リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 主こそわたしの神(詩編 22編)
    主は貧しい人の苦しみを
    決して侮らず、さげすまれません。
    御顔を隠すことなく
    助けを求める叫びを聞いてくださいます。
    (詩編22編25節)
    「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(2節)。詩人は周りの誰からも見捨てられ、罵声を浴び、絶望のどん底に落とされました。詩人は「わたしの神」に訴えるも応答がありません。それでも神が先祖を救い(5、6節)、自分を生まれる前から育んでくださったことを思い起こし(11節)、信頼を失わず、呼びかけ続けます。13節以下で詩人の苦難は極限に達し、「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください」と叫び求めます(20節以下)。
    そこから口調が変わり、神賛美が始まります。主が貧しい人の苦しみを決して侮らず、助けを求める叫びを聞いてくださる神であることを確信したからです。
    新約聖書はこの詩編を十字架上のキリストに重ねました。そして世の人びとと同等、いやそれ以上の苦難を味わい乗り越えたキリストこそ最も適切にわたしを慰め、苦難から助け出す救い主であると示します。
    キリスト者には慰め主である聖霊が注がれ、どのようなときも主を「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されるのです。
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  • 主なる神に依り頼む王(詩編 21編)
    王は主に依り頼む。
    いと高き神の慈しみに支えられ
    決して揺らぐことがない。
    あなたの御手は敵のすべてに及び
    右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。
    (詩編21編8節~9節)
    この世には、多くの王や支配者が登場してきました。しかし、この詩編が記すような王が実際にいたでしょうか。ダビデ、ソロモンなどは、一見すると当てはまるように思います。しかし、絶えず主の力に依り頼み、揺らぐことがなかった、とは言えません。王は敵から民を守るための力を必要としますが、この世の王は自らの手に力を握ろうとします。そして、時にその力を私利私欲のために乱用して、墓穴を掘ってしまうこともあったのです。
    この詩編は、神がダビデに永遠の王国を約束されたことに基づいています(サムエル下7章)。キリスト教会は、この王国がダビデの子キリストによって実現されたと理解します。キリストは自らの力を誇示することなく、御父に依り頼み、十字架の死にまで従われました。その十字架において、キリストは人の敵である罪を砕いて勝利されました。そして復活後、天に昇り、永遠の王として父なる神の右の座に着かれました。
    ある教会暦は、昇天日にこの詩編を読むよう、勧めています。私たちは、私たちの思いを神の右におられる勝利のキリストに向けます。
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  • 目を覚ましていなさい(マタイによる福音書 25章1-13節)
    「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
    (マタイによる福音書25章13節)
    この箇所は、天の御国についてのたとえ(1節)であり、終末についてのたとえでもあります。
    このたとえは、賢いおとめたちのように(2節)、油を用意して、花婿を待ち、花婿が来られたら、共に婚宴の席に入ることを教えています。キリスト者が再臨の主イエスを待ち望むべきこと、再臨の主イエスに招かれて、天の御国での永遠の安らぎに参加することを意味します。
    ここには見過ごすことのできないことがあります。それは愚かなおとめたちのことです。彼女たちは十分な油を準備せず、花婿を待ちましたが、花婿が来た時には火が消えそうで、賢いおとめたちに油を分けてほしいと言いました。けれども、断わられてしまい、油を買うためにそこから離れてしまいます。もし、愚かな者たちが油を買いに行かず、消えた火のままで花婿を迎えたら、どうなったのでしょうか。
    私たちが知っている花婿である主イエスは愛の神であり、慈悲があふれるお方です。その愛の神に応えるために、油を切らすことがないよう、私たちはよい備えをしたいものです。
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  • 愛する兄弟として(フィレモンへの手紙 )
    恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。
    (フィレモンへの手紙15章16節)
    オネシモはフィレモンのもとから逃亡した奴隷でした。当時の法律によれば、奴隷は人間扱いされておらず、主人の所有物でした。主人は逃亡した奴隷を殺しても、罪に問われることはなかったのです。
    そのような状況において、パウロは、自分のもとでイエス・キリストを信じたオネシモに、手紙を持たせてフィレモンのもとへと返しました。それは、フィレモンが、オネシモを奴隷以上のもの、主に結ばれた愛する兄弟として受け入れてくれることを信じていたからです。
    自分のもとから逃亡した奴隷であるオネシモを、愛する兄弟として受け入れることは、主イエス・キリストの愛をいただかなくてはできないことです。それゆえ、パウロは、主に結ばれた者としての愛に訴えます。主に愛されている者として、主の愛をもって、オネシモを愛する兄弟として受け入れてほしいと記すのです。
    あらゆる違いを乗り越える教会の交わりは、主イエス・キリストの愛に基づいて成り立っています。主に愛されている者として、愛をもって互いを受け入れ合いましょう。
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  • 心に記された新しい契約(エレミヤ書 31章)
    しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
    (エレミヤ書31章33節)
    イエス・キリストまでの時代を旧約時代と呼び、それ以降の時代を新約時代と呼びならわしています。キリスト者にとって、その区分は当然のように受け入れられています。その場合の旧約の「約」、新約の「約」とは契約の「約」から取られています。
    旧約聖書の中で最も有名な契約は、エジプトを脱出したイスラエル民族が、シナイ山でモーセを通して神と結んだ契約です。イスラエル民族にとっては、この契約こそ帰っていくべき原点でした。しかし、いつもそこから逸脱してしまうのが、イスラエル民族の歩みでした。
    エレミヤは新しい契約について語っています。新しいとは言っても、今までの契約と共通した部分もあります。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ということに関しては、一貫して変わりません。
    新しい契約の新しさは、神の御心である律法が、石の板にではなく、人の心に書き記されることです。それがいつどのように実現されるのかエレミヤは語りません。しかし、私たちは確信しています。イエス・キリストによって新しい契約が始まった、と。
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  • 救いの希望(エレミヤ書 30章)
    ひとりの指導者が彼らの間から
    治める者が彼らの中から出る。
    わたしが彼を近づけるので
    彼はわたしのもとに来る。
    彼のほか、誰が命をかけて
    わたしに近づくであろうか、と主は言われる。
    (エレミヤ書30章21節)
    エレミヤ書30章には、裁きと救いが交互に語られています。裁きの部分だけを拾い読みすれば、絶望するほかありません。そこには罪に対する神の激しい怒りと、罪が生み出す悲惨な結末が語られています。
    しかし、神が裁きを実行さえしなければ、罪の世界は安泰なのでしょうか。決してそうではありません。罪の世界は必ず破綻へと向かいます。罪の世界が生み出すこの悲惨さを、しっかりと認めることから、救いへの道が開かれます。罪ある自分に失望する人だけが、心を神に向けることができます。
    エレミヤ書30章は神の裁きの恐ろしさを語りますが、それ以上に、神がもたらす救いの恵みを語っています。
    神は真の指導者の出現を約束します。その指導者はイスラエル民族から出ること、しかも、その者は命を懸けて神のもとに近づくことを語っています。まさに、イエス・キリストを思い起こさせる言葉です。神は1人の救い主を通して、救いの世界を実現しようとなさっています。罪の世界を終わらせ、救いをもたらす神の熱情にこそ、私たちの希望はかかっています。
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  • 将来と希望を与える神のご計画(エレミヤ書 29章)
    わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
    (エレミヤ書29章11節)
    地方伝道に遣わされていた先輩牧師からこんな話を聞いたことがあります。その牧師が庭に果実の生る木を植えたとき、初めて地元の人から、「先生、ここで暮らすつもりになったのですね」と言われたそうです。
    バビロンに連れていかれた捕囚の民に書き送ったエレミヤの手紙には、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい」とあります(5節)。それは、長期間そこで暮らすことを意味しています。実際、捕囚の民に神が定めた期間は70年の年月でした。すぐにでも祖国に戻れると期待していた人々にとっては不本意な内容だったでしょう。それにもかかわらず、エレミヤは主の言葉をはばかることなく書き送ります。かの地で結婚して、子どもを産み育て、さらにその子供たちにも、かの地で結婚するようにと命じます。これでは、もう祖国に戻れない覚悟が求められているかのようです。
    しかし、エレミヤは主がお与えになる希望を語ります。これは決して災いの計画ではなく、平和の計画であると。約束の年月の後、心を尽くして主を求める者は、主に出会うことができるからです。
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  • まことの安心は主から来る(エレミヤ書 28章)
    「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。」
    (エレミヤ書28章15節)
    エレミヤの語る預言に真っ向から対立する預言者が現れます。ハナンヤはエレミヤが語るのと真逆のことを語ってみせます。軛を負うエレミヤに対して、それを打ち砕いて、民の解放を約束します。
    どちらの言うことが本当なのか、この時代に私たちが生きていたとして、正しい判断を下すことができたでしょうか。エレミヤの預言者活動にずっと心を留めてきた人には、どちらが神から遣わされた真の預言者であるか、判断できたかもしれません。しかし、ほとんどの人には判断できかねたでしょう。
    エレミヤは言います。「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」(9節)。しかし、結果が出るまで本物かどうか分からないというのでは、従いようがありません。ついにエレミヤはハナンヤの言葉の本質を言い当てます。「お前はこの民を安心させようとしている」。それは、神なしの偽りの安心でした。
    神の言葉を取り次ぐことがなければ、本当に民を安心させることはできません。神の言葉の中にこそ、確かな安心の土台があるからです。
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  • 神の御手に身を委ねる(エレミヤ書 27章)
    わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。今やわたしは、これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。
    (エレミヤ書27章5節~6節)
    エレミヤは自分で自分の首に軛をはめて語ります。このようにバビロニア帝国のネブカドネツァル王に首を差し出して仕えよ、と。エレミヤは世界情勢を見渡して、そうすることがユダ王国の国益にかなうと分析したのではありません。また、エレミヤは戦いを好まない平和主義者だったのでもありません。これが主の命じる言葉だったからです。
    エレミヤが語ることは、形としてはバビロニア帝国への隷属です。しかし、それを命じておられるのは主なる神なのです。ですから、神への服従こそ、神がエレミヤを通して求めておられることです。
    ここに記されていることは、特殊な歴史の中で起こったことですから、そのまま現代に適用することはできません。しかし、信仰者として、ここから学ぶとするなら、このことを学ぶことができます。それは、不利益と見えることの中にも神の愛に満ちた計らいを信じ、万事を益としてくださる神の摂理に身を委ねる姿勢です。たとえそれが、自分が蒔いた種を刈り取る結果であったとしても、悔いて従う魂を、神は決して軽んじられることはありません。
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  • 大いに喜びなさい(マタイによる福音書 5章1-12節)
    「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
    (マタイによる福音書5章12節)
    主イエスの説教を聞いている群れは、おもにガリラヤ地域に居住しており、ユダヤ社会の主流とはへだたりのある人びとでした。彼らは、単にユダヤ人として律法に親しんでいる人びとでした。
    そのような彼らが、ガリラヤ湖が見える丘で主イエスの説教に耳を傾けています。主イエスは、公生涯の開始と共に、説教を語り始められました。それは、彼らには簡単には理解できないような説教でした。すなわち、この箇所は真のキリスト者としての生き方に関する話であり、3節から始まる報いを受けられる条件を見ると、キリスト者としても、その実現は難しいと感じられるものなのです。
    では、なぜ主イエスはこのような説教をされたのでしょうか。それは、キリスト者として生きていくことは決して簡単ではないこと、キリスト者という理由だけで世からの迫害を受けるようになり、その迫害が耐えるに容易ではないということを教えられるためです。
    そして、その上で、天の御国では受けるべき大きな祝福が備えられていることこそを、主イエスは教えられたかったのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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