リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • わたしの愛する息子を送る(ルカによる福音書 20章)
    「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。」
    (ルカによる福音書20章14節~15節)
    ヘブライ人への手紙1章1、2節に次のようにあります。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。
    ルカによる福音書20章にある「ぶどう園と農夫のたとえ」は、まさに冒頭の聖句をたとえたものと言ってよいでしょう。神は多くの預言者を遣わされ、人びとに悔い改めを求めました。けれども、それは「袋だたきにし、侮辱して」(11節)の繰り返しでした。にもかかわらず、主人の思いは変わることなく、「わたしの愛する息子」(13節)を送るほどに農夫たちを愛し抜かれました。しかし、「わたしの愛する息子」は殺されてしまいました。
    それは、まさに十字架にかけられた御子イエス・キリストです。「そんなことがあってはなりません」(16節)と言われることが起こるほど、人の罪は深いものなのです。その解決は、「わたしの愛する息子」イエス・キリストの十字架にしかありません。その十字架によって私たちの罪が赦されました。ここに愛があります。
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  • 主の名によって来られる方(ルカによる福音書 19章)
    「主の名によって来られる方、王に、
    祝福があるように。
    天には平和、
    いと高きところには栄光。」
    (ルカによる福音書19章38節)
    受難週に入る日曜日を「棕櫚の主日」と呼びます。その日の出来事が、19章28節以下の主イエスのエルサレム入城です。この当時、エルサレムは世界の覇者ローマ帝国の支配の下にありました。それだけに、住民たちはこの状態から解放してくれる王を期待していました。この時、大勢の群集は、その王を主イエスに期待しました。それがこの光景です。
    主イエスは、わざわざ子ろばを連れてこさせ、それにお乗りになって入城されました。王であるならば、馬に乗って来るはずです。それにもかかわらず、あえて子ろばに乗られたのは、ゼカリヤ書9章9節の預言の成就のためでした。
    ろばに乗って来られる王は、「高ぶることなく」来ると言われています。聖書において、ろばは貧しさとへりくだりを表す動物です。それに乗って来られるお方こそ、ご自分の命をささげて仕える主イエスです。このお方は、十字架の低さにまでへりくだられました。まさに預言の言葉が指し示す「主の名によって来られる方」の姿がそこにあります。このへりくだりにまことの王の姿を見出します。
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  • 受難の予告(ルカによる福音書 18章)
    「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は3日目に復活する。」12人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
    (ルカによる福音書18章32節~34節)
    主イエスが自分の身の上に起こる苦難について語られたのは、ルカによる福音書で、これが3度目です。このとき、主イエスは、預言者たちが人の子について書いたことがご自分において成就することを明らかにされました。しかし、弟子たちには主イエスの言われたことが何も理解できませんでした。
    いったいこれはどうしたことなのでしょうか。鍵となるのは、彼らにはこの言葉の意味が「隠されて」いたということです。この隠されていたことがあらわになるのは、まだ先のことです。それは、復活の主イエスが現れて、聖書全体を説明し、弟子たちの目が開かれ、心が開かれる時です(ルカ24章)。さらに、かつての主イエスの言葉を思い起こさせ、真理を悟らせる聖霊が約束どおりに降臨された時、弟子たちは力を受けて、十字架と復活の証人とされました(使2章)。
    主イエスが十字架と復活によって明らかにしてくださった福音の言葉をいただいて、私たちも、その証人の1人とされています。私たちも復活の主イエスと出会った者として、この方に生かされる命の言葉をいただいています。
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  • 立ち上がって、行きなさい(ルカによる福音書 17章)
    そこで、イエスは言われた。「…この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
    (ルカによる福音書17章17節~19節)
    主イエスが重い皮膚病の10人の人をいやされた話は、14節で終わってもよかったのかもしれません。けれども、それで終わりませんでした。その中の1人が主イエスのところに戻って来たのです。
    義理人情に厚く、お礼を言いたかったから戻ってきたわけではありません。「神を賛美しながら」、「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のです。それは、御言葉をくださった主イエスに神を見たからです。この信仰を主イエスは高く評価されました。彼は知識としては神をよく知りませんが、信仰の目が開かれて、戻ってきたのです。
    彼に対して主イエスは、「立ち上がって、行きなさい」と送り出されます。彼の行き先は決して居心地のよいところとは限りません。あの男は重い皮膚病だったと偏見を持たれるかもしれません。しかし、いまや彼には信仰があります。
    彼の叫びを聞き入れ、受け入れてくださった主イエスがいつも自分と共にいてくださることを彼は信じています。こうして、この主イエスを人生の支えとして生きていく新しい生き方へと彼は送り出されたのです。
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  • 婚宴にふさわしい礼服(ルカによる福音書 22章1-14節)
    「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が1人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。」
    (ルカによる福音書22章10節~12節)
    主イエスは、「天国」を「王の婚宴の席に着く」ことにたとえられました。その婚宴は、身分や善悪の区別なく、実に気前よくどのような人にも開かれています。本当に救われたいと願い、御言葉に導かれるままに罪の赦しと新しい命を謙遜に受け取る人こそ、この婚宴に連なることができます。
    ところが、婚宴の礼服を着ていない者が1人いて、王からとがめられました。礼服とは、当時、宮廷に呼び出される者が各自持参するものではなく、王宮で王から与えられるものでした。ですから誰でも礼服を着て婚宴の席に連なることができたのです。しかし、この者は、王が与えた礼服を着ることを拒否して王の前に出て、その威光に傷をつけたのでした。
    王に招かれた者が婚宴にふさわしい礼服を着るのと同様に、神に招かれ、信仰が与えられ、キリストを通して救いの恵みにあずかった人は、日々の生活の中で、感謝の現れとして聖霊の実を結びます。私たちも、この婚宴に招かれた人々のように、信仰の実として神と隣人にどこまでも愛と真を尽くして生きることができるよう、祈りによって求めていきましょう。
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  • 賢く振る舞う(ルカによる福音書 16章)
    「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎えてもらえる。」
    (ルカによる福音書16章8節~9節)
    16章にも、15章に続いて主イエスが語られたたとえ話が収められています。15章はファリサイ派の人びとや律法学者に向けて語られましたが、16章は1節にあるように、弟子たちに向けて語られたものです。
    果たしてこの「不正な管理人のたとえ」をどう受け止めたらよいのでしょうか。この管理人の不正については、まねるべき手本ではありません。それにもかかわらず、8節のように主人がほめるのは、そこに「抜け目のないやり方」、思慮深さがあるからです。それは不安と絶望の中で、主人を呪ったり、あきらめるのではなく、残された可能性を思い、手を尽くす姿を示すものです。
    この管理人の姿勢が光の子らに求められています。光の子ら、つまり主イエスに従う者は「永遠の住まい」に入るように、さらに賢くなることが求められています。主イエスは状況を見抜き、抜け目なく賢く振る舞う大切さを教えています。これは決して不信仰なのではありません。光の子らとしての歩みを支えるものとして、はっきりと御言葉によって示された教えです。
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  • 真の勝利(詩編 20編)
    戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
    我らは、我らの神、主の御名を唱える。
    彼らは力を失って倒れるが
    我らは力に満ちて立ち上がる。
    (詩編20編8節~9節)
    この詩編は、次の21編とともに「王の詩編」と呼ばれています。旧約時代の礼拝の中で、王の勝利を願ってこの詩は読まれ、用いられたと考えられます。
    当時のイスラエルは、常に他国からの侵略の危機にさらされていた小さな国でした。ですから、祖国に勝利をもたらす王の出現は、国民にとって決定的に重要なことだったのです。けれども、この詩編が語る勝利とは、単純に軍事的な勝利のことではありません。
    8節は「戦車」と「馬」に言及しています。これらは当時の軍事力を示しており、これらがたくさんあれば当然国力は増大します。しかし、この詩編は、戦車や馬に頼るべきではないと語ります。本当に頼るべきは主なる神であること、そして主なる神により頼むときにこそ力に満ちて立ち上がると、詩編の作者は断言します。
    主イエス・キリストのエルサレム入城の場面が思い出されます。まことの王であられる主イエスは、馬ではなくロバの子に乗ってエルサレムに入城されました。そして、十字架の死によって真の勝利を打ち立てられたのでした。
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  • 御言葉の力(詩編 19編)
    天は神の栄光を物語り
    大空は御手の業を示す。
    昼は昼に語り伝え
    夜は夜に知識を送る。
    話すことも、語ることもなく
    声は聞こえなくても
    その響きは全地に
    その言葉は世界の果てに向かう。
    (詩編19編2節~5節)
    このダビデの賛歌は、大自然と御言葉を題材にして主なる神を賛美しています。澄みわたった大空に太陽が美しく輝き、エルサレム神殿では律法の朗読の声が朗々と響き渡っている様子が浮かび上がってくるようです。
    大自然と御言葉をつなぐものは、主の創造の御業です。創世記1章の天地創造の記事は、主なる神がこの世界にあるすべてのものを、その御言葉によって、きわめてよいものとして創造されたと伝えています。
    詩編19編は、この世界が創造主なる神の御言葉によって創造されたがゆえに「その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」と語ります。またパウロはローマの信徒への手紙10章18節でこの個所を引用し、創造主なる神の声の響きを通して、福音を証ししています。
    神の御言葉は、天地創造の時だけでなく、今もなお力を持っています。私たちが神の御言葉をふさわしく聴くときに、私たちは御言葉によって造り変えられていきます。キリストに似たものとして信仰者を造り上げるため、主なる神は私たちに御言葉を与えてくださいます。
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  • 主への感謝の賛美(詩編 18編)
    主よ、国々の中で
    わたしはあなたに感謝をささげ
    御名をほめ歌う。
    主は勝利を与えて王を大いなる者とし
    油注がれた人を、ダビデとその子孫を
    とこしえまで
    慈しみのうちにおかれる。
    (詩編18編50節~51節)
    表題には「主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた」とあります。サムエル記下22章では、ダビデ王の生涯を総括する部分で、この歌が記録されています。この詩編を読むとき、読者は自然にダビデ王の生涯について思いをはせることになります。
    この詩編の根底に流れているのは、主への感謝です。サウル王の次に王となったダビデは、サウル王に仕えていたときも含めて、何度も人生の危機を経験しました。けれども、ダビデはそのすべての危機から、主によって守られてきたと感じています。この詩編に込められているのは、自分を救ってくださった主なる神への感謝の賛美です。
    このダビデの主への感謝の賛美は、読者である私たちをも主への感謝の賛美に向かわせます。使徒パウロはローマの信徒への手紙15章9節でこの詩編を引用して、もはやユダヤ人、ギリシア人に関係なく、すべての人の口に主への感謝の賛美があふれるようになると力強く語ります。「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ」(47節)。
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  • わたしの訴えを聞いてくださる主(詩編 17編)
    主よ、正しい訴えを聞き
    わたしの叫びに耳を傾け
    祈りに耳を向けてください。
    わたしの唇に欺きはありません。
    御前からわたしのために裁きを送り出し
    あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。
    (詩編17編1節~2節)
    詩編の作者の口調から緊迫した雰囲気が伝わってきます。そこはまるで法廷のようです。濡れ衣を着せられた彼は、自らの潔白を訴え、神の正義が行われることを祈り求めています。
    自分が法廷に立たされることを願う人はいないでしょう。それが冤罪事件であればなおさらです。たとえ法廷を舞台にした小説や映画は好きでも、また裁判官や弁護士として事件を解決するヒーローとしてならよくても、自分が法廷で弁明しなければならない状況を願う人はいないと思います。
    詩編の作者も、決して本意ではなかったでしょう。しかし、彼は主の公平な裁きを祈り願いながら、主の御前に立っています。それはわたしの訴えを聞きあげ、公平な裁きをしてくださる主がおられると信じているからです。私たちの主は、「瞳のようにわたしを守り」、「翼の陰に隠して」くださるお方です(8節)。信仰者は、この主なる神に信頼することができます。
    わたしの訴えを聞いてくださる主がおられるということは、信仰者にとってどれほど力強い支えでしょう。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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