リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 誇るべき冠(テサロニケの信徒への手紙一 2章)
    わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。
    (テサロニケの信徒への手紙一2章19節~20節)
    パウロとテサロニケの教会の人びとの関係は、主にある兄弟姉妹としての関係でした。それは、決して一方的なものでも、上下関係によるものでもありません。彼らは、互いのことを自分のことのように思いやり、祈り、愛し、また必要な助けの手を差し伸べています。それは主イエス・キリストの愛のゆえです。
    そのような愛の関係にあるからこそ、パウロは彼らを「わたしたちの希望、喜び、誇るべき冠」、「わたしたちの誉れであり、喜び」と言います。
    ここから、福音の宣教とは何か、それはどのようにしてなされるのかを私たちは教えられます。福音の宣教は、決して人間の力でするものではありません。一人ひとりを救いへと選ばれ、導かれるのは神ご自身です。私たちはあくまでもその神に仕える僕として、神の御心に従って福音を宣べ伝えます。福音は、愛によって伝えられます。ただ言葉によってだけ伝えられるのではありません。
    キリストは再臨のとき、私たちのそのような信仰における愛の姿勢をこそご覧になります。私たちも互いに愛し合いながら、福音の宣教を続けることができますように。
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  • 苦しみと喜び(テサロニケの信徒への手紙一 1章)
    そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
    (テサロニケの信徒への手紙一1章6節~7節)
    テサロニケのキリスト者たちは、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を」、福音を受け入れました。苦しみと喜びは、普通は正反対のものです。私たちは、喜びがあれば苦しみはない、苦しみがあれば喜びはない、そのように考えます。
    しかし、信仰においてはそうではありません。信仰のために受ける苦しみは、御言葉によってキリスト者に要求されている、キリスト者の定めです。その苦しみのただ中で、私たちには、福音によって聖霊による喜びが与えられます。ですから、福音のために苦しみを受けるとき、その心は神から与えられる喜びに満たされます。
    それは、心の持ち方や人の工夫によって得られるようなものではありません。それは、神が聖霊によって私たちのうちに与えてくださる喜びであり、この世の何ものも与えることができない、そして奪うことのできない喜びです。この喜びは、キリストの栄光が現れるときに満ちあふれる喜びでもあります。テサロニケの人びとも、この喜びに満たされて、苦しみの中にあっても、恐れることなく信仰に堅く立ったのです。
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  • 永遠に生きておられる大祭司(出エジプト記 40章)
    あなたは、彼らの父に油を注いだように、彼らにも油を注ぎ、わたしに仕える祭司としなさい。彼らがこのように、油を注がれることによって、祭司職は代々にわたり、永遠に彼らに受け継がれる。
    (出エジプト記40章15節)
    主は大祭司としてアロンを、また、その子らを祭司として、お立てになりました。彼らは、油を注がれて、罪の贖いの儀式を民のために行います。この祭司職が、レビ族であるアロンの子孫に受け継がれました。それは、後の世代まで、ずっと続きます。こうして祭司職は継続され、主イエスの時代に至っても続いており、洗礼者ヨハネの父ザカリアも祭司でした。
    しかし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することはできません(ヘブ7章11節参照)。祭司自身、罪人であり、自らのための贖いが必要です。たとえ無傷でも動物犠牲では罪を完全に取り除くことができず、繰り返し献げられなければなりませんでした。
    しかし、主イエス・キリストの到来によって、祭司制度が完成されました。新しい契約の下で立てられ、油注がれた大祭司イエスは、ただ一度ご自身を献げて、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。しかも、永遠に変わらず生きておられます。この大祭司によって、私たちは聖なる者、また、完全な者とされるのです(ヘブ10章14節参照)。
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  • あなたはメシア(出エジプト記 16章13-20節)
    イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
    (出エジプト記16章15節~17節)
    主イエスがフィリポ・カイサリア地方に行かれたとき弟子たちに尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。彼らは洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤなどと答えました。しかし、主の最大の関心事は弟子たちがご自身をだれと思っているか、ということでした。
    主は、お働きの初めに、のちに宣教の働きを担い教会を建て上げていく器として十二使徒を選ばれ、このときまで教育と訓練を続けてこられたからです。一番弟子だったペトロが答えました。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そのとき主は言われました。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。
    昇天後の五旬節のこと、聖霊に満たされたペトロの説教は人びとの心を打ち、3千人が救われ最初の教会がエルサレムに誕生しました(使2章)。「あなたはメシア」と彼が告白できたのは、天の父の特別な啓示によります。天の父は、鈍く弱く失敗の多いペトロにキリストを啓示され、彼を造り変え、豊かに用いられました。私たちにも同じ恵みが与えられています。
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  • 神の霊の幅広いお働き(出エジプト記 35-39章)
    「見よ、主は、ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識を持たせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての細かい工芸に従事させ、更に、人を教える力をお与えになった。」
    (出エジプト記35章30節~34節)
    臨在の幕屋の建設に当り、主は献納物を携えて来るようお命じになります。心動かされた人びとは、進んで主への献納物を持ち寄りました。主は、知恵と英知と知識を与えた人びとを細かい工芸に従事させ、人を教える力をもお与えになりました。神を礼拝するために優れた技術が用いられ、創意工夫がなされたことがわかります。
    今日の会堂建築の場合、設計は信仰者の方がしても、大工さんや職人さんはほとんど未信者の方でしょう。信徒が直接従事するのではなくても、それらの技能も神の賜物の一部です(イザ28章26節)。
    会堂建築に限らず、神の家である教会で必要な働きは多方面に及びます。直接礼拝に関わらないことでも、主の民の生活と活動のためにさまざまな配慮と奉仕が求められます。利便性、機能性、そして美しさも追求されます。それもまた神の賜物に依っています。
    私たちも主の教会を築いていくために神の霊の導きと賜物を求めます。神の賜物をよく用いて献げ、教会が一つになり、神の栄光を現していけるように祈りましょう。
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  • ほかの神を拝んではならない(出エジプト記 34章)
    「あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。あなたはほかの神を拝んではならない。」
    (出エジプト記34章13節~14節)
    イスラエルの民は、偶像礼拝を行う異教徒たちの土地に入って行きます。彼らが行う偶像礼拝を主は禁じておられます。それだけでなく、その偶像を壊すようにさえ命じています。たいへん厳しい命令ですが、民が偶像礼拝に染まらず、まことの神への信仰を保つために主が必要とされたことでした。
    私たちの回りにも偶像があちらこちらにあります。偶像礼拝を十分に警戒し、避けるべきことには変わりはありません。では、今日の私たちは、回りにある偶像を打ち壊すべきでしょうか。もちろん、自分が所有していた偶像を拝まなくなって、それを壊し処分するということはあるでしょう。しかし、他人が礼拝している偶像を壊すことはしません。そのようなことをすれば、相手と敵対関係が生じて、かえって溝が深くなるでしょう。
    私たちは伝道の観点から、積極的に神の恵みとキリストの救いを示し、御言葉を伝え、教えるという手段を取ります。そして、「どのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか」を証しします(1テサ1章9節)。
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  • 主の道をお示しください(出エジプト記 33章)
    「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。」
    (出エジプト記33章13節)
    ここでモーセが示してほしいと主に願っている道は、これから先どのような旅が続くのか、という道のことではありません。主がそのご計画を実行していかれる際のなさり方という意味での道です。詩編に、「主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された」と歌われています(103編7節)。主を信じてモーセは出エジプトの先頭に立ちましたが、勝手なふるまいをする頑なな民を持て余し、主が本当に自分にご好意を示してくださっているのか不安になっていたことが伺われます。
    主に直接任命されたモーセですら、主がなさることを一度にすべて知ることはできず、祈り願い求めることを繰り返していきました。そして主はその都度願いに応えて、ご自身が共におられることを証ししてくださいました。
    主が共におられる、という約束は、聖書全体を通して主の民に与えられているものです。今日、私たちも自分たちに対して主のなさることをすべて初めから把握しているわけではありません。しかし、祈り求めつつ歩む中で、主はご自身の道を私たちに必ず示してくださいます。
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  • 神と人との仲介者(出エジプト記 32章)
    宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
    (出エジプト記32章19節)
    主はシナイ山でモーセと語り終えられると、神の指で掟の記された石の板をモーセに授けられました。その間、モーセの帰りが遅いことを不安に思った民がアロンに迫り、アロンは金の子牛を造ってしまいます。民はそれにひれ伏し、大きな罪を犯していました。モーセは山上で、「そのような民は滅ぼす」と言われた主を懸命になだめます。主はそれを聞き入れて、民を滅ぼすことを思い直してくださいました。
    しかし、宿営に戻って民の偶像礼拝を目にすると、モーセは激しく怒り、持っていた掟の板を投げつけて、砕いてしまいました。神自ら書かれた掟の板を砕いてしまうとは、モーセの怒りがどれほどだったかわかります。
    モーセは民に対して激しく怒りました。懸命に主をなだめたモーセでしたが、民に対しては非常に激しい怒りをぶつけたのです。神と人との間に立つモーセの真剣さが際立つ箇所と言えます。
    後に世に来られた罪人の贖い主、神と人との仲介者イエスは、神の怒りをご自身で受け止め、民に怒りをぶつけるのではなく、民の罪を十字架で担われました。
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  • 契約の箱(出エジプト記 25-31章)
    箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。
    (出エジプト記25章13節~16節)
    「神の箱」、また「契約の箱」と呼ばれる箱が幕屋の中に置かれました。この箱の上には蓋として「贖いの座」が置かれました。主はここから民に語ると言われましたから、イスラエルの人びとにとって、この箱はこの上なく大事なものでした。契約の箱は、主がそこにおられるということの目に見えるしるしでした。
    それほど重要な箱なので、中をのぞいた人が主に打たれたことがありました(サム上6章19節)。律法の規定通りに担がず、牛に引かせた車で運んだために、牛がよろめき、箱を押さえた人が神に打たれて死んだこともありました(サム下6章6、7節)。たいへん厳しい主の報いです。しかし、それは単に規定通りにしなかったからではありません。主がそこにおられることを軽んじていたからこそ起こったことでした。
    今日、私たちにはそのように神聖で恐るべき箱はなく、契約の箱を求めることも作ることもありません(エレ3章16節)。地上にはもはや必要なくなりました(黙11章19節)。神の御子がただ一度、命をかけて贖いを成し遂げてくださったことを思い起こして、感謝しましょう。
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  • 主に近づけるのはだれか(出エジプト記 24章)
    「しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」
    (出エジプト記24章2節)
    モーセたちは主のもとに登るように命じられましたが、モーセ以外は遠く離れていなければなりませんでした。モーセがいかに重要な務めを担っていたかがわかります。
    モーセの存在はイスラエルの中であまりにも大きく、主イエスの時代の人の中には、「我々はモーセの弟子だ」と言う人もいました(ヨハ9章28節)。それほど主に重んじられていたモーセは、神と人との間に立って、罪を犯した民のために懸命に執り成しをします(出32章)。
    しかし、後にモーセは、自分一人で民の重荷を負うことはできないと訴えました(民11章14節)。ただ一人主に近づくことを許されたモーセでも、民の罪を身に負うことはできないからです。
    今日、私たちには、このモーセにはるかにまさる執り成し手がおられます。神の御子が私たちの罪を十字架で担ってくださいました。この方によって私たちも神に近づき、完全に救っていただくことができます(ヘブ7章25節)。
    きょうも私たちのために祈りを聞き、執り成してくださる主に心から信頼して近づき、一日を歩みましょう。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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