リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 新しい命に生きる(エフェソの信徒への手紙 2章)
    なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
    (エフェソの信徒への手紙2章10節)
    私たちは、かつては創造主なる神を知らずに生きていました。何もかもが自分の思い通りになると思い込み、欲望の赴くままに行動していました。自由を謳歌しているようで、実のところ「空中に勢力を持つ者」(2節)すなわちサタンの支配の下に置かれており、神の怒りを受けるべき罪の奴隷になっていました。その行き着く先は死と永遠の滅び。「罪が支払う報酬は死」です(ロマ6章23節)。
    しかし神は、御自分に敵対し、罪の中に死んでいた私たちを捨て置かれずに、御自分の御子イエス・キリストを呪いの十字架に付け、死者の中から復活させられたことによって、神との和解を得させられました。罪のために死んでいた私たちはキリストにあって古い自分に死に、新しい命、永遠の命に復活させられ天の王座に着かせていただけるのです。
    私たちが救われたのは、これからの人生を自らの楽しみ、栄光を求めて生きるためではありません。新しい命を与えられた私たちは、造り主なる神の目的に従い、地上において与えられた使命と役割の中で主に仕え、栄光をすべて神に帰して生きるのです。
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  • ただ神の恵みにより(エフェソの信徒への手紙 1章)
    わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
    (エフェソの信徒への手紙1章7節)
    私たちは、イエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受け、クリスチャンと呼ばれます。私たちの周囲にはクリスチャン以上に品行方正な人格者が大勢います。わたし自身、なぜ、自分のような者が信仰を与えられたのだろうかと自問自答した時期がありました。
    人間の救い、そこには、人間にははかり知ることのできない神の深いご計画があります。私たちはみな、罪の中に生まれ、神を知らずして育ち、自分の欲望のままに自分の栄光を求めて生きていました。それは、死と滅びに至る道でした。しかし「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(4節)。イエス・キリストは私たちのために呪われたものとなって、御自身の血潮を代価として罪の束縛から解放してくださいました。
    これは、私たちの努力や功績によるのではありません。私たちに対する神の一方的な愛と憐れみによるのです。だからこそ、約束の確かさを確信し、神の栄光をたたえることができるのです。
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  • 遠く離れた貧しい人にも福音を(ルカによる福音書 4章21-30節)
    「確かに言っておく。エリヤの時代に3年6か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」
    (ルカによる福音書4章25節~26節)
    主イエスは郷里のナザレに帰って来られました。主は安息日に会堂で、イザヤ書の御言葉を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃいました。「貧しい人に福音を告げ知らせる」救い主とはご自分のことであると、故郷の人びとに明らかにされたのです。
    その話を聞いた人びとは皆、主イエスをほめ、その恵み深い言葉に驚きました。しかし、主の近くにいたはずの彼らは主イエスを「ヨセフの子ではないか」と言い、神の子メシアと信じることはなかったのです。主はそのような人びとに、預言者が故郷では歓迎されないことを語ります。
    エリヤはシドン地方に遣わされましたが、そこは異邦の国で、エリヤが戦ったアハブ王の妻イゼベルの出身地でした。つまり、当時、もっとも救いには遠いと思われる場所にいたやもめのところに、エリヤは遣わされたのでした。
    主イエスは、そのように神から遠く離れた貧しい人にも福音を告げ知らせておられます。キリストに近い者とされた私たちは、この主の宣教の働きを喜んで受け入れたいと思うのです。
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  • 力を捨てて、神を知る(詩編 46編)
    「力を捨てよ、知れ
    わたしは神。
    国々にあがめられ、この地であがめられる。」
    万軍の主はわたしたちと共にいます。
    ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
    (詩編46編11節~12節)
    きょうの詩編は、危機的状況のただ中で、それを超えて働かれる神への信頼を歌います。天変地異の中にあっても、私たちの神は天地万物を創造された神。政治的な混乱と戦争の動乱の中にあっても、私たちの神は歴史を支配される神。私たちの避けどころや砦となって守っていてくださるインマヌエルなる神。そして、圧倒的な力で争いを止められる万軍の神。だから、この神を信頼する私たちには恐れはないと、信仰の確信が民を支えます。
    その民に、神は「力を捨てよ」と呼びかけます。自らの残っている力や武器で戦うことをやめ、静まって、完全に神の御業に身を委ねることを求められます。神への全面的な降伏、それは神への全面的な信頼の証なのです。
    時に神は、人間の営みを圧倒的な力で止められることがあります。自然災害や戦いのあと、人が自らの無力さに覆われ、荒廃した大地が人の営みの止んだ静けさに覆われているそのただ中で、人も自然も呼びかけられます。「知れ、わたしは神」である、と。この御声に聞き従う者には、どのような時も神の平和が与えられます。
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  • キリストの花嫁に授けられる愛の冠(詩編 45編)
    「娘よ、聞け。
    耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
    あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
    王はあなたの美しさを慕う。
    王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
    ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携え
    あなたが顔を向けるのを待っている。」
    (詩編45編11節~13節)
    きょうの詩編は、王と王妃の婚礼を美しい言葉で飾る歌です。前半は、王のことが描かれます。その姿は麗しく、語る言葉は優雅。人生は神の祝福に満ち、正義の戦いにおいて敵を制圧し、真実と公正をもって国を治め、神に忠実に従う。香り高い衣装に身を包み、華やかな宮殿に住まわれる御方、と。
    後半は、王妃となる花嫁が描かれます。彼女は艶やかに着飾り、お付きの者たちを従え、参列者たちの祝福の中を、王座に就く王のもとに導かれます。彼女は外国人でありながら、王妃となったのでした。その彼女に、「父の家を忘れ、ただ王に従いなさい、王はあなたを心から愛している」と、呼びかけられます。彼女の支えは、王が自分を愛してくれているということであり、王の愛を全身に受けてその御前にひれ伏し、王妃の冠を受けるのでした。
    この王の姿に栄光のキリストの姿を見、この花嫁に教会の姿を見るとき(黙19章6、7節)、私たちはキリストを信じる者とされた栄誉と注がれる愛を新鮮な思いで身に受けます。きょうも、あなたの頭にキリストが愛の冠を授けてくださいます。
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  • 備えられている主の贖いと慈しみ(詩編 44編)
    なぜ、御顔を隠しておられるのですか。
    我らが貧しく、虐げられていることを
    忘れてしまわれたのですか。
    我らの魂は塵に伏し
    腹は地についたままです。
    立ち上がって、我らをお助けください。
    我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。
    (詩編44編25節~27節)
    きょうの詩編は、痛々しい叫びの詩です。詩人は主なる神を信じる伝統の中に生まれました。父祖から、主がどのようにイスラエルを救われたのかを聞いて育ちました。自分たちの力や能力によらず、ただ主の御手がイスラエルに勝利をもたらしてきたことを誇りとしてきたのです。
    しかし、苦難が詩人らを襲います。敗戦、略奪、離散、奴隷とされ、嘲りの的となります。彼らは、必死に主に信頼を置き、忠実であろうとしますが、都は廃墟と化し、人びとは蹂躙され、死が眼前にあるのです。悲惨の極みの中で詩人は主に訴えます、「主よ、我らを贖い、あなたの慈しみを表してください」と。主を信じていてもなお苦しめられ、慈しみと憐れみが見えなくなる中で絞り出された信仰の叫び声です。
    苦難の中で主の慈しみを見失いそうになったときでも、主は救いを用意してくださっています。詩人は、自分たちを「屠るための羊」(23節)とたとえましたが、その身代わりに、「屠り場に引かれる羊」となってくださったのはイエス・キリストでした。十字架の姿を見るとき、解放と勝利は私たちと共にあるのです。
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  • 率直に救いを懇願する者の祈り(詩編 43編)
    神よ、あなたの裁きを望みます。
    わたしに代わって争ってください。
    あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者
    よこしまな者から救ってください。
    (詩編43編1節)
    きょうの詩編は、昨日の続きで、自らの罪のゆえに礼拝の交わりから絶たれ、罪と恥のうちにあった詩人ですが、その嘆きを余韻として残しつつも、率直に救いを懇願する祈りをささげます。ここで彼は神に正当な裁きを求めていますが、それは単に、自分は罪を犯していないのだと主張しているのではありません。彼は神に裁かれ罰を受けていることを知っています。しかし神は、罰を受け、悔い改める者を赦し、今度は彼の側に立って戦ってくださる。彼はそのことを信頼して、神の御前に進み出て願うのでした。
    人はさらに彼を貶めようとしますが、彼は神の光と真実に救いを求めます(3節)。世の闇を照らして何が真実であり偽りであるかを明らかにしてくれる方、神から遣わされ神のもとに導いてくれる方です。詩人はその方に自らを託し、再び自分を生かすあの楽しかった礼拝に戻る希望を抱くのでした。
    どのような時でも、私たちの神への信頼は失せることはありません。きょうも御言葉があなたの魂を励まします。神の光と真実であられる主イエス・キリストがあなたと共におられる、と。
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  • 嘆きの底に与えられる希望(詩編 42編)
    なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
    なぜ呻くのか。
    神を待ち望め。
    わたしはなお、告白しよう
    「御顔こそ、わたしの救い」と。
    わたしの神よ。
    (詩編42編12節)
    きょうの詩編は、魂の慟哭が聞こえてくるような嘆きの詩です。詩人はエルサレム神殿で奉仕する者の1人でした。しかし、何らかの理由で、「ヘルモン」(7節)というイスラエル北の果てまで連れてこられ、囚われの身になりました。その姿はかつての神殿奉仕者の輝きや誇りはなく、嘆きと嘲りにまみれています。人びとからは、その罪ゆえに神に見捨てられた者として扱われ、肉体的にも精神的にも傷ついた日々を送っています。彼自身がこれは神の怒りであると知り、神の恵みも見えなくなりそうでした。
    しかし、その嘆きの只中で彼は「枯れた谷に鹿が水を求めるように」神を渇望します(2節)。確かに今の状況は神の裁きであり、激流のように彼を襲いかねない(8節)。しかし、神は彼の救いの岩として共におられ、たとえ彼の内に希望がなくとも、彼の希望はいつも神にあって失われない。その信仰が、彼の魂に呼びかけます。何を沈んでいるのだ、何をぶつぶつ言っているのだ。神があなたを救ってくださるではないか、と。
    「御顔こそ、わたしの救い、わたしの神よ」。この告白がきょうも私を支えています。
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  • 弱さを知る者の幸い(詩編 41編)
    いかに幸いなことでしょう
    弱いものに思いやりのある人は。
    災いのふりかかるとき
    主はその人を逃れさせてくださいます。
    (詩編41編2節)
    きょうの詩編は、弱さを知る者の幸いを自らの体験をもって証しします。2節の「思いやりのある」は感情的な言葉ではなく知的な意味で、洞察する、熟知する、よく知ると訳すことができる言葉であり、詩人は病の中で自らの弱さを知ることとなります。病気で力を失い、自分では何もできなくなります。
    さらに、床に伏している彼を襲ったのは孤独でした。見舞い客の言葉はすべて心ない言葉に聞こえ、外に出れば彼を中傷し、仲間たちさえも「彼はもう終わりだ」と足蹴にしていると考え、心も体もぼろぼろになります。
    その彼を救ったのは、神の存在でした。彼は、ただ神にのみ依り頼み、自らを正当化して他者を呪うのではなく、罪の告白と共に「主よ、憐れんでください」と神の憐れみを祈り願います(5節)。神はわたしを愛し、赦しておられる、わたしに悪意をもつ者が勝利することはない。この信仰が、彼をどん底から引き上げ、神を賛美する者へと立ち直らせたのでした。
    弱さを知る者は幸いです。なぜなら、弱さのただ中で働く神の憐れみと救いを知っているからです。
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  • 聖書の言葉は実現した(ルカによる福音書 4章14-21節)
    「主の霊がわたしの上におられる。
    貧しい人に福音を告げ知らせるために、
    主がわたしに油を注がれたからである。」
    …そこでイエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
    (ルカによる福音書4章18節~21節)
    主イエスは故郷ナザレに戻って来られました。ある安息日にユダヤ人の会堂でささげられていた礼拝で、主イエスはイザヤ書の御言葉を朗読されました。その朗読された箇所に、「福音(良い知らせ)」という言葉が出てきます(イザヤ61章1節)。
    「福音」とは、王子などが誕生したときに町全体に告げ知らされるグッドニュースのことです。イザヤ書の場合、グッドニュースは「貧しい人、捕らわれている人、圧迫されている人」に与えられる解放の言葉です。苦しんでいる人が解き放たれて、自由が与えられるということです。
    主イエスはこの言葉を朗読した後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。グッドニュースを届ける人物は、まさにイザヤ書を朗読した主イエスご自身だったのです。主イエスは、罪の中でもがき苦しんでいる私たちに自由を与えるためにこの世に来てくださいました。長い間、読まれ続けてきたイザヤの言葉は実現したのです。
    神が人間をお救いになるご計画は、決して揺らぐことがありません。主イエスの宣言は、その証です。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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