リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 救いは罪の深さを超える(詩編 38編)
    主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。
    わたしの主よ、わたしの神よ
    御自身でわたしに答えてください。
    (詩編38編16節)
    「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください」(2節)。この悲痛な声を上げている詩人は、痛々しい病の中にありました。周囲の人間はそのような彼を遠ざけて辛く当たりました。詩人はその苦しみを、神からの責めと懲らしめとして受け止めています。
    痛みと孤独に追いやられたそのとき、彼は「今まで自分は神とどのように生きてきたか?」ということに目が開かれ、自分の罪深さに気づかされました。自分の罪を激しく責め立てる正義の主と出会ったのです。
    ところが詩人は、その正義の神が、自分の罪深さを超えて自分を心に留め、顧みてくださるという信頼を失いませんでした。この信頼は、「主はわたしの神である」、そして「自分は神の民である」という主との約束に支えられています。ですから彼は、自分の罪深さを認めつつ、「わたしの主よ、わたしの神よ」と主を呼び求め、「わたしはなお、あなたを待ち望みます」と、正義の主に希望を置くことができました。
    苦しみのとき、主はあなたの罪の深さを超えて、そこに救いを届けてくださいます。
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  • 主に信頼し、善を成す(詩編 37編)
    無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
    平和な人には未来がある。
    背く者はことごとく滅ぼされ
    主に逆らう者の未来は断たれる。
    (詩編37編37節~38節)
    「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな」(1節)。悪事によって世の成功を収めている人にいら立つことと、そのような生活をうらやましく思うことは、紙一重です。
    詩人は悪事にひかれることなく、善い歩みに留まるために、ふたつの真理を伝えています。ひとつは神に背く歩みに未来はないということ。もうひとつは、神に対し無垢であろうと努める道にこそ未来があるということです。
    「無垢」とは、神の御心に対し、正直にまっすぐであろうとする生き様のことです。「正直者が馬鹿を見る」などと言われることがありますが、神に対し無垢であろうとする者が馬鹿を見ることは決してありません。神は、正直にまっすぐに神に従おうとする人の「一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて」くださっています(23節)。
    この道は確かに祝福へと続いています。究極的には、それは天国の祝福ですが、詩人は、地上での日々に、神の救いと祝福を期待してよいと教えます。まっすぐに主に信頼し、主に喜ばれる1日を始めましょう。
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  • 神に栄光、地に平和(ルカによる福音書 2章8-20節)
    すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
    「いと高きところには栄光、神にあれ、
    地には平和、御心に適う人にあれ。」
    (ルカによる福音書2章13節~14節)
    最初のクリスマスの夜、天使たちによる賛美の歌声が夜空に響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。
    主イエスの誕生によって、神の栄光が現されました。「主の栄光」が照らしたのは、羊飼いたちでした(9節)。彼らは、職業柄、律法や礼拝を十分守ることができませんでした。しかし、その彼らの上に主のご臨在を示す光が射し込んだのです。そうして、貧しい者を憐れみ、救い出そうとされる神の栄光が現されました。
    主イエスは、地上に平和をもたらすためにお生まれになりました。この点で、主イエスが良い羊飼いであり、主イエスによって永遠の平和が確立されることを思い起こします。主イエスと共に生きるところに真の平和があります。
    その平和を享受する「御心に適う人」とは、立派な人ということではなく、羊飼いたちのように神からの一方的な恵みを受けた人びとのことです。羊飼いたちは主イエスと出会った後、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。私たちもこの賛美の輪に加わりましょう。
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  • 飼い葉桶の救い主(ルカによる福音書 2章1-14節)
    「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
    (ルカによる福音書2章11節~12節)
    ベツレヘムでお生まれになった主イエスは、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされました。その町のどの部屋にも、彼らの居場所がなかったからです(7節)。
    この救い主誕生の知らせは、最初に羊飼いたちに届けられました(8節)。彼らは羊から離れることができないため、律法に定められていた安息日を守ることがままならず、多くの人びとから見下されていました。人びとの間に居場所を見出せず野宿をしていた彼らのもとに、救い主誕生という大きな喜びの知らせが届けられたのです。
    天使は羊飼いたちに告げました。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」こそ、「あなたがたへのしるしである」と。
    主イエスが飼い葉桶に寝かされるという貧しい姿でお生まれになったのは、人びとの間に居場所を見出せないような貧しく、惨めな境遇に置かれた人びとの救い主であることの「しるし」でした。だからこそ、特別な人たちだけでなく、「民全体」が、そして私たちも、自分たちの救い主として、主イエスの誕生を喜ぶことができます。
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  • 神の言葉に不可能はない(使徒言行録 1章26-38節)
    「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
    (使徒言行録1章37節~38節)
    マリアはナザレという田舎町に住み、ダビデ家のヨセフと婚約しているおとめでした。そのマリアの日常に突然、神の言葉が入り込んできました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。
    なぜマリアだったのでしょうか。神は遠い昔から、ダビデの子孫から永遠の王が出ることを告げ(サム下7章12、13節)、また「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ7章14節)と語っておられました。その御言葉を実現するために、神は、ヨセフと婚約しているおとめマリアを選ばれました。
    これは、マリアにとっては突然のことであり、戸惑いました。しかし、「神にできないことは何一つない」と告げられて、最終的には「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と自らを主に献げました。不可能に思えるような御言葉をも神はすべて実現なさる、とマリアは信じました。
    私たちも、神の恵みの御言葉の実現を信じ、感謝すると共に、自らを「主の僕」「主のはしため」として献げてまいりましょう。
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  • 悔い改めて神に立ち帰る(民数記 11-12章)
    民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも10ホメルは集めた。…肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。
    (民数記11章32節~34節)
    荒れ野の旅路は、たいへん厳しいものでした。イスラエルの民は出発してさっそく不満の声を上げてしまいました。1回目の理由は不明ですが、2回目は食べ物についての泣き言でした(4節以下)。
    マナによって、基本的な食べ物は満たされています。うずらが与えられることもありました(出16章13節)。けれども、肉や魚を求める声に誘惑されて、与えられているものに満足することを忘れてしまったのです。
    主なる神は再びうずらを与えられましたが、それは貪欲な者に対しては主の裁きを招くものでした。終日終夜集めるような行為は、日毎に糧を与えて養ってくださる主を信頼する行為ではありません。そのため、疫病で打たれることになりました。
    貪欲は偶像礼拝の罪だと指摘されています(コロ3章5節)。自分の思いを満たすことを求めて生きるなら、私たちも神の御前に罪を犯すことになります。この出来事は私たちを戒めています(1コリ10章6節)。
    悔い改めて神に立ち帰る者こそ、真実に主イエス・キリストの到来を喜び祝う者とされるのです。
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  • シナイ出発(民数記 10章)
    第2年の第2の月の20日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった。
    (民数記10章11節~12節)
    イスラエルの民は、シナイの荒れ野から旅立つことへと導かれました。2月20日は人口調査が命じられた20日後です。主の御言葉に聞き従い、人口調査が迅速に行われたことが分かります。「雲はパランの荒れ野にとどまった」とは、最初の目的地がパランの荒れ野だったからでしょう(12章16節)。
    出発に先立ち、銀のラッパを2本作ることが命じられました。このラッパは、民全体や部族の長たちの集合の合図、また、宿営地からの出発の合図として吹かれました。記念の祝日や献げ物をささげる際にも吹かれて、ラッパの合図は神の臨在のしるしです。イスラエルの民は主に導かれ、ラッパの合図に従って旅立ちました。
    預言者ヨエルは、終わりの日にシオンで角笛が吹かれると言いました(ヨエ2章1節)。使徒パウロは、主が来られる日に神のラッパが鳴り響くと言いました(1テサ4章16節)。ラッパの合図に従って出発しなければなりません。地上の信仰生活は、その旅立ちへの備えだと言えるでしょう。私たちは、目を覚まし、身を慎んで、主の再臨に備えて歩みます。
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  • 月遅れの過越祭(民数記 9章)
    あなたたち、もしくはあなたたちの子孫のうちで、死体に触れて汚れている者、あるいは遠く旅に出ている者も、主の過越祭を祝うことができる。第2の月の14日の夕暮れにそれを祝い、酵母を入れないパンと苦菜を添えてそのいけにえを食べなさい。
    (民数記9章10節~11節)
    出エジプトに際して、主の過越を記念して過越祭を祝うことが命じられました(出12章14~20節等)。幕屋が建設され、第2年の1月14日、最初の過越祭が「主がモーセに命じたとおり」に祝われました(5節)。
    この箇所の主題は、その過越祭に参加できなかった者たちの取り扱いです。死体に触れるなどによってけがれた者は、過越祭に加わることができません。旅に出ていた者たちも参加できません。その場合、2月の14日に月遅れの過越祭を行い、主の過越を祝うこととされました。
    「過越祭を祝わない者があれば、その者は自分の民から断たれる」とは、主の招きの言葉です(13節)。寄留する者も過越祭に加わるよう招かれます(14節)。神の御業を思い起こして礼拝することが、すべての人にとって無くてはならないことだからです。神の民は、神の御業によって導かれる民なのです。
    今の私たちも、神の救いの御業を思い起こして主を礼拝することへと招かれています。キリストの十字架と復活の御業を思い起こして礼拝することに、私たちの信仰生活の土台があります。
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  • 幕屋と祭具の聖別(民数記 7-8章)
    モーセは幕屋を建て終わった日に、幕屋とそのすべての祭具、祭壇とそのすべての祭具に油を注いで聖別した。彼がそれらに油を注いで聖別したとき、イスラエルの指導者、すなわち、家系の長は進み出た。
    (民数記7章1節~2節)
    7~9章は、時間的には1~6章に先行します。出エジプトの第2年1月の出来事です。幕屋と祭具の油注ぎと聖別、各部族の長による献げ物、レビ人の清めなどが書き留められています。
    各部族の長が祭具を運搬するための雄牛と牛車、また、祭壇奉献のための献げ物をささげました。銀の皿、銀の鉢、雄牛、雄羊等、奉献の献げ物の詳細な一覧が示されます。部族の大きさに関わらず等しくささげるところに、主なる神に仕える特権と責任が等しいことがあらわれています。「以下同文」とされず繰り返されるのは、主が私たちの献げ物と献身を一つひとつ大切に心に留めてくださるからでしょう。
    聖別と奉献の後、聖所の燭台に火がともされました(8章3、4節)。この燭台の火は、単なる明かりではなく、モーセが山で見た主の栄光を伝える光です(出24章17節)。すべて主がモーセに命じられた通りに行われ、幕屋は主の栄光が輝くところとされました。
    まことの光、主イエス・キリストが来られ、今も礼拝において、神の御言葉によって主の栄光が輝かされます。
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  • 罪が取り除かれる(民数記 5-6章)
    主はモーセに仰せになった。
    イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。男女とも、必ず宿営から出しなさい。わたしがそのただ中に住んでいる宿営を汚してはならない。
    (民数記5章1節~3節)
    主なる神は、具体的に目に見える仕方でご自分の民を教育されました。幕屋と宿営の配置は神の民の中心に神がおられることを教えます。「けがれ」ということも、そのような教育方法の一つだったのかもしれません。
    感染症の可能性がある者を宿営から出すことが命じられました。衛生観念が未発達な中で、主はご自身の民を病気から守ろうとされたのでしょう。そしてそれ以上に、けがれは罪を指し示していて、主が罪を嫌うお方であることが教えられています。主がただ中に住まわれるゆえ、その民から罪(けがれ)は取り除かれるべきなのです。
    これは、神のものとされた私たちが罪を取り除かれて生かされることを意味します。律法は、けがれからの回復の道筋をていねいに記しています(レビ13章以下、民19章等)。それは、罪が取り除かれることにこそ、神の救いが現れるからです。
    今や、真実に罪が取り除かれるために十字架のキリストが与えられました。なお罪の残りかすに苦しむ私たちですが、キリストがただ中に住まわれるゆえに、神の聖なる民であるとは、真理です。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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