リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 恵みを数えて(コリントの信徒への手紙一 1章)
    わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。
    (コリントの信徒への手紙一1章4節~5節)
    わたしは家族で、たまにレストランに出かけます。もしそこでジュースを注文して、運ばれてきたジュースがコップの10分の1ぐらいしか入っていなかったら、どう思うでしょう。「どうなっているの?何でこれだけしか入っていないの?」と思うのではないでしょうか。
    このジュースを人に譬えてみるなら、主イエスはこの10分の1をどのように見るのでしょうか。この世の国と主イエスの国では見え方が違うのです。パウロはここで、コリントの信徒たちを「感謝」のまなざしで見ています。
    当時のコリント教会を肉の目で見るなら、とても感謝の言葉は出てこない状態でした。しかし、パウロは感謝の言葉を述べています。どうしてでしょうか。それは、「足りないところ」ではなく、そこに確かにある「恵み」のほうを数えることができたからです。彼には、10分の1しか入っていないのではなく、10分の1の、けれども、すばらしいかけがえのないものが入っていると見えているのです。
    きょう、私たちも、出会う人びとを主イエスのまなざしで見ることができますように。
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  • 主よ、御もとに(哀歌 5章)
    主よ、あなたはとこしえにいまし
    代々に続く御座にいます方。
    なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
    果てしなく見捨てておかれるのですか。
    主よ、御もとに立ち帰らせてください
    わたしたちは立ち帰ります。
    わたしたちの日々を新しくして
    昔のようにしてください。
    (哀歌5章19節~21節)
    「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました」とあり、哀歌の最後は絶望で終わっているように思えます(22節)。けれども、哀歌は祈りに始まり祈りに終わっています。
    契約の恵みに頼るほかすべての望みは絶たれました。1節の「わたしたちにふりかかったこと」は、すべて私たちの罪から出た結果で、主の激しい憤りを受けたものでした。それでも、イスラエルの民は、「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば」という契約の言葉に期待しています(申30章2節)。
    この契約に依り頼むとき、最後の嘆きの言葉は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」というメシア詩編に重なってきます。主イエスが叫ばれた十字架の言葉は、詩編22編のメシア預言の成就でありました。哀歌は「なにゆえ」との嘆きから始まります(1章1節)が、主に期待する祈りの叫びとして、キリストに結ばれていると言えるでしょう。十字架のキリストを仰ぐことへと導かれます。
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  • 主の憤りは極まり(哀歌 4章)
    主の憤りは極まり
    主は燃える怒りを注がれた。
    シオンに火は燃え上がり
    都の礎までもなめ尽くした。
    わたしたちを苦しめる敵が
    エルサレムの城門から入るなどと
    地上の王の誰が
    この世に住む誰が、信じえたであろう。
    (哀歌4章11節~12節)
    バビロン捕囚で受けた神からの呪いは激しく、想像を絶するものがありました。「山犬ですら乳を与えて子を養うというのに、わが民の娘は残酷になり、荒れ野の駝鳥のようにふるまう」(3節)。「憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。わたしの民の娘が打ち砕かれた日、それを自分の食糧としたのだ」(10節)。
    しかし、これは、「もし主の戒めを守らないならば」と、あらかじめ宣告されていたことでした。「あなたは敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえに、あなたの神、主が与えられた、あなたの身から生まれた子、息子、娘らの肉をさえ食べるようになる」(申28章53節)。
    信じがたい悲しいことですが、子どもを虐待して飢え死にさせたり、暴力をふるって死なせたりすることは、現代の私たちにも起こっています。人類の罪深さがもたらす悲惨さは、日本社会にも表れています。
    そこで、4章最後の言葉が、救いへの希望となります。「おとめシオンよ、悪事の赦される時が来る。再び捕囚となることはない」(22節)。
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  • 主の慈しみは深く(哀歌 3章)
    主は、決して
    あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
    主の慈しみは深く
    懲らしめても、また憐れんでくださる。
    人の子らを苦しめ悩ますことがあっても
    それが御心なのではない。
    (哀歌3章31節~33節)
    「わたしは主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者」と歌って始まる3章は、それでも主に向かっていく者の希望に満ちています。これも契約の恵みでした。
    「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」(申30章1~3節)。
    それゆえ信仰者は、主がわたしを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない、と知っています。「それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」と記されているからです(申8章16節)。そして主を賛美します。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる」(22、23節)。
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  • 苦しみから栄光へ(ルカによる福音書 24章13-49節)
    そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
    (ルカによる福音書24章25節~26節)
    主イエスが復活された日の夕方のこと、2人の弟子たちはエルサレムを離れてエマオという村へ歩いていました。彼らにとって、主イエスに望みをかけていた日々はすでに過去の出来事となっていました。
    彼らは、主イエスが人びとの手に引き渡され、十字架刑に処せられたことの意味を理解できませんでした。確かに、主イエスの十字架は人間の目で見る限りにおいては「苦しみ」と「死」であり、「敗北」を意味します。十字架は彼らに失望を与える出来事でした。
    しかし、主イエスの苦しみは、預言されていたとおり、人間の理解を超えて「栄光に入る」ことと結びついていました。主イエスの十字架にこそ、「喜び」と「命」、「勝利」があります。
    私たちも、彼らと同じように、「物分かりが悪く、心が鈍く」、信仰の弱い者たちです。彼らは主イエスによって目が開かれ、心が燃やされました。私たちもまた「苦しみ」から、「神の栄光」を見ることのできる者へと変えられます。目が開かれ、心燃やされて、復活の主イエスをほめたたえて礼拝をささげましょう。
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  • 葬り(マタイによる福音書 27章57-61節)
    ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。
    (マタイによる福音書27章59節~60節)
    キリストは十字架上で息をひきとられました。その遺体を引き取りに来た人がいます。アリマタヤのヨセフです。彼は総督であるピラトのところに向かい、遺体の引き取りを願い出ました。
    キリストは十字架にかけられました。これは刑罰であり、不名誉な死に方です。その遺体を引き取ることは危険を伴うものですが、ヨセフは遺体を引き取り、墓を用意し、葬りました。キリストへの思いが危険を顧みないヨセフの行動となりました。
    人が死んだら葬る。これは当たり前のことです。しかし、パウロは手紙の中で、この葬りが福音の一部であり、大切な出来事であったことを書き残しています(1コリ15章4節参照)。なぜでしょうか。それはキリストの葬りが復活へと向かうからです。キリストは死にて葬られましたが、そこで終わりではなく、復活されたのです。
    墓は暗い所です。しかし、そこにキリストの光が差し込みます。私たちもやがて葬られます。墓に入ります。しかし、そこは復活の光に照らされたところなのです。
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  • なぜわたしをお見捨てに(マタイによる福音書 27章45-56節)
    さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
    (マタイによる福音書27章45節~46節)
    人びとの嘲りを受けながら、キリストは十字架におかかりになりました。神を信じる一人一人の罪を背負い、父なる神の御心に従いながら。その姿は壮絶なものです。キリストは十字架上で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。
    キリストは十字架上で神に捨てられたのです。それほどの孤独を味わいました。真の神としての栄光の姿はここにはありません。そこにあるのは人としてあらゆる苦しみを体験されたお方の姿です。十字架上でその苦しみは頂点に達しました。キリストがここまで苦しまれたのは私たち一人一人のためでした。
    キリストが十字架で孤独を背負ってくださいました。このキリストを信じるとき、私たちは神と共に生きる幸いを与えられます。それはキリストが孤独を背負ってくださったからです。キリストを信じる時、神に見捨てられることはないのです。神が私たちを離さない。あきらめない。私たちの罪はすべてキリストが十字架で背負ってくださったのです。
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  • 目を覚ましていなさい(マタイによる福音書 26章36-46節)
    それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て…言われた。ペトロおよびゼベダイの子2人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
    (マタイによる福音書26章36節~38節)
    十字架が迫っています。キリストは人としてのあらゆる苦しみを体験されました。キリストは苦しみが大きいときにこそ、懸命にお祈りになりました。
    ゲツセマネでキリストはおひとりで祈ります。しかし、その祈りは弟子たちを伴う祈りでした。無力で頼りない弟子たちです。裏切ることがわかっている弟子たちです。しかし、キリストは弟子たちに祈っていなさいと言うのです。祈りは1人で祈るだけでなく、共に祈ることを、キリストは十字架を前にして、弟子たちに示されました。
    キリストの祈りは壮絶な祈りです。十字架にかかることは、このお方にとっても怖いことでした。その痛みは救い主として、人びとの罪を背負う痛みでした。壮絶な祈りの体験です。
    キリストが苦しまれたとき、弟子たちは疲れて寝てしまいました。キリストの十字架に対して無理解でした。目を覚ましていることのできない弟子たちの姿。この姿を見る時、私たちと無関係とは思えません。しかし、覚えたいのです。寝てしまった弟子たちにキリストのまなざしが確かに注がれていたということを。
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  • 最後の晩餐(マタイによる福音書 26章26-30節)
    一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
    (マタイによる福音書26章26節)
    十字架前夜の食事の席は、過越の祭りをお祝いする食事です。出エジプトの出来事に先立ち、神はイスラエルの民に約束を与えられました。それは、鴨居と柱に印をつけたイスラエルの家には災いをくださないという約束です。エジプトには大いなる悲劇が襲いましたが、この約束の故に、災いはイスラエルの家を過ぎ越していきました。
    過越は神の約束の真実さと、奴隷状態であったイスラエルの人びとを主がその御手をもって解放してくださったことを覚える時です。そして、キリストは、私たちを罪の奴隷から解放するために十字架におかかりになりました。まさに、旧約の出エジプトは、新約においてはキリストの十字架によって成し遂げられました。
    主イエスは、過越の食事を弟子たちとされました。なぜ主イエスは裏切ることがわかっていた弟子たちと食事をされたのでしょうか。これは主イエスの弟子たちへの愛の表れです。裏切るから見捨てるのではなく、裏切ることがわかっていても最後まで寄り添うお方。このお方のまなざしは、今を生きる私たちにも豊かに注がれています。
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  • 裏切り(マタイによる福音書 26章14-25節)
    イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
    (マタイによる福音書26章23節~24節)
    キリストは十字架への道を歩まれました。苦難への道のりです。その苦しみがよりはっきりしたのは弟子たちの裏切りが起こったときでした。
    弟子たちはキリストにとってもっとも身近な存在です。生活を共にし、教えを受け、キリストからの多くの恵みと慈しみを受けていました。その弟子たちがキリストを裏切ろうとしています。
    初めに裏切ったのはイスカリオテのユダでした。ユダは主イエスに敵対していた祭司長のところに行き、キリストを売るつもりであることを明らかにしました。お金で主イエスを売ったのです。
    主イエスはわたしを裏切る者は不幸だとおっしゃいました(24節)。その裏切りが弟子から出ることをご存じでした。深い悲しみを覚えられたでしょう。弟子たちの裏切りを引き受けて、キリストは十字架に向かわれます。
    ユダの裏切り。この裏切りは弟子の中から起こりました。キリストを信じるとき、私たちもキリストの弟子です。あらゆる罪が赦されていることに平安を覚えながら、ユダのようにキリストを裏切ることはないか、絶えず悔い改めたいのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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