リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 王なるキリスト(マタイによる福音書 1-11節)
    そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
    「ダビデの子にホサナ。
    主の名によって来られる方に、祝福があるように。
    いと高きところにホサナ。」
    (マタイによる福音書21章9節)
    キリストは王としてこの世界にお生まれになりました。クリスマスの物語はこのお方が真の王であることを伝えています。王であるキリストは十字架にかけられることを良しとされ、エルサレムにお入りになります。
    王が都にやって来ました。ところが、その王は子ろばに乗ってやってきました。王にはそぐわない動物です。ろばは家畜でした。決して強くはない動物です。キリストはろばに、しかも子ろばにお乗りになって神の僕としてエルサレムにお入りになりました。
    王は戦わなければなりません。キリストはエルサレムで一つの戦いに勝利されます。それが罪とその結果としてもたらされる死への勝利です。その勝利は復活でした。しかしながら、その勝利への道のりは苦しみの道でした。人びとの無理解、弟子の裏切り、十字架への恐怖。キリストは罪を背負う救い主としてさまざまな苦しみを背負いました。
    キリストの苦しみの先には勝利の復活があります。その復活を見つめながら受難のキリストに思いを向けたいのです。
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  • 悪いことをしていない方の死(ルカによる福音書 1-49節)
    「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
    (ルカによる福音書23章41節)
    主イエスの裁判において、ピラトは「この男に何の罪も見出せない」と言います。そのとおり、主イエスに罪はありませんでした。しかし、人びとは殺人を犯したバラバを釈放し、主イエスの十字架刑を要求します。ピラトは彼らの要求を受け入れ、主イエスは2人の犯罪人と共に、十字架にかけられました。
    主イエスと共に十字架にかけられた犯罪人の1人は、主イエスをののしることしかできませんでした。ここには、自分の罪の報いを拒否し、神をも恨む人間の姿が記されています。一方で、もう1人の犯罪人は、主イエスの無罪を理解していました。
    私たちの救い主イエスは、全くの無罪であるにも関わらず、救いのために罪人の罪の報いを自ら受けてくださった方です。私たちもまた、神の前に罪を犯し続ける「犯罪人」です。しかし、主イエスの十字架によって、罪が赦される道が開かれています。
    「悪いことをしていない方」の十字架刑は誰のためであったのでしょうか。その答えを探し求め、主イエスに身を委ねる者に、主イエスは「永遠の楽園」をはっきりと約束してくださいます。
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  • なにゆえ、主は憤り(哀歌 2章)
    おとめエルサレムよ
    あなたを何にたとえ、何の証しとしよう。
    おとめシオンよ
    あなたを何になぞらえて慰めよう。
    海のように深い痛手を負ったあなたを
    誰が癒せよう。
    (哀歌2章13節)
    主の憤りの原因は、はっきりしていました。神のみを礼拝する場所が偽りの神々で埋め尽くされたからです。
    約束の地に入る前に、王に関する規定で告げられていました。「王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない」(申17章17節)。しかし、王の妻たちによって神殿に偶像が持ち込まれることが、ソロモンの時代から始まりました。そのため、偶像の宮と化したエルサレム神殿に対して、「ねたむ神」である主は「熱情の神」となり、「御怒りはヤコブ(すなわちイスラエル)に対して烈火となり、炎となって焼き尽くした」のです(3節)。主なる神と他の神々を混ぜ合わせた神殿は、固く節操を守る契約を破ってしまいました。
    そこで、「主は御自分の祭壇すら見捨て、御自分の聖所をすら見捨て」(7節)、「シオンの祭りを滅ぼし、仮庵をも、園をも荒廃させられ」、「安息日をも、祭りをもシオンに忘れさせ、王をも、祭司をも激しい怒りをもって退けられた」のです(6節)。
    さまざまな宗教行事を習俗にして何でも持ち込むことに対して、「主はまことに敵となられ」ます(5節)。
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  • ああ、なにゆえ(哀歌 1章)
    道行く人よ、心して
    目を留めよ、よく見よ。
    これほどの痛みがあったろうか。
    わたしを責めるこの痛み
    主がついに怒ってわたしを懲らす
    この痛みほどの。
    (哀歌1章12節)
    「(ああ、)なにゆえ」という嘆きで『哀歌』は始まります。旧約聖書は、罪を重ねて絶望的になっていく、イスラエルの民の歴史です。エジプトの奴隷状態から解放されたのに、バビロンの奴隷状態になっていく悲惨な結末を迎えました。
    しかし、悲惨な結末の原因は、すでに出エジプトの時に告げられていました。「もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」(申28章15節)。
    『哀歌』の著者も、そのことは知っていました。「シオンの背きは甚だしかった」(5節)。「エルサレムは罪に罪を重ね、笑いものになった」(8節)。「主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ」(18節)。
    それでも嘆きの詩人は主に期待します。「御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています」(20節)。その嘆きと期待は、ゲツセマネから十字架に向かって行かれた主イエスのようです。「わが神、わが神、なにゆえ」と。
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  • 信仰の目を上げて(申命記 34章)
    ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。
    (申命記34章9節)
    ヨシュアの元の名は、ホシェア(彼は救った)でしたが、モーセが、12人の偵察隊を約束の地カナンに遣わした時に、ヨシュア(主は救い)と改名しました(民13章)。偵察隊のうち10人は、町々が城壁に囲まれ、住民が強くて大きいことを恐れて、約束の地について悪い情報を流し、民の心を挫きましたが、ヌンの子ヨシュアとカレブだけは、良い報告をしました。
    主の御旨を拒んだ者は、約束の土地に入ることがゆるされませんでした。ヨシュアとカレブだけは別でしたので、「わたしは彼らを導き入れ、彼らは、お前たちの拒んだ土地を知るようになる」と主は約束されました(民14章31節)。いよいよ約束の土地に入るそのときが近づいてきたのです。
    モーセは約束の土地に入ることなく死を迎えますが、モーセからヨシュアにリーダーが変わっても、神の国の働きは前進し続けていきます。ヨシュアのように聖霊に満たされ、信仰の目を上げて、約束の地に入る者でありたいと思います。
    「強く、また雄々しくあれ。…わたしはいつもあなたと共にいる」(31章23節)。
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  • 神の約束の歴史(申命記 33章)
    この言葉を彼はユダのために言った。
    主よ、ユダの声に耳を傾け
    その民のもとに彼を来させてください。
    御手をもって彼のために戦い
    苦しめる者からの助けとなってください。
    (申命記33章7節)
    この章にはモーセが生涯を終える前に、イスラエルの人々に与えた祝福の言葉が書かれています。しかし、約束の地カナンに入ると、神の民は土着の偶像を拝み、自分たちをエジプトから救い出された大いなる神を捨てて、背信の罪を犯します。予告されていた呪いが降りかかり、神の民は約束の地を追われ、散らされ、異教の大国に連れ去られました。
    神の民の歴史は、人間の罪と不従順の歴史であり、その中に確かに実現している神の約束の歴史です。捕囚の後、「あなたの神、主のもとに立ち帰り、…御声に聞き従うならば、…再び集めてくださる」(30章2、3節)という回復の約束は実現しました。
    きょうのユダへの言葉の中に「彼」が出てきます。「ユダの地、ベツレヘムよ、…お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となる」(マタ2章6節)と言われていたことも思い出されます。ユダの王ダビデの子孫、約束の救い主イエス・キリストの十字架による罪の赦しがなければ、私たちも神の御前に立ちえない者です。
    まもなく受難週が始まります。罪深い私たちのために用意された救いを、心深く受け止めたいと思います。
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  • 神の慈しみと厳しさ(申命記 32章)
    「あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」
    (申命記32章52節)
    死を目前にしたモーセは、主に導かれ、ネボ山から約束の地カナンを見渡します。主はモーセに仰せになりました。「あなたたちは、…メリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」(51節)。それゆえ、主の約束の土地をはるかに望み見るが、あなたはそこに入れない、と。
    メリバ(争い)の水の出来事は、旧約聖書に8箇所以上出てきます。荒れ野で渇いた民がモーセとアロンに、「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか」と迫り、二人は主に助けを求めます(民20章4節)。主はモーセに、杖を取り、共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって水を出せと命じ、彼らと家畜に水を飲ませるようにと言われました。度重なる民の反逆に憤ったモーセは、手を上げ、杖で岩を2度打ってしまいます。水はほとばしり出て、民も家畜も飲むことができましたが、二人は主に、「イスラエルの人々の間で、わたしの聖なることを示さなかった」と見なされました。
    神の聖なること、その慈しみと厳しさを、きょう、もう一度、覚えたいと思います。
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  • いつもあなたと共にいる(申命記 31章)
    「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、わたしが彼らに誓った土地にイスラエルの人々を導き入れる者である。わたしはいつもあなたと共にいる。」
    (申命記31章23節)
    申命記において、契約の継承は、大切なテーマの一つです。神との契約は、モーセとその世代で完了するものではなく、次の世代へと継承されていくものです。モーセの死が近づいた今、ヨシュアの任命は、そのためにも不可欠な事柄でした。
    モーセがヨシュアと共に臨在の幕屋の中に立つと、主はモーセに言われます。「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入っていく土地で、…わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す」(16、17節)。
    任務を授けられるにあたり、民の背信と神の怒りの予告を聞かされたヨシュアは、恐れ、動揺したに違いありません。まもなく偉大な指導者モーセも亡くなるのです。しかし一切をご存じの主は、ヨシュアに「強く、また雄々しくあれ。…わたしはいつもあなたと共にいる」と言ってくださったのでした。
    試練の日も、困難な中でも、主がいつも共にいてくださる。これ以上に確かな支えが他にあるでしょうか。主はきょうも私たちと共にいてくださいます。
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  • ナルドの香油(ヨハネによる福音書 1-8節)
    そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
    (ヨハネによる福音書12章3節)
    主イエスが十字架にかかる時が近づいていました。その主イエスの足に、マリアが、当時の一般的な年収に値するほど高価な「ナルドの香油」を塗りました。
    このとき共に食事の席にいたラザロは、マリアの兄弟であり、主イエスによってよみがえらせられた人物でした。マリアは、「死を命へと変えることのできる方」に奉仕をしていたのです。自分の髪の毛を用いて香油を塗るマリアの姿は、主イエスへの真心からの愛を表しています。
    イスカリオテのユダがマリアに批判的な疑問を投げかけます。しかし、主イエスは、マリアの奉仕が「主イエスの葬りの準備」であることを明らかにされました。マリアの奉仕は神の大いなるご計画の進展のために用いられました。
    私たちが主イエスを愛してささげる奉仕もまた、神の大いなるご計画のために用いられます。「死を命へと変えることのできる方」にささげるもので、「もったいない」ものは何もありません。死から命へと変える主イエスの恵みにあずかる者として、主イエスを愛し、今日ささげるべきあなたの「ナルドの香油」は何でしょうか。
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  • 回復の予告(申命記 29-30章)
    あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
    (申命記30章2節~3節)
    「申命記」という書名は、漢訳聖書から採用されたもので、「申」には、繰り返して話すという意味があります。これまで何度も語られてきた祝福と呪いは、単なる成功と失敗、富と貧困という事柄ではありません。命か死か、という究極的な二者択一です。神を愛し、教えを守り、永遠の命の祝福の内を生きるのか、人の手によって造られた命のない偶像を拝み、御旨を離れて、生ける屍のように虚ろな人生を彷徨うのか。崖っぷちの選択を迫られています。
    繰り返された従順への勧告にもかかわらず、神の民は背信の民となり、やがて約束の呪いを身に招いて散らされ、捕らえられていきます。しかし、回復も予告されています。主のもとに立ち帰るならば、と。
    パウロも、罪と悔い改めについて語りました。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」(ガラ6章7節)。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ…ます」(2コリ7章10節)。
    神と共に歩む思いを新たにさせていただきましょう。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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