リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • 近寄ってくださる主イエス(ヨハネによる福音書 1章)
    その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
    (ヨハネによる福音書1章29節)
    洗礼者ヨハネは、主イエスを過越祭で犠牲とされる小羊にたとえました。
    小羊は非常にか弱く、無力です。主イエスは、栄光に輝く全能の神ですが、小羊のように全く無力な状態となられました。このことは、親の保護が絶対に必要な、か弱く、無力な赤ちゃんとしてお生まれになった出来事に何よりも示されています。
    全能の神が全く無力な状態となられたのは、罪に汚れた私たちに近づき、私たちの罪を担って十字架で取り除いてくださるためです。もし、私たちの目の前に百獣の王ライオンやどう猛な狼が現れたとしたら、かみ殺されると分かっていますから、一目散に逃げるしかありません。ところが、小羊ならば、近づいて来ても安心で、思わず背中を撫でることでしょう。
    栄光に輝く全能の神は、罪に汚れた私たちに近づいても、私たちが滅びへの恐れを抱かないように、小羊のような全く無力な状態となられました。そして、私たちの罪を取り除く犠牲の小羊となって、十字架で死んでくださったのです。きょうも、この神の小羊、十字架の主イエスを仰ぎ見ましょう。
    0 min
  • 政教分離と伝道(コリントの信徒への手紙一 15章20-28節)
    ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
    (コリントの信徒への手紙一15章23節~24節)
    福音宣教によって信仰が起こることには、「一人一人にそれぞれ順序があります」。世界の歴史が政教分離の原則を学んで訓練されることには、一人一人の心の自由を大切にすることが大きく関係しています。
    信仰は、国家の強制によって持つものではなく、一人一人の人が心の自由によって持つものです。信仰は強制を嫌います。国家が特定の宗教を国の宗教にすると、信仰者は心に痛みを覚えます。
    また、宗教団体が政治権力と結びつくと、宗教自体の堕落を招きます。国家の宗教になると、伝道や布教をしなくても、多くの国民はその宗教の信者になってしまうのですから、伝道意欲は起こらなくなります。
    さらに、宗教団体が国家の宗教になって財政的援助を受けたりすると、為政者による不正や国家権力による不当な介入に対して、正しいことを言う姿勢が鈍くなります。預言者的発言ができないと、国家の堕落を救う働きができなくなります。
    ですから、信教の自由と政教分離のための闘いは、宗教団体の健全な発展のためにも必要なのです。
    0 min
  • 王を求める声(サムエル記上 8章)
    王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「…彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。…今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
    (サムエル記上8章6節~9節)
    民が王を求める声には根本的な矛盾があると、預言者サムエルは気づいていました。しかし、主はサムエルに王の権能を教えておくようにと指示されました。それは民の義務を自覚させるとともに、王が絶対的権能をほしいままにしてはならないという警告でもありました。
    日本国憲法が「国民主権」とともに「象徴天皇制」を認めていることにも、根本的な矛盾があります。日本国民は主権者でありながら王を求めているのでしょうか。しかし、これは、世界共通の現象であるようです。
    為政者が大衆心理を利用して現人神を再現しようとすると、信教の自由は脅かされる危険があります。大嘗祭は、人が現人神になる天皇霊継承の儀式ですが、「公的行為」として行われると、政教分離原則は捨て去られる状態になります。
    国家が宗教を規定すると、「神社は宗教ではなく国民儀礼」という戦前の主張と同じことが起こります。その本質は、為政者が神の位置を占める、国家の神格化なのです。そのようなことを、私たちは求めるのでしょうか。
    0 min
  • 上に立つ権威(ローマの信徒への手紙 13章)
    人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
    (ローマの信徒への手紙13章1節~2節)
    ローマの信徒への手紙13章の「上に立つ権威」は、現在の日本国憲法では、公務員として国民全体に奉仕し、国民の福祉を増進し不正を抑制する立法・行政・司法における為政者のことです。天皇には該当しません。
    為政者は、国民主権のもとで選挙された議員であり、日本国憲法を守り「尊重し擁護する義務」をもちます。天皇には国政上の権威は与えられていませんから、国民の「上に立つ」天皇という存在は、現在の憲法からは出てきません。しかし、実際には、天皇の権威は強化されていく傾向にあります。天皇がおこなうことのできる公的な行為を、憲法は13の国事行為に限定しています。その行為がどれほど形式的であったとしても、天皇が国権の最高機関である国会を召集することは、天皇が国会より上にあるかのような印象を与えてしまいます。
    私的であるべき皇室の葬儀や、大嘗祭という新しい天皇が神になる儀式にも公的性格があるとして、公費が支出されることは憲法違反です。憲法のもとでは、国民に対して宗教的権威を行使することはできません。
    0 min
  • 信教の自由を守る日(テモテへの手紙一 2章1-7節)
    そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
    (テモテへの手紙一2章1節~2節)
    2月11日は、改革派信徒にとって、単なる休日ではなく、すべての人の「思想・信教の自由を守る日」です。信教の自由と政教分離の原則を覚えて過ごす1日です。
    この日は、1967年より「建国記念の日」という国民の祝日になっています。しかし、これは、1873年(明治6年)、「天皇は神聖にして侵すべからず」という天皇主権の下で「紀元節」とされた2月11日を復活させたものです。「紀元節」は、戦前(1945年8月以前)において、神話上の架空の人物と推測される神武天皇が初代天皇の位についたことを記念する「祭日」でした。
    日本キリスト改革派教会は、1965年の第20回大会で、「祝日法案に対する反対声明」を出してこう言っています。「政府提案による2月11日を建国記念の日となす祝日法案は、神道的神話を国民に強制し、さらに憲法に保障されし信教の自由と政教分離の原則を破壊するおそれのあるものとして、我等はこれに反対する」。従ってこの日は、2・11集会などに参加して、すべての国民が平穏に過ごせるよう祈り行動する日なのです。
    0 min
  • 神の言葉の権威と力(ルカによる福音書 5章1-11節)
    シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
    (ルカによる福音書5章5節~6節)
    主イエスは、集まってきた群衆に神の言葉を語るために、湖の上から話すことになさいました。そのために舟を出すよう頼まれた漁師が、後に主の弟子となるシモンという人物でした。
    主イエスの説教が終わると、主はシモンに「漁をしなさい」と言われました。しかしシモンは、「先生、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答えます。シモンは漁のプロでしょうから、きっと手を尽くして、一晩漁を行ったでしょう。それでも何もとれなかったのですから、本当にその日は不漁の日であったのだと思います。シモンは「先生、本当にとれないのです」と思いながらも、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、網を降ろしました。すると、どうでしょうか。驚くべきことに、主の言葉どおりにすると、網が破れそうになるくらいにたくさんの魚がとれたのです。
    主が語られる神の言葉には、不可能を可能にする権威と力があります。人をとる漁である宣教活動において、私たちの言葉には力がなくても、神の言葉には、人を変え、人を救う権威と力とがあるのです。
    0 min
  • 神の武具を身に着ける(エフェソの信徒への手紙 6章)
    最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
    (エフェソの信徒への手紙6章10節~11節)
    教会は、一つのキリストの体であり、全体が補い合って一つの目標に向かって歩む信仰共同体です。教会に連なる私たちは、「この世」との関わりの中で信仰生活を送っています。この世は、神の御心とは異なる罪の力に支配されている「暗闇の世界」です。
    この世界でキリスト者生活を送る以上、悪魔との戦いは不可避です。悪魔の策略は巧妙で、私たちを神への信頼、信仰から引き離そうとします。この戦いは血肉を相手にするものではなく「天にいる悪の諸霊」を相手にする霊の戦いです。私たちは戦いの備えとして、主に信頼し、その力によって強められるだけでなく、神の武具を身に着けなければなりません。
    パウロは6種類の武具を挙げます。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を告げるための履物、信仰の盾、救いの兜、霊の剣、すなわち神の言葉です。霊の剣は、誰かを殺したり傷つけたりするものではなく、人を罪から救い、慰めと平和を与えるものです。これらの武具を身に着けて、神の霊によって助けられ、主が約束し備えてくださっている御国を目指して、この世の旅路を共に歩みましょう。
    0 min
  • 愛によって歩む(エフェソの信徒への手紙 5章)
    あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
    (エフェソの信徒への手紙5章1節)
    パウロは、私たちが神に愛され、神の子とされているので、「神に倣う者となりなさい」と勧めます。「神に倣う」とは、イエス・キリストに学び従うことです。それがすなわち「神に(主イエスに)倣う」ことです。一言でいえば、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」ということです(4章32節)。
    キリストは生涯のすべてにおいて、私たちの救いのために、しもべの姿を取って歩まれ、御自身を香りのよい供え物、いけにえとして献げてくださいました。そこに神の愛が示されています。
    「赦す」とは、「恵み」を語源に持つ言葉です。私たちの罪の赦しと救いは、私たちの努力や功績によるのではなく「神の恵み」によるのです。
    わたしたちは、キリストに倣い、全身全霊をもって、この地上の生涯のすべてを通してキリストの香りを放つ者とならせていただくのです。兄弟姉妹が互いに足を洗い合い、互いに憐れみの心で接し、責めるべきことがあったとしても、主が私たちを赦してくださったように「赦し合う」こと、「愛し合う」こと、それが、主イエスに倣うことなのです。
    0 min
  • 霊による一致(エフェソの信徒への手紙 4章)
    ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
    (エフェソの信徒への手紙4章13節)
    私たちは、神の憐れみと深いご計画のもとに招かれ、イエス・キリストにあって神の子とされました。私たちは、イエス・キリストを「主」と仰ぎ、しもべとして主の招きにふさわしく歩むことが求められています。パウロは「一切高ぶることなく」、「柔和で、寛容の心を持ち」、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように」勧めます(2、3節)。
    イエス・キリストご自身が、このような地上の生涯を歩まれました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタ11章29節)。
    私たちは、老若男女を問わず、さまざまな境遇、社会的な立場から神によってキリストの下へと招かれました。私たちが真に一つになるためには「霊による一致」を求めなければいけません。かつて信者たちが心を合わせて祈っているときに、キリストにより約束されていた聖霊が降られて一つのキリストの体なる教会が生まれました。今も私たちが一つになり、キリストに似る者となるためには聖霊に導かれて祈りを共にすることが必要なのです。
    0 min
  • 恵みの賜物(エフェソの信徒への手紙 3章)
    神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。
    (エフェソの信徒への手紙3章7節)
    パウロは異邦人にキリストの福音を伝えるために「キリスト・イエスの囚人」、使徒とされました(1節)。彼は、かつては神を冒涜する者、キリスト者を迫害する者でしたが、神のご計画によって復活の主キリストと出会い、その生涯は180度変わりました。彼は、異邦人の救いのために「福音に仕える者」とされたことを「恵みを賜った」と言います。パウロの存在そのもの、残りの生涯のすべてが神の恵みの賜物となりました。
    それは、パウロだけのことではありません。キリストを信じて神の約束の中に置かれている人は、皆が祝福された恵みの賜物としての生涯を歩むことがゆるされています。そして、その生涯を歩む中で、その人だけに与えられた能力、置かれた状況、境遇、果たさなければならない使命と役割といった、そのような恵みの賜物をもいただくのです。
    さまざまな試練、苦難に遭い、不安と恐れ、虚脱感、無力感に陥ることもあるでしょう。しかし、いかなる時も「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」(12節)。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners