リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • 宝の民…既にあった約束(申命記 26-28章)
    主もまた、今日、あなたに誓約された。「既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。造ったあらゆる国民にはるかにまさるものとし、あなたに賛美と名声と誉れを与え、既に約束したとおり、あなたをあなたの神、主の聖なる民にする」と。
    (申命記26章18節~19節)
    きょうの聖句は、「主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います」(17節)という民の誓約に応答してなされた神の誓約のように見えます。けれども、「既に約束したとおり」という言葉が、二度、繰り返されています。
    はるか昔、神はアブラムを選んで言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(創12章1、2節)。
    神の御前に誓約を立てた民は、神ご自身が選び、祝福を約束したアブラハムの子孫です。神の祝福は、人間の不確かな誓約に応答して与えられるものではありません。神のご意思に出発点があるのです。だからこそ信頼できるのです。
    異邦人の私たちが、今日、神の言葉を聞いているのはなぜでしょう。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェ1章4節)。私たちも、ただ神の御心により「宝の民」「主の聖なる民」なのです。
    0 min
  • 神の升で量る(申命記 21-25章)
    あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができる…
    (申命記25章13節~15節)
    申命記は、約束の地カナン入国を前にした神の民のために、主がモーセに命じられた教えの解き明かしです。定住生活で起こり得るさまざまな問題―家庭問題、殺人、同族や弱者への配慮、主の集会など―について、実に具体的に細やかに書かれています。
    きょうの聖句を読むと、その謎が解けるような気がします。私たちは皆、大小異なる升をもって、自分と他者とを量る性質があるのではないでしょうか。
    主イエスも言われました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか」(マタ7章3、4節)。
    各人が自分を尺度にしたら、約束の地での生活に、平和も祝福も実現しないでしょう。自分ではなく神を喜ばせること、神の目を意識して、神の御前に生きることを、神の民は教えられます。モーセから聞いた教えを約束の地で守り行い、神に従う喜びや平安、祝福された生活を味わうようにと召されているのです。
    0 min
  • 神の民であるために(申命記 20章)
    ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。それは、彼らがその神々に行ってきた、あらゆるいとうべき行為をあなたたちに教えてそれを行わせ、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯すことのないためである。
    (申命記20章17節~18節)
    15節~18節に、嗣業の地に住んでいた民族を皆殺しにせよという命令が記されています。このことにとまどいや躓きを覚えられる方は多いと思います。それは現代の私たちの倫理観からすれば当然のことで、これをそのまま私たちの行動規範とすることはできません。しかし、そこでまず注目したいのは、この戒めの目的です。
    残酷と思われる命令ですが、それは神の民が、異教の影響を受け主に罪を犯すことがなく、主と共に歩むためとはっきり書かれています。
    それゆえ、この言葉は私たちが神の民として信仰をもって生きる時に、時代を超えた意味をもつ教えとして示されているのです。
    さらに、ここには兵役免除についても語られています。普通に考えれば、戦いで兵士の数は重要なはずですが、むしろ多くの者が免除対象になります。主が共に戦ってくださることが勝利のカギだからです。
    私たちのこの世の生活においても信仰の戦いがあります。そこで主が私たちと共におられるなら、主が共に戦われ、主が勝利してくださるのです。
    0 min
  • 平和な生活(申命記 19章)
    裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
    (申命記19章18節~19節)
    18章では礼拝に関わる事が扱われます。礼拝を司る祭司とレビ人をどのように支えるのか、異教の習慣に従う信仰の態度が戒められます。さらに、預言者が立てられることと、その預言者は会衆によって見分けられなければならないことが示されています。
    その上で特に目を留めたいのは、「全き者であれ」という言葉です。しかし、人間が全き者、完全な者であることなどできるのでしょうか。
    この言葉には「主と共にあって」という但し書きがついています。祭司とレビ人が献げもので養われ、預言者が会衆によって見分けられ真実なものとされるということ全体を支えるのが、この「主と共にある」状態であり、また同時にこれこそが目標です。言い換えますと「主と共にある」ために一切の制度があり、その実現こそ「全き者」であることなのです。
    ですから、「全き者であれ」とは私たちが精進、努力して倫理的、道徳的に完全な人間になるということではありません。本当に全き方は主のみです。それゆえ「主と共にある」ときにこそ、私たちは全き者とされます。
    0 min
  • 全き者(申命記 18章)
    あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。
    (申命記18章13節~14節)
    18章では礼拝に関わる事が扱われます。礼拝を司る祭司とレビ人をどのように支えるのか、異教の習慣に従う信仰の態度が戒められます。さらに、預言者が立てられることと、その預言者は会衆によって見分けられなければならないことが示されています。
    その上で特に目を留めたいのは、「全き者であれ」という言葉です。しかし、人間が全き者、完全な者であることなどできるのでしょうか。
    この言葉には「主と共にあって」という但し書きがついています。祭司とレビ人が献げもので養われ、預言者が会衆によって見分けられ真実なものとされるということ全体を支えるのが、この「主と共にある」状態であり、また同時にこれこそが目標です。言い換えますと「主と共にある」ために一切の制度があり、その実現こそ「全き者」であることなのです。
    ですから、「全き者であれ」とは私たちが精進、努力して倫理的、道徳的に完全な人間になるということではありません。本当に全き方は主のみです。それゆえ「主と共にある」ときにこそ、私たちは全き者とされます。
    0 min
  • 父親の愛(ルカによる福音書 15章1-3節、11-32節)
    「父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』」
    (ルカによる福音書15章22節~24節)
    「放蕩息子」の話では、父親の2人の息子に対する愛があらわされます。父親は2人の息子に対して、同じように優しい言葉をかけます。それは2人のことを心から愛しているからです。父親が自分の財産を息子たちに分け与えたのもそのためです。父親が欲しかったのは、息子たちの喜ぶ姿と、息子たちが父親を愛することでした。
    しかし、当の息子たちはというと、父親の愛を全く理解していません。それゆえ、弟息子は放蕩の限りを尽くして与えられた財産をすべて使い果たしてしまいます。兄息子は共に住んでいながらも、父親の息子たちへの愛を理解せず、ただ怒りと憎しみだけがこみあげてきます。
    そのような中で、父親は息子たちが自分の愛を理解し帰って来ることを願っています。そしていざ帰って来ると、「走り寄って首を抱き、接吻し」て、大きな喜びと愛で包みこむのです。
    神は私たちを子として受け入れておられます。そして私たちが神のもとへ帰って来ると、走り寄って首を抱き、接吻して、大きな喜びと愛をもって迎え入れてくださるのです。
    0 min
  • 後戻りしない(申命記 17章)
    王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。
    (申命記17章16節)
    申命記においては当然ながら、エジプトからの解放が強く意識されています。この所では、新たに民が王を立てようとするのなら、それは、必ず主が選ばれた王でなければならないことが確認されています(15節)。そこに神の民イスラエルの独自性が明らかに示されます。
    同じように、この王には、大勢の妻を持つことが禁じられ、律法の写しを作って神を畏れつつ歩むことが求められています。そのような王に対する命令の最初に置かれているのが、馬を増やすことの禁止です。
    当時の人々にとって馬は軍事力そのものでした。馬が多ければ多いほど、いざという時に戦を有利に進められるばかりでなく、外交的な力にもなったことでしょう。
    しかし、神に依り頼む道を知ったものにとっては、馬の数を当てにすることは、地上の力に依り頼む昔の姿への後戻りであり、同時に神と共にある自由を失うことを意味します。
    そこで私たちは、今この時にこの御言葉から、本当に私たちを生かし、また滅ぼすことのできる方を畏れることを学びたいのです。
    0 min
  • いつでも初心に(申命記 16章)
    あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとしてあなたの神、主に屠りなさい。その際、酵母入りのパンを食べてはならない。7日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あなたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。
    (申命記16章2節~3節)
    このところで、神は祭りを通して二つのことを思い起こすよう求めています。一つは神が何をされたか、もう一つはイスラエルが何であったかです。具体的には三大祭りである「過越祭」、「7週祭」(ペンテコステ)、「仮庵祭」について、それぞれ、その祝い方が細かく指示され、祭りの目的が示されます。
    例えば、過越祭であれば「エジプトの国から出た日を生涯思い起こす」とありますし、7週の祭りは寄留者、孤児、寡婦といった、社会的弱者と一緒に祝うことで、自分たちもまた「奴隷であったことを思い起こす」ためであり、仮庵祭では「主があなたの収穫と手の業をすべて祝福される」その事実を喜ぶ、というようにです。
    その意味で、イスラエルの祭りはただの「お祭り」ではありません。昔から今この時に至るまで続いている神の祝福を改めて覚え、自分自身も救われた身であるゆえに弱者に対する正しい振舞いをしているか、顧みる時です。同じように私たちもまた、公的礼拝や私的礼拝において、御言葉によって神の恵み深さを味わい、自分自身を見つめ直します。
    0 min
  • 富は神のもの(申命記 15章)
    彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。…生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。
    (申命記15章10節~11節)
    ここでは貧しくなってしまった同胞に対して気持ちよく貸し与えること、また奴隷となってしまった同胞についても、人としての丁寧な配慮をなすべきことが命じられています。その場合、貸し与えるのが負債免除の年の前年であるなら、実質的には返済を受けることなく与えてしまうことになります。また、奴隷であったものが6年間働いて自由人にされる場合にも、多くの贈り物をするように命じられています。
    もちろん、このような規定はそのまま現在の生活に当てはめることはできません。しかし、そうであるにもかかわらず私たちは、この命令の根拠となる言葉に耳を傾けたいのです。
    それは、「あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい」(15節)という言葉です。自分が豊かであるのは、すべて自らの才能と努力によるのであって、一切は自分の手柄であり、富は自分のものであるという思い込みに対して、この言葉は強い疑問を投げかけています。
    そこで私たちは日々神によって豊かにしていただいているものとして、開かれた心で隣人に接したいのです。
    0 min
  • 宝の民として歩む(申命記 14章)
    あなたの神、主の御前で、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたは、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の10分の1と、牛、羊の初子を食べ、常にあなたの神、主を畏れることを学ばねばならない。
    (申命記14章23節)
    14章ではすでに12章で語られた食べ物と祭儀のあり方について、改めて清い動物と汚れた動物の区別と、レビ人等に対する配慮の言葉が語られます。このところの中心にあるのは「主を畏れることを学ぶ」という言葉です。ある動物や鳥類、魚類がなぜ食べられないのか根拠は示されませんが、そのような区別を守ることは、神の民のしるしの一部です。
    その他、収穫の10分の1を取り分けて主の御前で食べること(23節)や、遠隔地に住む者たちが取り分けた金銭を携え、指定の場所で家族と共に祝いの食事をすること(24節以下)、レビ人や寄留者、孤児のために10分の1を取り分け彼らが満ち足りるようにとの命令(28節以下)も同様です。
    現代においては、このような食物規定や礼拝規定をそのままでは用いません。けれども、私たちは神が我々をも「宝の民とされた」(2節)事実を喜び、日曜日ごとに主イエスの定めた礼拝のあり方に服従し、弱いものに配慮します。また、日々のデボーションにおいて繰り返し「主を畏れること」を学ぶのです。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners