リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 飼い葉桶の救い主(ルカによる福音書 2章)
    「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
    (ルカによる福音書2章12節)
    天使は羊飼いたちに「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げ、さらに「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が「あなたがたへのしるしである」と告げました。それはただの目印ではなく、この救い主がどういう救い主なのかを指し示す「しるし」なのです。
    「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」。それは弱さと低さとみじめさのしるしと言えるでしょう。すなわち、この救い主は誰よりも低いところにまで下り、誰よりも弱く、誰よりもみじめになることによって人を救ってくださる、十字架の道を歩まれる救い主だということです。
    このイエス・キリストは、私たちがどんなに低く弱くみじめになるときにもそこに来てくださって、私たちを赦し、愛して、恵みで満たしてくださいます。ですから私たちは、裁き合うのではなく赦し合うこと、憎み合うのではなく愛し合うこと、奪い合うのではなく分かち合うことを学ぶのです。
    主イエスがお生まれになったのはパクス・ロマーナ(ローマの平和)の時代ですが、そこに武力による平和(パクス)ではなく、真の平和(シャローム)が実現していきます。
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  • 神の言葉への信頼(ルカによる福音書 1章)
    「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
    (ルカによる福音書1章37節~38節)
    マリアは「あなたは身ごもって男の子を生む」と告げる天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか」と問いかけました。それは疑いの言葉ではなく、男の人を知らないわが身にどのようにしてそのようなことが起こるのか、説明を求めた言葉です。
    そのマリアに対して天使は、聖霊が降ることによってそれは実現すると告げ知らせ、最後にこう言いました。「神にできないことは何一つない」。これは直訳すると、「なぜなら、神にあっては、すべての言葉が不可能ではない」となります。それに対してマリアも「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。つまりマリアの言葉は、「神の言葉」に対する信頼に根差した信仰告白だったのです。
    かつて不妊のサラを通してアブラハムにイサクが与えられたように、神の言葉は必ず実現します。神はご自身の約束にどこまでも真実であられるお方なのです。私たちもこのことを心に刻み、御言葉の光に照らされつつ、常に御言葉に聞き従うという決意をもって、きょうも歩んでいきたいと思います。
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  • たがいに赦しあいましょう(マタイによる福音書 18章21-35節)
    「あなたがたの1人1人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
    (マタイによる福音書18章35節)
    罪を犯した兄弟を赦すのは7回までですかとペトロが尋ねると、主イエスは完全数である7の70倍つまり無限に赦しなさいとおっしゃり、たとえを用いて説明されました。
    ある王が借金の返済を家来たちに求めました。途方もない高額を借りた家来は返すことができませんでした。王が家族も持ち物も全部処分して返すように命じると、彼が待ってほしいと懇願したので、王は憐れみをもって借金を帳消しにしました。ところが、その家来は赦された額と比べるなら微々たる額を彼から借金していた仲間を、返済ができないことを理由に、無情にも投獄しました。それを知った王は、その家来が借金を返済するまで牢獄につなぐことにしました。
    神の御前では、私たちはその無情な家来と同じです。多くの罪の負債を抱えて身動きができない私たちを、主イエスは愛し憐れみ、罪を赦してくださいました。しかし、私たちは、周りの人たちの罪を赦すことができない心の歪みを抱えています。兄弟の些細な罪を責めながら、己の目に突き刺さっている丸太に気づかない自らの愚かさを反省させられます。
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  • 罪の罰を心から受け入れる(レビ記 26-27章)
    もし、彼らのかたくなな心が打ち砕かれ、罪の罰を心から受け入れるならば、そのとき、わたしはヤコブ…イサク…アブラハムとのわたしの契約を思い起こし、かの土地を思い起こす。彼らが後にした土地は、打ち捨てられている間、安息を楽しむ。
    (レビ記26章41節~43節)
    ヨベルの年が定められても、イスラエルはこのとおりに行って、本当の安息を楽しむことはできませんでした。与えられた掟と法を守ることができなかったためです。そして皮肉にも、彼らがその罰として住んでいた土地から連れ去られている間に、土地は安息を得たのでした。
    神はまた、「彼らが敵の国にいる間も、わたしは彼らを捨てず、退けず、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らと結んだわたしの契約を破らない。わたしは彼らの神、主だからである」と、その慈しみ深さを示されます(44節)。
    このような神の慈しみ深さが示されている一方で、人間が献げ物をするときの惜しむ心を神は見抜き、最後に釘を刺すように記しています。「牛や羊の群れの10分の1については、牧者の杖の下をくぐる十頭目のものはすべて、聖なるもので主に属する。この10分の1の家畜を見て、その良し悪しを判断したり、それを他のものと取り替えたりしてはならない」(27章32、33節)。
    これほど慈しみ深い神が、私たちを全き服従へと招いておられます。私たちはそれに応える決心をしたいのです。
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  • 全住民の解放(レビ記 25章)
    あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。50年目はあなたたちのヨベルの年である。
    (レビ記25章9節~11節)
    全住民に解放が宣言される50年目のヨベルの年は、一生に一度巡ってくるもの、という感覚だったでしょう。この年には、全き安息を土地に与え、種もまかず、収穫もしないことになっていました。そうだとすれば、「どうして食べていけるだろうか」と思うのは当然です。しかし主は、掟を忠実に守るならば、「あなたたちは十分に食べ、平穏に暮らすことができる」と約束されました(19節)。
    また、土地や人を、貧しさゆえにやむを得ず売買しなければならなくなったときには、買う側・貸す側には「神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるように」するために、無利息で貸し、身売りされても奴隷として扱わないように命じられていました。そしてヨベルの年には買い戻す権利が認められていました。
    イザヤ書61章はこのヨベルの年を念頭に置いた預言です。「捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(1節)。主イエスはこの個所を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、…実現した」と語り始められたのでした(ルカ4章)。すべての民の全き解放、全き安息が到来したからです。
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  • 心も主に受け入れられるように(レビ記 22-24章)
    和解と感謝の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげる。その肉はその日のうちに食べ、翌日まで残してはならない。わたしは主である。
    (レビ記22章29節~30節)
    聖なる献げ物と祝祭日について、繰り返し「主に受け入れられるように」と言い添えて命じられています(22章19節等)。
    しかし、預言書を見ると、主に受け入れられるようにはささげられていなかった現実が指摘されています。「お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。…むなしい献げ物を再び持って来るな。…お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。…どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない」と(イザ1章11~15節)。「わたしの名を軽んずる祭司たちよ、…あなたたちは、わたしの祭壇に汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにしてあなたを汚しましたか、と言う。…わたしはあなたたちを喜ぶことはできないと万軍の主は言われる。わたしは献げ物をあなたたちの手から受け入れはしない」と(マラ1章6~10節)。
    主は心を見られます。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩51編19節)。
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  • 聖なる者となれ(レビ記 20-21章)
    自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。
    わたしの掟を忠実に守りなさい。わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする。
    (レビ記20章7節~8節)
    「聖なる者となれ」という命令は19章から続いています。20章は8節が区切りです。前半は「わたしのほかに何ものをも神としてはならない」という十戒の1枚目の板の戒めに関連しています。9節以降は恥ずべき性関係について詳述されていますが、「父母を敬え」、「姦淫するな」、「盗むな」、「隣人の家をむさぼるな」という十戒の2枚目の板の戒めに関連しています。
    ここに書かれているような行為は、「死罪に当たる」と言われています。これは直訳すると「彼らの血は彼らの中に」という言い回しで、明確に「血」という言葉が使われています。「血の責任は彼らにある」ということです。
    17章で「生き物の命は血の中にある」と教えられました。そして、主イエスが命の在りかである「血」を流してくださったことによって、私たちは主の命をいただいたのだ、ということに気づかされたのでした。イエス・キリストの贖いの血によって生きる者となるようにしていただいた私たちは、真実にこの「聖なる者となれ」という命令に従い、それにふさわしい生き方をする者でありたいのです。
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  • 最も重要な第二の掟(レビ記 18-19章)
    心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
    (レビ記19章17節~18節)
    マルコ福音書12章で、律法学者が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたときに、主イエスがそれに答えた上で、「第二の掟は、これである」と示されたのがきょうの個所です。神を信じていると言う限り、神を愛するのは当然ですから、主イエスは「第二」とおっしゃりながら、「隣人を自分自身のように愛する」ことのほうがもっと重要であると教えたかった可能性があります。ですからレビ記19章、とりわけ11~18節を繰り返し読み、この戒めに従う者とされたいと願います。
    「盗んではならない」と言われたときに、狭義の盗みをしていないと思うに留まらず、自分の不用意な言動で隣人を傷つけて平安を損ない、盗んでいないかを想いましょう。「雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない」と言われたとき、今助けを必要としている人につれない態度を取っていないか。「隣人を虐げてはならない」と言われたときに、信仰の正論を言って隣人を苦しめていないか…。
    心の中までも探り知られる神が、隣人に対する私たちの思い・言葉・行いを見ておられることを覚えましょう。
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  • 命である血(レビ記 17章)
    生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。
    (レビ記17章11節)
    なぜ十字架上でイエス・キリストの「血」が流されなければならなかったのか。きょうの個所は、このことの重要性を深く教えてくれます。
    「生き物の命は血の中にある」という言葉が3度繰り返されています。それゆえに「いかなる生き物の血も、決して食べてはならない」と厳格に命じられ(14節)、ユダヤ人は今も、適切に血抜き処理した肉しか食べません。
    ところが、血を決して口にしないユダヤ人に、主イエスは血を飲めと言われたのです。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。…わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。…わたしの血はまことの飲み物だからである。…わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハ6章53~56節)。
    これを聞いたユダヤ人が「実にひどい話だ」と言ったのも無理はありません。しかし、レビ記によってこの言葉の真意が分かってくるのではないでしょうか。主イエスの血によって、私たちは主の命をいただいたのです。
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  • 主はいつも共にいてくださる(マタイによる福音書 18章15-20節)
    「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
    (マタイによる福音書18章20節)
    主イエスは、罪を犯したときに、いさめて事の本質を理解させ、崩れた関係を元に戻すための順序を教えておられます(15~17節)。
    先ず、2人だけで忠告します。これは相手の名誉に対する愛の配慮です。これが聞き入れられない場合、「2人ないし3人の証言によって立証される」と定められているように複数で対応して、個人的な忠告でないことを相手に悟らせます(申19章15節)。それでも聞き入れられない場合、教会として取り扱います。教会として、愛をもって戒め、諭します。それも聞き入れられないときには教会の交わりから排除されます。この手続きには、主の忍耐と愛が満ちています。
    「2人または3人がわたしの名によって集まる」とは、罪の赦しを求めて集まるということにほかなりません。教会にとって、兄弟を1人でも失うことは、大いなる悲しみであり、損失だからです。私たちの主は、罪の赦しのために十字架につけられました。悔い改めた兄弟を得るために私たちが祈るとき、その主が「わたしもその中に」共にいてくださると、約束されているのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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