リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 信仰の吟味を(コリントの信徒への手紙二 13章)
    キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。
    (コリントの信徒への手紙二13章4節)
    カルヴァンは、地上の信者の歩みを悔い改めの連続だと言い表しました。クリスチャンは、自分の力や知恵で救いを得ることも、持続させることもできません。ただイエス・キリストを信じることによってのみ救われるからです。
    パウロは、この手紙の最後で、コリント教会の信者一人一人に対し、再度めいめいの信仰を吟味するように促しています。私たちはキリストの十字架の贖いによって罪を赦され、キリストの復活によって永遠の命を与えられて生きる者だからです。
    聖餐式の式文に、「自分の信仰を吟味して臨むように」と書かれています。自分が主の聖餐を受ける資格や値打ちがあるのかを確認し、大丈夫だと自己診断するのではありません。そうではなく、元々そのような資格などない。むしろそのようなわたしだからこそ、主は憐れんで尊い救いに招き入れてくださったことを思い起こし、感謝するためにほかなりません。いや聖餐にあずかるときだけでなく、信仰の生涯を続ける間、絶えず吟味すべきことでもあるのです。
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  • 生きている者の神(ルカによる福音書 20章27-40節)
    「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
    (ルカによる福音書20章38節)
    人は死んでどうなるのか。このことについて多くの人びとが関心を持っていますが、誰も死んだことがなく、知ることができません。しかし、聖書は信仰者の死と復活についてはっきり語っています。
    主イエスは、復活において「めとることも嫁ぐこともない」とおっしゃって、結婚が地上の人生のための制度であると指摘しておられます。信仰者は、「復活にあずかる者として、神の子」(36節)とされて、地上においてすでに神との永遠の交わり、また主にある兄弟姉妹との交わりに加えられています。地上の結婚はもちろん主の祝福ですが、信仰者は「神の子」とされて、主にある交わりの内にお互いに愛し合うようにされているのです。
    それゆえ、信仰者の死と復活は、その愛の交わりの完成にほかなりません。永遠に生きておられる神が私たちを愛して、私たちを永遠に生かしてくださいます。たとえこの世の人びとがわたしの存在を忘れ去ることがあっても、神はわたしを忘れ去ることがありません。神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であられるように、わたしの神であられます。
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  • キリストの力に満ちあふれる(コリントの信徒への手紙二 12章)
    すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
    (コリントの信徒への手紙二12章9節)
    ある障がい者の集いで、障がい者の役割とは何なのかが話題となりました。人の役に立たなければという価値観が蔓延する中、生き辛さを抱える方も多いでしょう。
    聖書は、神の御前にいかなる人も同じ尊厳と権利とを持っており、特に神の愛を証しするために障がい者がいることを教えています。
    パウロは、生まれも学歴も業績も並みはずれて抜きん出た人物でした。しかし、キリストに出会って、それらは全く無益となりました。彼にとってキリストがすべてとなった、いやキリストの御業こそが彼自身において、また伝道という神から託せられた働きにおいても決定的に不可欠なことを気付かされ教えられたからです。
    教会では、有能でファインプレーができることよりも、また多くの献金をささげ得ることよりも、各自は弱く欠けだらけでも互いに助け合い補い合って共に神の御業を成していくことの方が、神によって益とされ、喜びとなり、力となっていきます。私たち一人一人共に執り成し合い、共に苦しみを分かち、共にキリストに仕えるところとされることを願います。
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  • キリストの花嫁(コリントの信徒への手紙二 11章)
    あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。
    (コリントの信徒への手紙二11章2節)
    わたしにも愛する大事な一人娘がいます。やがて愛する人と出会い、結ばれて嫁ぐ日が来るでしょう。
    パウロにとってコリント教会は誇りであり宝でした。その教会が偽使徒たちによって異なる福音・異なる霊に誘われて、信仰を失い、真の神から離れてしまうことは、何よりの痛み・悲しみでした。その教会を深く案ずる思いを、2節で「神が抱いておられる熱い思い」と言い表しています。いわゆる「熱情の神」「ねたむ神」と呼ばれる深く一途な純愛のことです。決して利己的で一方的な誤った愛憎でなく、ご自分の大切にしておられる者が乱暴に無造作に取り扱われることへの激しい嫌悪と怒りです。
    ユダヤでは、娘を婚約させる決定権は、父親にありました。自分が大切に育てた娘が、ないがしろにされないように守り防ぐ責任があるからです。元々「嫁ぐ」という日本語は、自分の落ち着き先へ帰ることを指したそうです。教会は、本当の所有者であり、真の救い主であるイエス・キリストに献げられ、神からの熱い思いが与えられ、そこに留まり続けるとき、幸いなのです。
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  • 御言葉によって見破る(コリントの信徒への手紙二 10章)
    わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ…
    (コリントの信徒への手紙二10章4節~5節)
    異端が既成のキリスト教会を打ち倒すための策略とはこれだとのことです。それは、自分たちの信奉者を相手の教会に送り込み、何年もかかって信徒たちをすっかり信頼させ、そうしてよい時期に一気に引き抜くとのことです。その折の決まり文句は、「この教会には愛がない」とか「この教会の牧師は御言葉を語っていない」と中傷するのだそうです。そうすると大きな教会でも群が二分され、小さな教会では再び立ち直れなくなるのです。
    パウロは、せっかく悔い改めたコリント教会に偽使徒たちが忍び込んで信徒たちをかき回そうとしていることに気付きました。それに対し、相手の見かけや強さ、立派さに注目するのではなく、何よりも御言葉に堅く立ち、御言葉に豊かに養われて、相手の企てを見抜き、不要な混乱や不安に陥らないようにと助言を送っています。
    教会におけるどのような対立や紛争も、それを最終的に決定するのは、神の言葉である聖書によります。牧師や役員だけでなく一人一人の信徒の御言葉における成長は、混乱や異なる福音への最大の防御と言えます。
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  • 恵みの分配(コリントの信徒への手紙二 9章)
    神は、あなたがたが、いつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
    (コリントの信徒への手紙二9章8節)
    9章も8章同様、貧しいエルサレム教会のための献金を訴えています。とりわけ、献げる者と献げられる者との相互の連携の必要と祝福とが述べられます。
    コリント教会の献金への熱心が他のマケドニアの諸教会の熱心をかき立てました。それだけでなく、エルサレム教会のクリスチャンたちの、異邦人教会のための祈りや感謝を増し加えることになって、キリスト教会全体の一致の絆が深められたことをパウロは心から感謝しています。
    私たち平和の君伝道所は多くの援助を中会から受けています。小さな群れ故に、それがなければ教会としての働きを維持していくことはできません。礼拝にしろ、伝道の働きにしろ、会堂建築や営繕の業にしろ、すべては神が、それらの必要の一切を備え支えてくださっていることに感謝します。
    しかし、小さな群れも、神さまに感謝して献げる喜びが与えられています。愛と慈善の献げものをすることができる。事実、している。その祈りを絶えず強くされます。仕え献げていく喜びへと成長させられたいと願います。
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  • 貧しくなられた主(コリントの信徒への手紙二 8章)
    あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
    (コリントの信徒への手紙二8章9節)
    献金・奉仕・慈善といった愛の業は、ゆとりがあるのでするのではなく、神の救いへの感謝からするものです。パウロは、コリント教会にも貧しいエルサレム教会のための献金を勧めました。それは、救い主の貧しさにあずかることなのです。
    神の救いは、何よりも愛の原理、恵みの原理によります。私たち罪人を贖い出すために、主ご自身、聖い神の御子であられたのに、人となって私たちの罪を負い十字架の死に至るまでご自分の命を献げ尽くしてくださいました。主は豊かであられたのに、私たちのために貧しくなられたのです。
    健康・お金・能力といった、私たちが地上で神からいただいている恵みの賜物を本当に神に感謝するのは、神の救いにあずかることによります。神からの一方的な憐れみと恵みへの感謝が、他の人や教会の困窮を我が事として受け止め、強いられてではなく喜んであふれ出て献げる愛となります。私たちは、主の貧しさにより、この神の愛に豊かにされて、キリストの救いの恵みにますます感謝するのです。
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  • 取り消されない救い(コリントの信徒への手紙二 7章)
    今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
    (コリントの信徒への手紙二7章9節~10節)
    神の救いは、取り消されることがありません。この真実を知り、味わうことは、豊かな慰めです。この章では、教会の中で起こった悲しい罪による事件が背景になって記されています。一体どんな出来事があったのかは、よくわかりませんが、そのことが教会全体を揺るがしかねない重大なものであったことは確かなようです。
    「聖徒の交わり」と呼ばれる主の身体なる教会ですが、残念ながら教会を構成するクリスチャンは罪人の頭です。残れる罪のために不和や裏切り、差別や偏見、無理解も生じます。その場合、犯人探しに躍起になり、裁きすぎて当人を排斥してしまいがちです。もちろん犯した罪への責任を取ることは大事ですが、本当のゴールは罪を悲しみ、神に立ち帰ることにあります。なぜなら最も悲しんでおられるのは神だからです。そのために御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったのです。
    キリストご自身が、私たち一人一人の罪を贖ってくださいました。それほどの貴い代価を無にしてはなりません。
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  • ぜひあなたの家に(ルカによる福音書 19章1-10節)
    イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
    (ルカによる福音書19章5節)
    当時、徴税人は、ローマ帝国の手先とされて、ユダヤ人に嫌われていました。財産を集めることはできたものの、蔑ろにされる職業でした。
    そのような徴税人の頭であるザアカイに、主イエスは「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。ザアカイも救われるべき罪人の一人だからです。この出会いによって生きる喜びを与えられて、ザアカイの人生は完全に変えられました。それは、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と主イエスに言うほどでした。
    私たちがイエス・キリストを受け入れたときのことを思い起こしましょう。救いにあずかる値打ちの全くない私たちの心に、主イエスはザアカイのときと同じく訪ねて来てくださいました。「あなたの心の中にぜひ入りたい」とおっしゃって、私たちの心に入ってくださり、信仰を与えてくださいました。主イエスにとって、私たちも救われるべき罪人の一人なのです。
    この驚くべき恵みのときを絶えず思い起こして、日々を過ごしたいと願います。
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  • わたしのすべてを主にささげる(ローマの信徒への手紙 12章1-2節)
    こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
    (ローマの信徒への手紙12章1節)
    昨日は、宗教改革における「万人祭司の原理」の再発見について確認しました。私たちはみな、神を見失ったこの世界にあって特別に選ばれ、神にお仕えする存在として聖別された「祭司」です。その祭司としての務めの本質は、「犠牲をささげる」ことだとカルヴァンは理解していました。それは、旧約時代の神殿でささげられたいけにえを繰り返すということではありません。「感謝と賛美のいけにえ」(ヘブ13章15節参照)、また「霊的ないけにえ」を主にささげるという意味です(1ペト2章5節)。
    それは一言でいえば、まったき献身の人生ということです。祈り、礼拝、伝道、愛と慈善…その他一切のことを含めて、私たちの身と魂のすべてをささげる。まったき献身の生涯に生きることです。主イエスがその命のすべてをささげてくださいました。そのまったき愛と献身に応えて、わたしもまた主のためにおのれをささげるのです。主は言われました、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(ヨハ17章19節)。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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