リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • あきらめずに祈り続ける(ルカによる福音書 11章)
    「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
    (ルカによる福音書11章10節)
    真夜中にパンを求める友人のたとえは、「執念深く祈れば祈りは聞かれる」ということを教えているのではありません。「人間の友達でもしつように頼めば願いを聞いてくれる。まして、神が熱心に祈り続ける私たちの祈りを聞いてくださらないはずがあろうか。神はきっと聞いてくださる」という、神への信頼に基づく祈りへの熱心が教えられているのです。
    「祈りが聞かれるように、しつように執念深く祈る」ということと、「神は必ず祈りを聞いてくださると信じてあきらめずに祈り続ける」ということ、そこにある信仰者の態度は全く違うものです。
    「神の主権」を強調する改革派信仰の伝統に生きる私たちは、「自分の熱心で神を動かしてやる」と思うことは少ないのかもしれません。しかし、反対の誘惑は少なくないのではないでしょうか。すなわち、「神はすべてご存じだから大丈夫だ」という誤った神への信頼から「あまり祈らない」という誘惑です。
    私たちは正しい神への信頼を、むしろ神の御心を尋ね求めて「あきらめずに祈り続ける」という祈りの熱心にあらわしたいと思います。
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  • ただ一つの必要(ルカによる福音書 10章)
    「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
    (ルカによる福音書10章42節)
    この「マルタとマリア」の物語は、本来この場所にあるのはおかしいのです。なぜなら、彼女たちが住む村は「ベタニア」であり、その村はエルサレムのすぐ近くにあるからです。本当なら、主イエスの旅の終盤に差しかかる19章に置かれるべきです。しかし、ルカは「ある村」ということにして、この場所に置きました。それは「善いサマリア人」のたとえ話のすぐ後にこの物語を置きたかったからでしょう。
    愛すべき隣人と愛さなくてもよい敵を分けるのではなくて、たとえ敵対しているユダヤ人であっても傷つき倒れている人を助けた「善いサマリア人」のたとえ話の後に、このマルタとマリアの物語が置かれることになりました。
    それは、「行って、あなたも同じようにしなさい」(10章37節)という主イエスのご命令を実行するためには、まず主イエスの御言葉の恵みを受ける必要があることに、私たちが気付かされるためです。はらわたが痛むほどの深い憐れみをもって私たちを見つめ愛してくださる主イエス。その御言葉に聞くときに初めて、私たちも主イエスの愛の業に仕えることができるのです。
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  • 神の国の秩序(ルカによる福音書 9章)
    「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
    (ルカによる福音書9章48節)
    「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」(46節)という議論が主イエスの弟子たちの間で起こりました。それは、彼らが地上の王国建設を主イエスに期待していた証拠です。そういう弟子たちに対して主イエスは、1人の子供をご自身のそばに立たせて、この世の秩序とは正反対の「神の国の秩序」を教えられました。
    当時のユダヤでは、子供は半人前で価値の低い存在とみなされていました。そのような小さな子供を受け入れることが主イエスを受け入れ、父なる神を受け入れることにつながること。そして子供のように最も小さな者にこそ、最も偉い者のように仕えなければならないことを教えられたのです。サタンが支配するところでは、常に弱い者に犠牲が強いられるからです。
    主イエスが病をいやし、悪霊を追い出されたのは、そのようなサタンの支配が打ち破られ、ここに神の国が来たというしるしでした。主イエスの弟子たちはこのことを覚えて、人の上に立ち、偉くなろうとするよりも、むしろ小さくなり、へりくだって仕えることを学ぶべきです。
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  • 悪の支配からの解放(ルカによる福音書 8章)
    「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
    (ルカによる福音書8章39節)
    弟子たちと一緒に舟に乗り、嵐の湖を越えてゲラサ人の地方に着かれた主イエス。そこで、レギオンと名乗るたくさんの悪霊にとりつかれた男に出会われます。
    男は羞恥心を失い、汚れた場所に身を置いて、自分自身を見失っていました。人とのきずなも断ち切って荒れ野に向かうこの男の姿は、程度の差はあるとはいえ、神のもとから離れてさまよう現代人の姿を映し出していると言えないでしょうか。主イエスはそのような1人の男を救うために、嵐の湖を越えて来てくださったのです。そして、悪霊を追い出されました。
    自分が救われる代わりに豚の群れが湖になだれ込んでおぼれ死んでいる様子を見た男は、自分にとりついていた悪霊の力のすさまじさに呆然としたことでしょう。彼はその後で、主イエスの言葉に従って家に帰り、主イエスが自分にしてくださったことを町中に言い広めました。
    このわたしが救われるために、豚の群れどころか神の独り子が犠牲になってくださったということを知っている私たちは、より一層の驚きと感謝をもって、この出来事を世に証ししていくべきです。
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  • 御言葉の権威(ルカによる福音書 7章)
    「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、1人に『行け』と言えば行きますし、他の1人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
    (ルカによる福音書7章8節)
    この異邦人の百人隊長は、人を通して、病気で死にかかっている部下の癒やしを主イエスに願い出ました。しかし、自分は主イエスを自分の家にお迎えできるような者ではないと言い、ただ主イエスの御言葉だけを求めました。
    それは、彼の軍人としての体験に基づく確信から来ていました。彼は国王の権威を身に帯びる者として、部下に命じればその通りにすることを知っていました。まして神の権威を身に帯びておられる主イエスがひと言おっしゃってくだされば、部下は必ず助かると、彼は信じていたのです。それは、神の権威ある言葉の力を信頼する信仰と言えるでしょう。
    「光あれ」と神が言われると、そこに「光があった」(創1章3節)。それが権威ある神の言葉の力です。この神の言葉は、今も語り続けられています。聖書を通して、とくに主の日の礼拝における御言葉の説教を通して、今も語り続けられているのです。
    私たちもこの権威ある神の言葉の力に信頼して、語られた御言葉は必ず実現すると信じて、聞き従う者たちでありたいと思います。
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  • 主は平等に愛される(マタイによる福音書 20章1-16節)
    「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
    (マタイによる福音書20章16節)
    ペトロが主イエスに「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と尋ねました(19章27節)。主イエスは、ぶどう園の労働者のたとえで、答えられました。
    当時、労働時間は朝の6時から夕方の6時までで、日当は1デナリオンでした。主人は早く出かけて労働者を採用しましたが、それでも足りなかったので9時、12時、3時、なんと終了1時間前の5時にも採用しました。そして、同じ賃金を払うようにと監督に命じたのです。
    早い時間に採用された者たちは、このことに怒り、不平を訴えました。これに対して主人は「何れの時間に来た者にも、わたしは1デナリオン払うと約束したではないか。それを守っただけだ。お前たちはわたしの気前の良さを妬むのか」と言いました。
    同じような不満が教会の中で起きていないでしょうか。古くからの会員にも、新しく来られた方にも、主の恵みは平等です。いや、自らの奉仕の少なさにもかかわらず、救いの恵みをいただいたと喜ぶ「後にいる者が先にな」るのが、教会です。
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  • 選ばれた十二人(ルカによる福音書 6章)
    そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた。
    (ルカによる福音書6章:12節~13節)
    主イエスは山の上で祈って夜を明かされ、その後に12人の弟子たちを選び、使徒と名付けられました。
    選ばれた12人の名簿を見ますと、彼らは特別なエリートではなく、ごく普通の、またさまざまな違いを持つ人たちであったことがわかります。ペトロのような積極的な人もいれば、トマスのような慎重派もいます。マタイはローマ人に仕える徴税人でしたし、熱心党のシモンはローマに逆らって武力行使も辞さない過激派でした。そういう違いを持つ12人が、ただ主イエスに選ばれ愛されている者たちとして召し出されました。彼らは、主イエスを信じ愛するというということにおいて一致して共に歩む中で、互いに愛し合い仕え合うことを学んでいきました。
    それぞれの教会に集められている私たちもさまざまな違いがありますので、一つ間違えばバラバラになる危うさがあります。しかしそのような私たちが共に十字架の主イエスを見上げることで一致するとき、違いは豊かさとなります。私たちは一つにされてキリストの体を形作り、世に遣わされて行くのです。
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  • 御心による清め(ルカによる福音書 5章)
    イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。
    (ルカによる福音書5章13節)
    律法によれば「重い皮膚病」は宗教的な汚れとみなされ、その人は宿営から離れて1人で暮らさなければなりませんでした(レビ13章46節)。
    そのような病を患った1人の人が主イエスの前にひれ伏し、清めを願い出ました。そしてその人に主イエスは手を差し伸べて彼に触れて、こうおっしゃいました。「よろしい。清くなれ」(13節)。これは「わたしは望む、あなたは清くされよ」という意味です。主イエスは彼が清くされることを望んでくださいました。それは、ただ病がいやされるだけではなく、彼が礼拝を中心とした神の民の交わりの中に戻ることを望まれたということです。病をいやされた後、祭司に体を見せて証明せよと指示されたことからも、そのことがわかります。
    その後、主イエスは人里離れたところで祈られました。何を祈られたのかは聖書には書かれていませんが、いやされたこの人のためにとりなし祈ってくださったと考えることが自然でしょう。そのような主イエスは、私たちが礼拝の場に集うことをも切に願われ、とりなし祈っていてくださいます。感謝しつつ備え、主の御前に出ましょう。
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  • 主の恵みの年(ルカによる福音書 4章)
    「主の霊がわたしの上におられる。
    貧しい人に福音を告げ知らせるために、
    主がわたしに油を注がれたからである。
    主がわたしを遣わされたのは、
    捕らわれている人に解放を、
    目の見えない人に視力の回復を告げ、
    圧迫されている人を自由にし、
    主の恵みの年を告げるためである。」
    (ルカによる福音書4章18節~19節)
    19節の「主の恵みの年」とは、レビ記25、27章に記されている「ヨベルの年」のことであると考えられます。それは50年に1度の解放の年であり、その年には売られた土地も元に戻され、身売りされた人も元に戻ることができます。そのことを通して、土地も人も究極的には神のものであるということが確認されるのです。
    本来神のものであるはずの人間が神のもとから離れ、罪と死の支配のもとにとらわれていることがすべての不幸の原因です。主イエス・キリストは、そのような人間を罪と死の支配から解放し、神のもとに取り戻してくださる「主の恵みの年」を、霊的に実現してくださる救い主なのです。
    主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃいました(21節)。罪の奴隷の解放、霊的盲目状態からの開眼、理不尽な力による圧迫から自由にしてくださる主の恵みは、信仰をもって主の日の礼拝に集い、真実な礼拝をささげ、御言葉の説教に耳を傾ける私たちの「今日」という日に実現するのです。そう信じ、期待して、主の日に備えましょう。
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  • 祈りの必要性(ルカによる福音書 3章)
    民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
    (ルカによる福音書3章21節~22節)
    主イエスはメシアとしての働きをお始めになる前に、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。それは主イエスが十字架に向かって歩まれる救い主として、常に罪人の側に立ってくださるお方であることのしるしでした。そのようにして主イエスは「罪人のひとりに数えられた」のです(イザ53章12節)。
    ヨハネから洗礼をお受けになった後に真っ先に主イエスがなさったことは、「祈り」であったということに注目したいと思います。主イエスは神の独り子だからといって楽々とメシアとしての務めを果たされたわけではありません。むしろ「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、…祈りと願いとをささげ」られたのです(ヘブ5章7節)。
    そうであるならば、私たちが神によって与えられたそれぞれの使命を全うするためには、よりいっそう祈りが必要です。悪魔は私たちが祈ることをさまざまな仕方で妨げますが、私たちも主イエスにつながる神の子であることを覚えて、聖霊の導きを祈り続けたいと思います。神は必ず祈りに応えてくださり、聖霊で満たして、力を与えてくださいます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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