした。
    エゼキエルが命じられたことは、第一に昼間に自分の荷物をまとめること、第二に夕方に家の壁に穴をあけること、第三に暗闇の中、穴から荷物を担ぎ出すこと、すなわち、夜逃げを演じてみせることでした。その一連の奇異な行為に、捕囚民の誰かが「何をしているのか」と尋ねたならば、その者にだけ、行為の意味が明かされます。エルサレムの民は暗闇の中を夜逃げしなければいけない。その悲惨を捕囚民は既に知っています。その悲惨が、これからエルサレムに残る民にもたらされる、民は改めて主が真実な方であることを痛みと共に知るでしょう。
    その痛みに、捕囚の真の意味を知らせる主の言葉が重ねられます。それは彼らが主の力をその心で知るためでした。そして、その力を語り伝えるためでした。そのために彼らは生かされます。
    神を尋ね求める者に神はその人が生きる意味を一つひとつ明かされていきます。
    0 min
  • 主の栄光は民の日々を照らす(エゼキエル書 10-11章)
    「主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』」
    (エゼキエル書11章16節)
    「主の栄光」がエルサレム神殿から去ってゆきます。敷居にとどまり、東の門の入り口に止まり、都の東にある山の上にとどまり。まるでその場所から離れることをためらうように、まるで腐敗に染まったその場所をなお愛でるようにゆっくりと、その輝きを移動させていきます。その光景を、霊に導かれ、追いかけていくエゼキエルはついに見ることになります。神殿が主の栄光を失う瞬間の幻を。民の罪がもたらした当然の帰結と、神の強いご決意を。
    その光景を追いかける真っ只中でエゼキエルは聞きました。神に出会う場所としての神殿を失い、各地に散らされた民に向けられた主の約束の言葉を。「わたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった」。
    主の栄光は民を追いかけるように散って行った先々に輝き、その日々をささやかに照らします。彼らを守るために。彼らが神をあきらめずに慕い続けるために。そしてもう一度、出会うために。
    主の栄光が、この一日を照らします。その輝きに私たちは見つけるでしょう。共にあってくださる神のご決意を。
    0 min
  • その印には、神の慈しみの色が滲む(エゼキエル書 9章)
    主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」
    (エゼキエル書9章4節)
    罪に汚染された神殿をたどるエゼキエルの耳に大きな声が聞こえてきます。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ」(1節)。神の怒りが徹底した「破壊」となってあらわされる、その幻の中にエゼキエルは置かれます。
    戦慄の破壊命令が次々に聞こえてきます。逃げ場はありません。隠れる場所もありません。「6人の男」の手によって人びとは容赦なく打たれていきます。その「破壊」のさなか、同時並行で行なわれていた作業がありました。「嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」(4節)、「あの印のある者に近づいてはならない」(6節)。神殿を覆う大きな罪にのみ込まれながら、ただ慟哭をもってしか抗うことができなかった者たちを、神は愛しまれました。彼らが罪の中を生き抜くことを望まれました。その額に付けられた印に守られ、破壊が彼らを通り過ぎていきます。
    神の怒りは広く、裁きの御手が緩められることはない。しかし、神の慈しみは深く、どこまでも深く、赦しの御手は罪を嘆く者に伸びていく。その幻をエゼキエルは同時に見させられたのでした。
    0 min
  • 見たか、神の栄光に照らされる人間の暗闇を(エゼキエル書 8章)
    「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。」
    (エゼキエル書8章17節)
    エルサレムから遠く異教の地バビロンに捕囚された民。その中に祭司の子エゼキエルがいました。「主なる神の御手」が彼に下った時、彼は神の側に立って人間が犯す罪を凝視し、また人間の側に立って神の嘆きに苦悶する預言者として生きることになりました。彼は恐れ、うずくまりもしながら、主の言葉の前に身を置き続けます。
    「第6年の6月5日」(1節)。それは、エルサレム陥落をおよそ5年後に控えた紀元前592年のこと。バビロンにいるエゼキエルの目と耳に、エルサレムに残された民の罪深い有様が光景として、音として迫ってきました。神の霊はその栄光と共にエゼキエルの手を引くようにして、神殿に設置された偶像を、忌まわしい祭儀を、「人の子よ、見たか」と確認させていきます(14~17節)。神殿の内部に進むほどに、罪の深刻度は増していきました。神へのあざけりと不信、その絶望が濃くなっていきました。
    その一つひとつをエゼキエルは「神の栄光」と共に見ていきます。神の怒りと痛みを知るために、見たくもない人間の暗さを見る。それも預言者の大切な使命でした。
    0 min
  • 赦し、信仰、奉仕(ルカによる福音書 1-10節)
    「1日に7回あなたに対して罪を犯しても、7回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
    (ルカによる福音書17章4節)
    きょうの箇所は、つまずかせることへの警告と罪の赦し及び信仰と奉仕についての教訓とによって構成されています。これらの一つ一つが教会という信仰共同体における生活の基本原理です。
    主イエスは弟子たちに、「小さな者の一人」、すなわち信仰の弱い人への特別な関心を持たせて、限りない赦しを教えられます。主イエスは「罪に対する裁き」と「罪人への憐れみ」を区別されます。罪は裁かれなければなりませんが、罪人は主イエスにあって赦されます。求められることは、限りない罪の赦しです。
    主イエスは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」(マタ18章22節)とおっしゃいました。この「7回」も、何回であっても赦すことを求める言葉です。教会は赦しなしには成り立ちません。小さな者の一人への愛と信徒同士の赦し合いこそ「福音に生きる」キリスト者の生き方です。
    赦すことは信仰なしには実現しません。それゆえ、主イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば」とおっしゃって、私たちを励ましてくださいます。たとえ小さな信仰でも、主イエスが私たちに力を与え、増し加えてくださいます。
    0 min
  • 主イエスの兄弟姉妹(マタイによる福音書 12章)
    「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
    (マタイによる福音書12章50節)
    ある日、主イエスは、いつものように群衆に向かって話しておられました。するとある人が来て、主イエスの母と兄弟が立って待っていることを教えてくれました。そのとき、主イエスは弟子たちを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。…わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われました。
    「天の父の御心を行う人」とは、罪を悔い改めて、主イエスに従う者のことです。主イエスに従う者は、主イエスの兄弟姉妹とされ、教会の一員とされています。主イエスに結ばれた主イエスの兄弟姉妹として、地上において天の御父の御心を行って生きるのです。この主イエスとの関係が、私たちにとってすべての土台となります。
    主イエスは、決して御自分の母や兄弟を軽視したわけではありません。この世の家族よりももっと強い関係があるということを主イエスは教えてくださいました。地上において私たちはなお罪人であり、人間関係に悩まされることがあります。けれども、私たちはすでに兄弟姉妹です。私たちは、主イエスとの関係を土台にして、地上の家族、また主の教会を建て上げます。
    0 min
  • 天の国で最も小さな者(マタイによる福音書 11章)
    はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
    (マタイによる福音書11章11節)
    洗礼者ヨハネは、救い主イエスを指し示した人物です。ヨハネは、救い主イエスが来られるための準備をしました。このヨハネの働きは、この地上に生まれた者の中で最も偉大なものでした。救い主の到来を告げた預言者の働き、中でもその集大成であるヨハネの働きは、とても大きなものです。
    しかし、主イエスは、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とおっしゃいました。主イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、福音宣教を始められました(4章17節)。天の国とは、主イエスによって私たちにもたらされた神の支配です。私たちは自らの罪を悔い改め、主イエスを唯一の救い主と信じることにより、天の国、すなわち神の支配に入れられます。
    主イエスを通して天の国に入れられた者は、救い主の到来を告げた預言者、また、救い主イエスを指し示したヨハネよりも偉大なのです。それくらい、主イエスを通して罪赦され、救われるということは、大きなことです。罪赦されて、神の支配の中で生きる者は、たとえ取るにたらない小さな者であったとしても、偉大な者として主なる神に受け入れられています。
    0 min
  • 人を恐れてはならない(マタイによる福音書 10章)
    体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
    (マタイによる福音書10章28節)
    主イエスは、弟子の中から12人を選び、汚れた霊に対する権能を授けられました。そして、その12人を世に派遣するにあたり、さまざまなことを命じられました。その一つが「人々を恐れてはならない」です。主イエスは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と命じておられます。人を本当に滅ぼすことができる方は、主なる神以外にはおられないからです。
    主なる神は、この世界のすべてを造り、治めておられる方です。ですから、この世で起こるどんなことも主なる神の了解なしに起こることはありません。1アサリオンで売られている2羽の雀のうちの1羽が地に落ちることさえ主なる神の許しなしには起こりません。雀は1羽では値がつかず、2羽セットで売られます。1羽の雀とは、取るにたらないものの代表です。
    また、主なる神は、私たちの髪の毛の数までも数えておられます。すなわち、私たち一人ひとりのことを私たち以上にご存じです。私たちには、このすべてを知っておられる神がいつも共にいてくださいます。ですから、私たちは、何も恐れる必要はありません。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners