リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • こころみにあわせず(コリントの信徒への手紙二 12章)
    また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
    (コリントの信徒への手紙二12章7節~8節)
    使徒パウロにサタンから使いが送られました。パウロには、それはとげのように邪魔でした。体に負っていた自分の病気をとげと呼んだのです。それがなければ神のためにもっと働くことができるとパウロは思ったはずです。
    パウロは、神にこのとげを取り除いてくださいと三度祈りました。三度というのは、「完全に、心を尽くして」という意味です。主イエスが「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように教えられたからです。「誘惑」という言葉は「試練」とも訳されます。
    すると主は言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と(9節)。サタンからの誘惑、試練に、パウロは祈りによって勝利しました。
    この後、とげが刺さったままのパウロは十分な伝道ができなかったでしょうか。そうではないと思います。苦しみを知る人が救われたなら、苦しみの中にある隣人に対してますます目が開かれることでしょう。神を知らず絶望している人に希望を伝える者とされたに違いありません。
    0 min
  • われらの罪をも赦したまえ(マタイによる福音書 18章)
    そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」
    (マタイによる福音書18章21節~22節)
    何度まで他の人を赦すべきかと、ペトロは主イエスに尋ねました。当時の律法では同じ罪について3回まで赦しました。ペトロは7回と言うのです。これで十分だろうと彼は思ったはずです。
    しかし、よく考えてみると、指を折って数えているうちは、その人を本当には赦していません。主イエスはここで無限に赦すようにおっしゃいました。他の人からされた悪いことを書きつけるノートが、私たちの心の中にあるのではないでしょうか。主イエスはそのノートを破り捨てるようにと言われるのです。
    きょうの箇所の続きで、主イエスは、自分は赦されながら仲間を赦さない家来が裁かれるたとえ話を語っておられます。私たちは神に赦された者として、他の人を赦すように招かれているのです。
    人には他者の失敗や罪を喜ぶ暗い心があります。インターネット記事に対して批判や中傷が殺到することを〈炎上〉と言います。私たちは主から大きな罪を赦された者として、憎しみの火事を消すのです。そのようにして神から受けとった赦しを他者に手渡すように招かれています。
    0 min
  • 日用の糧を与えたまえ(箴言 30章)
    二つのことをあなたに願います。
    わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
    …
    貧しくもせず、金持ちにもせず
    わたしのために定められたパンで
    わたしを養ってください。
    飽き足りれば、裏切り
    主など何者か、と言うおそれがあります。
    貧しければ、盗みを働き
    わたしの神の御名を汚しかねません。
    (箴言30章7節~9節)
    天の父に霊的な事柄だけでなく、生活に必要な一切を求めるように、「日用の糧を与えたまえ」と祈るように主イエスは教えてくださいました。これは日毎の祈りです。けれども、真剣さが自分には欠けていると感じることがあります。それは自分が安全地帯にいると思うからです。
    学校、家庭、仕事が順調で、生活が安定している時、私たちは、あたかもそれが自分の努力の成果と考えてしまいます。「主など何者か」と、神なしで生きていけるかのような錯覚に陥るのです。
    またそれとは正反対に、生活のすべてに逆風が吹いている時があります。そのような時は、人生を投げ出したくなるでしょう。生活に困窮し、貧しさから罪を犯し、「神の御名を汚す」ことがあるかもしれません。
    しかし、実は、私たちの持ち物は自分の所有物ではありません。すべてが「良い贈り物」、神からのプレゼントです(ヤコ1章17節)。神は、私たちがその日その日の「定められたパン」を求めて祈るように願っておられます。私たちが高慢にも卑屈にもならないために。
    0 min
  • 御心が行われますように(マタイによる福音書 26章)
    更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
    (マタイによる福音書26章42節)
    主イエスは十字架に向かう前夜、ゲツセマネの園で悲しみもだえて祈られました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と、弟子たちにおっしゃいました。この祈りの格闘の後、主イエスは御父の心に従い、十字架へと進まれます。罪のないお方がここまで苦しんで御心に従われました。イエスの思いが、祈りによって天の父の御心と結ばれたのです。
    主は弟子たちにも「御心が行われますように」と祈るよう、教えられました。「御心に適うすべてを愛せるように、神の喜ばれないものは遠ざけるように、祈りなさい」と。この祈りは祈る者を戦いの中に投げ込みます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、主は言われるからです(マタ16章24節)。
    私たちも、「この杯が過ぎ去る」ようにと祈るくらいの試練が与えられ、苦しみを避けられないときがあります。御心に適うとは、そこで神に屈服して白旗をあげることです。私たちは御心を求める祈りによって、自分の思いを第一にすることを止め、神に自分を明け渡すことができるようになるのです。
    0 min
  • 食べる物を与えなさい(マタイによる福音書 14章13-21節)
    「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」…「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い…5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
    (マタイによる福音書14章16節~19節)
    群衆が主イエスの後を追ってきていました。そこは人里離れた場所であり、夕食の時刻が近づいていました。「それぞれが自分で村へ食べ物を買いに行くために群衆を解散させてください」と、弟子たちはもっともな提案をしました。すると主は言われました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。これを聞いて弟子たちがどんなに困惑したか、想像に難くありません。女と子どもを別にして男が5千人ほどいたからです。「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」。絶望的ともいえる叫びをあげました。持っているものの乏しさにだけ目を留めていたからです。
    すると、主は群衆に座るようにお命じになり、そのパン5つと魚2匹を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡されました。弟子たちはそれを群衆に分配しました。それはすべての人が満腹し、なおあり余る量でした。
    主は不可能なことを私たちに命じられる方ではありません。持っているものの乏しさに目を留めるのではなく、不可能を可能とされる方に目を留めましょう。
    0 min
  • 御国を来たらせたまえ(マタイによる福音書 6章)
    「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
    (マタイによる福音書6章31節~33節)
    主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と弟子たちに教えられました。これは「御国を来たらせたまえ」と祈ることと同じです。
    御国とは神の支配のことです。この祈りは、「ますます神のものとしてください」、「教会がこの世に進展するように」、さらに「全世界、全宇宙に神の栄光が満ちるように」という壮大な願いが込められています。
    主の祈りと比べると、自分の祈りがとても弱く小さいことを改めて覚えざるを得ません。気がつくと御国ではなく、「わたしの国が来ますように」と祈ってはいないでしょうか。その原因は思い煩いに心が乱されていることにあるのではないでしょうか。
    熊本地震の余震で心が騒いだとき、教会の庭にある花壇の花が逃げださないことに、わたしはハッとしました。主イエスは「空の鳥をよく見なさい」と言われます。神が小さな鳥を養うのと同じように、この花も守ってくださる。それならば私たちも守られないはずはありません。私たちの思いをはるかにこえて、愛に満ちた神の支配が広がるように、共に祈りましょう。
    0 min
  • 御名をあがめさせたまえ(ヨブ記 42章)
    「これは何者か。知識もないのに
    神の経綸を隠そうとするとは。」
    そのとおりです。
    わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
    驚くべき御業をあげつらっておりました。
    …
    あなたのことを、耳にしてはおりました。
    しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
    (ヨブ記42章3節~5節)
    神の御名が正しくあがめられるとはどういうことでしょうか。それは、人が神について正しく知ること、そして神の栄光が地上に現されることです。神は栄光に満ちたお方ですから、栄光が増えたり減ったりすることはありません。しかし、私たちの罪が神の栄光の光を曇らせることがあります。
    ヨブはひどい苦しみに遭いました。息子、娘、財産を失い、さらに自分はひどい皮膚病になったのです。ヨブ記は、慰めるために来た友人たちとヨブとの対話です。神に逆らった結果、裁きを受けているのだという友人の言葉にヨブは納得しません。神から直接の答えをヨブは望みました。
    そのようなヨブにとうとう神は現れ、語りかけます。神が語られたのは創造の御業についてであり、ヨブが求めていた苦難の意味など一切、答えてはおられません。しかし、ヨブは納得したのです。
    ヨブが最後に沈黙したように、私たちも生ける神の前に静まることが求められているのではないでしょうか。不平をつぶやくのを止め、神を見上げる。そこからふさわしい神賛美が生まれます。
    0 min
  • わたしたちの父よ(マタイによる福音書 23章)
    「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。」
    (マタイによる福音書23章8節~9節)
    たとえば、教師が生徒に「ここを直せばあなたはよくなる」と話します。親は我が子に「もう少し努力すれば必ずよくなる」と熱く語ります。けれども、語った本人は口先だけで、自分はしていないことがあります。上に立つ者の立派な言葉は、その人自身の行動によって試されます。
    主イエスは、「父」とも呼ばれた律法の教師の偽善を暴かれました。彼らの行動は「すべて人に見せるため」でした(5節)。それに対して主イエスは、本当の教師であるのにどこまでもへりくだって、最後にはご自分の命さえ差し出してくださいました。この犠牲ゆえに私たちは神の子とされました。
    「地上の者を『父』と呼んではならない」という主イエスの言葉は、地上の家族を相対化させ、血のつながりを越えた家族の存在を示します。それが私たちの教会です。
    教会には、血のつながり以上の愛の関係があります。一人で祈るときも、それは孤独な祈りではありません。主は「わたしたちの父よ」と祈るように教えられました。「わたしたち」、小さなこの言葉は、「わたし」の壁を越えて共に祈ることへの招きです。
    0 min
  • 天におられるわたしたちの父よ(マタイによる福音書 6章)
    「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
    『天におられるわたしたちの父よ、…』」
    (マタイによる福音書6章7節~9節)
    私たちは、ひどい病気ではないかという不安な気持ちで病院に行くことがあります。原因が分からないと不安です。医者は病気の原因をつきとめ、薬を出して治すことができますし、不安の理由も病人以上に知っています。
    私たちの祈りもこれと似たところがないでしょうか。私たちは自分に起きている危機が何であるか分からず、さらにどうしたらよいのかも知りません。医者が病人よりも病気のことを知っているように、まして父なる神は子である私たちの必要を願う前からすべてご存じです。くどくどと言葉を重ねて祈らなくても、ご存じなのです。
    それなら、なぜ私たちは祈るのでしょうか。神がすべてを知っておられるなら、祈る必要はないのではないかと疑問が起こります。
    しかし、主イエスは祈りの手本として主の祈りを教えてくださいました。それは私たちが心を神に向けるためです。神は恵みを与えようと常に待ち構えておられます。そして、私たちが祈るとき、神はいつも恵みを与えてくださいます。祈りによる神との交わりそれ自体が恵みなのです。
    0 min
  • 賛美を通して与えられる力(出エジプト記 15章)
    モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
    主に向かってわたしは歌おう。
    主は大いなる威光を現し
    馬と乗り手を海に投げ込まれた。
    (出エジプト記15章1節)
    モーセとイスラセルの民は葦の海で経験した神の御業を思い、賛美の歌をうたいました。彼らは熱狂と興奮の中で喜びに満たされながら神を賛美したのです。
    賛美について考えるとき、わたしはいつも亡くなられた古川第一郎先生を思い出します。先生はギターを抱えながらよく神を賛美されていたからです。あるとき、用事があってわたしが教会に行ってみると、そこには一人で熱心に神を賛美している古川先生の姿がありました。あまりにも大きな声で何度も賛美する先生に圧倒されて、わたしは「先生、きょうは調子がいいですね」と声を掛けました。すると先生はすぐに首を横に振って、「そうじゃないよ。僕はきょう調子が悪いから神を賛美しているんだよ」と答えられたのです。
    深刻な病を背負いながらも、いつも情熱を持って神のために奉仕しておられた古川先生。そのエネルギーの源は神を賛美することにあったことを、わたしはそのとき知りました。
    賛美は神に従って生きようと決心する私たちを励まします。喜びのときに、そして苦しいときにこそ。神が賛美する者に新たな力を与えてくださるからです。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners