リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 主よ、御手にわたしの霊をゆだねます(詩編 31編)
    まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
    (詩編31編6節)
    十字架上で主イエスはこの言葉を祈られました。「ひそかな声が周囲に聞こえ、脅かす者が取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいます」(14節)。この31編には、主イエスの十字架に至るご生涯がはっきりと記されています。
    次の祈りもまた主イエスは真実に祈られたことでしょう。「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します」(15節)。「恐怖に襲われて、わたしは言いました、『御目の前から絶たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声を、あなたは聞いてくださいました」(23節)と。そうです、確かに主イエスは「御目の前から絶たれた」と思い、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでおられました。
    主イエスは苦しみの中でこのように祈る姿を十字架の上で示してくださり、祈りの道を私たちに開いてくださいました。神は確かに「わたしの魂の悩みを知ってくださいました」(8節)。私たちは主に倣って、主と共にこの祈りを祈ることができるのです。
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  • あなたは癒してくださった(詩編 30編)
    わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを
    あなたは癒してくださいました。
    主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ
    墓穴に下ることを免れさせ
    わたしに命を得させてくださいました。
    (詩編30編3節~4節)
    「叫び求める」と訳された言葉は、ホロコーストを描いたランズマンの映画『ショア』という題名と同じ語幹の言葉です。「大いなる叫び」「大破局」という意味で、あのユダヤ人大迫害の凄まじさを想って読むならば、この言葉の重みを実感できるのではないかと思います。絶望的な現実の中で、神に助けを求める大いなる叫びのことです。
    私たちは神に助けを求めるとき、知らず知らずのうちに、自分は正しくて、周りの状況が悪いのですから変えてください、と祈っているのではないでしょうか。神はこういうとき、周りの状況をすぐに変えてくださることはありません。
    神はむしろこの状況の中で、私たちの魂の状態を正しいあり方へと導いてくださるのです。「あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ…てくださいました」。このことを「わたしを癒してくださった」と言っています。聖書では「いやす」という言葉は「赦す」「救う」という意味です。つらい状況にあるとき、それに押しつぶされないように、私たちの魂が癒されることを祈り求めたいと思います。
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  • 主の御声は響く(詩編 29編)
    主の御声は水の上に響く。
    栄光の神の雷鳴はとどろく。
    主は大水の上にいます。
    主の御声は力をもって響き
    主の御声は輝きをもって響く。
    (詩編29編3節~4節)
    この詩編を声に出して読んでみてください。これほど「主の御声」が響いている詩編はほかにありません。主の言葉を目で追うばかりの私たちは、主の御声の本当の力を知りません。きょう、真実に主の御声の力ある響きをこの身に感じたいと思います。
    「主の御声は水の上に」。神の「生きよ」という私たちへの強い想いを感じます。「水」「大水」とは「死」を暗示しています。主イエスが湖の上を歩かれる物語がありますが、あれはこの御言葉の成就を物語っているのです。主の御声・主の言葉そのものであるお方・十字架の死からよみがえって、死に打ち勝ち、死を滅ぼしてくださったお方が水の上に…。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マコ4章41節)。
    「主の御声は力をもって」。「力」という言葉には生み出す力・押し出す力の意味がこもっています。無からの創造、「光あれ」という言葉の力を思い出します。このような力ある主の御声が響いている中を生きているのに、これを感じないでいるとは!
    主の御声・主の愛に駆り立てられてきょうの日を生きたいものです。
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  • わたしの岩よ、沈黙しないでください(詩編 28編)
    主よ、あなたを呼び求めます。
    わたしの岩よ
    わたしに対して沈黙しないでください。
    …
    主は油注がれた者の力、その砦、救い。
    お救いください、あなたの民を。
    祝福してください、あなたの嗣業の民を。
    とこしえに彼らを導き養ってください。
    (詩編28編1節、8節、9節)
    神に「わたしの岩」と呼びかける詩編はいくつかあります。揺らぐことのない救いの神のイメージでとらえられることが多いと思いますが、ここでは岩に「沈黙しないでください」と願っていることに注目したいと思います。
    ここで思い出されるのは、メリバの水の出来事です(出17章、民20章)。渇きを覚えた主の民は、「果たして、主は我々の間におられるのか」と言って、水を与えるようモーセに迫ったのでした。民数記ではモーセは2度岩を打ったと書いてあります(20章11節)。モーセは1度目に岩を打ったときの沈黙に耐えられなかったのかもしれません。神は「あなたはわたしを信じなかった」とおっしゃって咎め、モーセにイスラエルの民を約束の地に導き入れることをおゆるしになりませんでした。
    28編の最後で、この詩編の歌い手ダビデ(油注がれた者)は、今度こそとばかりに「とこしえに彼ら(あなたの嗣業の民)を導き養ってください」と祈っています。この言葉の背景には、「どんなに沈黙が長く思えても、あなたを信じますから」という思いがあるのです。
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  • 主のうるわしきを見、尋ねきわめたい(詩編 27編)
    ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
    命のある限り、主の家に宿り
    主を仰ぎ望んで喜びを得
    その宮で朝を迎えることを。
    (詩編27編4節)
    「主を仰ぎ望んで喜びを得、…朝を迎える」の部分は幅広い解釈の仕方があり、口語訳は「主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」と訳しました。「朝を迎える」という動詞を、朝の光が射すような明快さに至るまで「尋ね求めたい、理解しようとして真剣に考えたい」という意味に深くとらえたのです。それが命のある限り主の家に住みたいと願う目的です。
    「喜び」「うるわしき」と訳された言葉は、ルツの姑ナオミと同じ綴りの言葉であるのは興味深いことです。「なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」(ルツ1章21節)。
    詩人とナオミの思いは同じだったかもしれません。詩人も災いにさいなまれていました。神に見捨てないでくださいと祈っています。そういう状況の中でのたったひとつの願い。主のもとで主の平安を味わい、災いばかりの自分の人生にどのような意味があるのか、主の御心を深く知りたかったのです。暗闇に朝陽が射し込むごとく、希望の光を見出したいと願って。
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  • 目を覚まして主の到来を待つ(マルコによる福音書 13章24-37節)
    だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
    (マルコによる福音書13章35節)
    本日からアドベント(待降節)が始まります。「アドベント」とは、「到来」を意味するラテン語に由来しています。アドベントは、キリストの第一の到来を祝うクリスマスを待ち望むと同時に、キリストの第二の到来である「再臨」を待ち望む大切な期間です。
    クリスマスの日付は決まっていますが、再臨の日付を私たちは知りません。ただ父なる神のみがご存じです。キリストが天に昇られてから2千年ほど経ちました。キリストの再臨はまだ先のことだろうと、私たちは油断してしまいがちかもしれません。しかし、その時がいつかわからないからこそ、主イエスはおっしゃいます、「目を覚ましていなさい」と。
    それは、何か特別なことをすることではありません。主の僕として、主から与えられた仕事を責任をもって果たしていくことです。私たちは、主がいつ来られてもよいように、主の御前に忠実に日々を生きていきます。
    「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(37節)。このように、主は「すべての人」に語っておられます。
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  • 真相は主こそご存じ(詩編 26編)
    主よ、わたしを調べ、試み
    はらわたと心を火をもって試してください。
    あなたの慈しみはわたしの目の前にあり
    あなたのまことに従って歩き続けています。
    (詩編26編2節~3節)
    過去の出来事について、人間が完全に誤りなく知ることはできません。記録がなくなったり、証言にうそが混じっていれば、人間が真相を知ることは困難になり、本当は無実の人を有罪とすることも起こってしまいます。
    この詩編では、罪を犯していないのに罪を犯した疑いをかけられた人が、主の裁きを求めています。主は世界全体を治める無限の霊ですから、主の目の届かないところはひとつもありません。人の目の届かないところ、人に記録されない場面の真相もご存じであり、適切に判断してくださるに違いない、それが詩人の心の支えとなっています。
    罪なきキリストも、裁判で罪ありとされ、十字架につけられました。真相を知る天の御父は、キリストご自身には罪がなかったことを、キリストの復活によって明らかにされました。
    私たちもいわれなき中傷を受けて苦しむことがあります。しかし、そのただ中で、同様の苦しみを味わわれたキリストが共にいて、私たちを支え、乗り越えさせてくださいます。真相は主こそご存じなのです。ここに私たちの慰めがあります。
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  • 罪人に道を示す主(詩編 25編)
    詩人は主の道を教え示すよう、主に切実に祈り願っています。これまでの人生において、主の御心に背いて罪を犯してしまったので、そこから抜け出したいと望むからです。
    詩人はこの祈りより前にも主に祈り、既に幾つかの確信を得ています。「あなたはわたしを救ってくださる神」(5節)、「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示し」、「主の道はすべて、慈しみとまこと」などです。だからこそ詩人は「絶えることなくあなたに望みをお」くのです(5節)。主との祈りの交わりを重ねるからこそ、自分の心が罪深く、貧しいことを見出し、それでも見捨てず道を示す主の憐れみと慈しみをも味わい、主に依り頼む心を深くするのです。
    主なる神は「道であり、真理であり、命である」(ヨハ14章6節)キリストを私たちにお与えになりました。御言葉と祈りとにより、日々キリストとの交わりに生きるとき、私たちにも慈しみとまことに満ちた主の道が示され、少しずつでも主の命の道を歩めるように導かれます。
    (詩編25編8節~10節)
    詩人は主の道を教え示すよう、主に切実に祈り願っています。これまでの人生において、主の御心に背いて罪を犯してしまったので、そこから抜け出したいと望むからです。
    詩人はこの祈りより前にも主に祈り、既に幾つかの確信を得ています。「あなたはわたしを救ってくださる神」(5節)、「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示し」、「主の道はすべて、慈しみとまこと」などです。だからこそ詩人は「絶えることなくあなたに望みをお」くのです(5節)。主との祈りの交わりを重ねるからこそ、自分の心が罪深く、貧しいことを見出し、それでも見捨てず道を示す主の憐れみと慈しみをも味わい、主に依り頼む心を深くするのです。
    主なる神は「道であり、真理であり、命である」(ヨハ14章6節)キリストを私たちにお与えになりました。御言葉と祈りとにより、日々キリストとの交わりに生きるとき、私たちにも慈しみとまことに満ちた主の道が示され、少しずつでも主の命の道を歩めるように導かれます。
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  • 栄光に輝く王、主(詩編 24編)
    どのような人が、主の山に上り
    聖所に立つことができるのか。
    …
    それは主を求める人
    ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。
    (詩編24編3節~6節)
    主なる神は偉大なお方です。水の上に地を据え、万物を創造され、主のものとされたからです。ですから人が主を礼拝する聖所に立ち、主からの祝福と救いの恵みをいただくには、潔白な手と清い心をもち、むなしいものに魂を奪われず、欺くものによって誓わない、といった条件が本来必要でした。しかし罪に堕落した人間はそれとは正反対の者になってしまいました。そして主を、世界を治める王と認めて迎え入れようともしなくなっていました。
    そのような世界にキリストが遣わされました。キリストは罪を一つも犯さず、神が求められるすべての条件を満たされました。さらに十字架で人の罪を砕き、主を求める心を人の内に作り出されました。こうして、堕落した人間を聖所に立って祝福を受ける資格のある者に変えてくださいました。
    キリストは復活して天に昇り、父なる神の右の座に着く王となられました。そしてこの世の終わりの日に栄光に輝いてやって来られます。私たちは頭を上げ、身を起こして、主イエス・キリストを栄光に輝く王と認め迎え入れるのです。
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  • 主が羊飼いとして共に(詩編 23編)
    主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
    …
    わたしを苦しめる者を前にしても
    あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
    (詩編23編1節~5節)
    羊飼いは弱い羊をいたわり導く心優しい存在だとイメージされる方が多いでしょう。ただ、羊がさまよい出たなら連れ戻し、狼などが羊を襲おうとしたときには撃退して羊を守る強さもここでは求められています。そこから古代中東では王を「民の羊飼い」とも呼び、羊を守るように民を守ることが期待されたと言われます。
    けれども、世の王たちは与えられた権力を私利私欲に用いてしまい、なかなか民の期待に応えることができませんでした。詩編23編は主なる神こそが「民の羊飼い」と呼ばれるにふさわしい王であると告白します。
    キリストは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われ(ヨハ10章11節)、その言葉どおり十字架で自らの命を捨て、罪を打ち破られました。
    そして、人を苦しめる者が未だにいる地上でキリストは聖餐の食卓を開き、欠けることのないよう満たしてくださいます。この「羊の大牧者、わたしたちの主イエス」(ヘブ13章20節)の家に生涯とどまるところに、幸いがあります。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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