リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 恐れることはない!(マタイによる福音書 14章)
    弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
    (マタイによる福音書14章26節~27節)
    ここに記されている湖の上を歩くお話は、主イエスが5つのパンと2匹の魚で5千人の人びとを養った、という奇跡の後に記されている出来事です。その奇跡の後、主イエスは、強制的に弟子たちを向こう岸に渡らせるために船に乗せました。しかし、弟子たちは、ガリラヤ湖の強い風に悩まされることになります。夜が明けるころ、主イエスは、湖の上を歩いて船に近づかれました。するとどうでしょう。弟子たちは、それを見て、「『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」というのです。
    主イエスはその御業において5千人もの人びとを養われたお方です。弟子たちは多くの人を養い、導く羊飼いとしての主イエスを見たばかりなのです。そのようなお方が湖の上を歩けない、というのでしょうか。そのような記憶は吹き飛んでしまったように、湖の上を歩く主イエスのお姿を見て、弟子たちは恐怖に襲われました。私たちも同じではないでしょうか。
    主イエスはそのような者に、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。この方と共に歩んでまいりましょう。
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  • 耳のある者は聞きなさい(マタイによる福音書 13章)
    「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。…しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」
    (マタイによる福音書13章13節、16節)
    これは主イエスの言葉です。マタイによる福音書13章は、「種を蒔く人のたとえ」を主イエスが群衆に語る場面から始まっています。そして、「耳のある者は聞きなさい」という言葉で、そのたとえは締めくくられています。
    このたとえを聞いて、弟子たちは主イエスに尋ねました。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」。この弟子の質問に対する答えが「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」という御言葉です。
    主イエスは、重要な霊的真理を伝えるとき、しばしばたとえをお用いになりました。これを聞く姿勢が重要であることを主イエスはたとえの最後で教えておられます。
    これはまた、私たちが聖書に聞くときにも共通した事柄ではないでしょうか。熱心に自らの魂を開いて、聖霊に導かれながら、神の御言葉に聞くとき、正しく聞き取ることが出来ます。そのような者の目や耳はなんと幸いなのでしょうか。
    私たちも、しっかりと霊の目をもって、耳をもって、神の御言葉を聞き、大いなる幸いをいただきましょう。
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  • やもめの粘り強い祈り(ルカによる福音書 18章1-8節)
    「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」
    (ルカによる福音書18章7節)
    この箇所は、終末を生きる信仰者の祈りの姿勢に焦点を当てています(17章20~37節、18章8節を参照)。主イエスは、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話され」ました(1節)。
    ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官と一人のやもめがいました。やもめは裁判官のところに来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願い求めます。彼女は自分の目的が成し遂げられるまで粘り強く訴え続けました。するとついに不正な裁判官はやもめの願いを聞いてくれたのです。
    不正な裁判官でさえ、忍耐強く求めるならば願いを聞き入れました。ましてまことの神は、昼も夜も叫び求めるキリスト者の祈りをほうっておかれず、速やかに裁いてくださると言われます。
    私たちにとって、祈りが「速やかに」聞かれるとは思えないことがあるかもしれません。この速やかさは、必ず応えられるとの神の約束です。やもめの粘り強い願いが聞かれたように、私たちの粘り強い祈りは必ず主なる神が応えてくださいます。
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  • 人を癒す言葉(箴言 12章)
    忠実に発言する人は正しいことを述べ
    うそをつく証人は裏切る。
    軽率なひと言が剣のように刺すこともある。
    知恵ある人の舌は癒す。
    真実を語る唇はいつまでも確かなもの。
    うそをつく舌は一瞬。
    (箴言12章17節~19節)
    箴言12章は、すべて対比の並行文で書かれていて、ここでも神に従う人と神に逆らう人が比較されています。
    17節の「忠実に発言する人」、「うそをつく証人」は、裁判に召喚されて証言する場面を想像させます。うそをつくつもりは無かったとしても、熟慮を欠いた言葉は時に人を傷つけるものです。18節の「軽率なひと言が剣のように刺すこともある」とはそれを端的に表現しています。「軽率なひと言」という言葉は、純粋なおしゃべりを意味する言葉です。前後関係を気にすることなく、その場、その時に思いついたことを話すような仕草です。軽はずみな言葉は、事の真相を確認することなく口から出てきます。すると、気づかないうちに真実ではなく偽りの言葉に成り下がり、人を傷つけてしまうのです。
    しかし、神を畏れる知恵によって語る言葉は、人を癒すことさえできます。周りのおしゃべりに惑わされることなく、事実に合致した言葉を口にする人は、周りを幸せにするのです。主が言葉で人びとを癒し救われたように、私たちの口も人を癒すのです。
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  • 神に従う人の幸いは広がる(箴言 11章)
    神を無視する者は口先で友人を破滅に落とす。
    神に従う人は知識によって助け出される。
    神に従う人が幸いを得れば町は喜び
    神に逆らう者が滅びれば歓声をあげる。
    正しい人の祝福によって町は興り
    神に逆らう者の口によって町は滅びる。
    (箴言11章9節~11節)
    この箴言では神に従う人、神に逆らう者が対照的に表現され、それぞれ自分の身に招く結果が異なっています。
    神の働きかけを無視する者がいます。それは、言葉や態度に色濃くあらわれます。口先だけの言葉はやがて偽りに満ち、友人を誘惑して滅ぼしてしまいます。しかも、11節では「神に逆らう者の口によって町は滅びる」とあり、悪影響が個人から町へと拡大することもあるのです。
    それに対し、神に従う人が受ける恵みは、輝きに満ちています。9節では「神に従う人は知識によって助け出される」とあります。神を畏れる知恵があると、その人は偽りの言葉や滅びに誘惑する言葉を見破ります。だから、神から離れる滅びから救われるのです。そして神に従う人の受ける救いと幸いは、その人だけにとどまらず町全体へと広がっていきます。神を畏れ、神に従う人とその周辺に喜びが広がっていくのです。
    神がアブラハムと契約を結ばれて、すべての民族の祝福の基となったように、神の祝福は私たち信仰者を通して広がりを見せるのです。
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  • 私たちの口が命の源となる(箴言 10章)
    神に従う人の口は命の源
    神に逆らう者の口は不法を隠す。
    憎しみはいさかいを引き起こす。
    愛はすべての罪を覆う。
    聡明な唇には知恵がある。
    意志の弱い者の背には杖。
    知恵ある人は知識を隠す。
    無知な者の口には破滅が近い。
    (箴言10章11節~14節)
    箴言10章8節から14節には、口や言葉についての表現が多く出てきます。口で失敗することの多い私たちは、注意深く耳を傾ける必要があるでしょう。
    神に逆らう者の口は、8節と10節で「滅びに落とされる」と言われ、11節では「不法を隠す」と言われ、14節では「破滅が近い」と言われます。どの表現も、神から遠く離れていくこと、物事をひた隠しにして真実を語らず、信仰共同体を散らしてしまうような末路を想像させます。
    それに対し11節では、神に従う者の口が「命の源」と呼ばれます。これは、「命の泉」とも呼べる言葉です。泉は旅人の渇きをいやすものです。乾燥地帯においては、人も動物も生き物なら何であっても集まる場所となり、すべてを生かします。それと同じように、私たちの口が命の泉、命の源となり、他者に益するようにもなるのです。
    そのための秘訣は、私たちが神の言葉を受け入れて口を開くことです。そのとき、私たちの口とそこから出てくる言葉は、人びとを主の御許へと導き、生かすことへ用いられていくのです。
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  • 真の知恵は神を畏れること(箴言 9章)
    不遜な者を諭しても侮られるだけだ。
    神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。
    不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。
    知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
    …
    主を畏れることは知恵の初め
    聖なる方を知ることは分別の初め。
    (箴言9章7節~10節)
    箴言は、神に従う知恵ある人生へと人びとを招こうとしています。
    神を畏れる人とそうではない人との違いは非常に大きく、生き方にも違いが現れます。箴言9章では、「不遜な者」と「知恵ある人」が対比されます。「不遜な者」とは、倫理・道徳的な意味ではなく、宗教的な意味で神に逆らう者のことです。最初から神に逆らう心ですべてに応じますから、諭そうとしても、戒めようとしても全く効果があらわれません。かえって反感を買って憎しみが残ることさえあります。
    それに対して「知恵ある人」とは、神に従う人のことです。その人を時に応じて諭し、叱るならば、その人には知恵が増し、愛が溢れていくようになります。自分に語られている言葉を神からのものだと受け止め、習得しようとするからです。両者の決定的な違いはただ一つ、主を畏れるかどうかです。
    真の知恵は、自分と神との関係をきちんとわきまえることです。これが、私たちの人生のあらゆる場面で力を発揮し、信仰者として成長させます。主を畏れることこそ、真の知恵なのです。
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  • 神の知恵に聞く(箴言 8章)
    聞け、わたしは指導者として語る。
    わたしは唇を開き、公平について述べ
    わたしの口はまことを唱える。
    わたしの唇は背信を忌むべきこととし
    わたしの口の言葉はすべて正しく
    よこしまなことも曲がったことも含んでいない。
    (箴言8章6節~8節)
    箴言8章は、1節の「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか」との書き出しで始まります。神との契約関係を前提とし、その中で神の言葉に従って生きるための知恵が人格化されて語られていくのです。
    その知恵は、指導者としての役割を担い、公平で正しいこと、まことについて教えます。私たち人間は、いとも簡単に真実をねじ曲げ、嘘をつきます。しかし、神の知恵はすべて正しいことを語ろうとし、私たちを幸いな道に導こうとします。
    そのような神の知恵は、背信こそが忌むべきことだと教えます。背信とは言うまでもなく、主なる神に背を向けて、この方の愛と憐れみを見失うことです。「主を畏れることは知恵の初め」です(1章7節)。主を畏れるとは、主なる神への信仰とこの方への礼拝生活に生きることです。この命に満ちた日々を送るために、神の知恵の言葉が語られるのです。
    この知恵は、聞くに価する言葉です。自らが信仰的に未熟な者だと自覚し、私たちを真の信仰生活へと導く神の知恵の言葉に、へりくだって聞き従いたいものです。
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  • 教えを瞳のように守る(箴言 7章)
    わが子よ、わたしの言うことを守り
    戒めを心に納めよ。
    戒めを守って、命を得よ。
    わたしの教えを瞳のように守れ。
    それをあなたの指に結び、心の中の板に書き記せ。
    …
    それはあなたをよその女から
    滑らかに話す異邦の女から守ってくれる。
    (箴言7章1節~5節)
    世の中には、神の教えと異なる主義・主張がいくつもあります。神の戒めと相反する習慣や伝統も多くあります。私たちは、こうしたものと隣り合わせに生活していますから、いつ、どこで、神の教えと異なる言葉に誘惑されるかわかりません。自分でも気づかないうちに誘惑に陥ってしまいます。そのとき、世の中のさまざまな誘惑は、信仰者を惑わし、神への信頼を奪い取ろうとします。
    神は、私たちが誘惑に弱いことを知っておられます。だから、誘惑に陥らない秘訣を教えてくださいます。「教えを瞳のように守れ」と。瞳はデリケートな器官です。だから、傷つかないように注意深く大切にする必要があります。神の教えを大切に注意深く心に蓄えていく。そうすれば、神への信頼を失うことなく、神のもとから離れることもなくなり、神と共に生きていくことができます。だからこそ神は、「戒めを守って、命を得よ」と私たちに呼びかけてくださるのです。
    主イエスが荒れ野で誘惑に勝利されたように、私たちも神の教えを大切にし、主イエスと共にある命をきょうも生きていきましょう。
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  • 救われた重い皮膚病を患っていた一人(ルカによる福音書 17章11-19節)
    そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
    (ルカによる福音書17章17節~18節)
    ルカ福音書だけに記される、主イエスのいやしの御業です。主イエスの超自然的ないやしの御業は主イエスの神性を示しています。
    主イエスに対して、しばしば人びとは二分された反応を示します。主イエスを受け入れようとしない宗教指導者たちと、主イエスを受け入れる徴税人と罪人たちがその典型です。この箇所においても、主イエスによって重い皮膚病を患っていた十人の人が皆いやされましたが、神を賛美しながら戻って来て主イエスに感謝したのは一人のサマリア人だけでした。他の九人のユダヤ人たちは、神を賛美し、感謝するために主イエスのもとに戻っては来ませんでした。
    主イエスに感謝して神を賛美するこのサマリア人は、福音が異邦人にも与えられることを指し示しています。福音は、神の恵みとして、今やユダヤ人と異邦人の区別なく与えられます。
    今、私たちもただ神の恵みによって、主イエスの救いの御業にあずかります。その幸いを知る者とされて、感謝し神を賛美して主イエスのもとに繰り返し立ち帰りましょう。主イエスのもとに信仰生活の出発点があります。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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