リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • まことの贖いを求めるへりくだり(レビ記 15-16章)
    以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第7の月の10日にはあなたたちは苦行をする。…なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。
    (レビ記16章29節~31節)
    今年は9月18日が「大贖罪日」、ユダヤ人にとって最も大切な日です。年に一度この日に大祭司が至聖所に入り、贖いの儀式を行います。「彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、…贖いの儀式を行う」(16章16節)。
    きょうの個所で二度、「あなたたちは苦行をする」と繰り返されていますが、これは直訳すると「あなたたちの魂を低くせよ」という命令です。新改訳が「自らを戒めなければならない」と訳すとおり、悔い改め・へりくだりが求められています。
    ヘブライ書はイエス・キリストがまことの大祭司としてこの贖いの業を成し遂げられたことを告げています。この贖いの業は「大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません」(9章25節)。私たちが「その身を清めるならば、…キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(同13、14節)。
    このような贖いの業の前に、私たちは自らの魂を低くしなければなりません。
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  • 宿営の外に(レビ記 13-14章)
    重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。
    (レビ記13章45節~46節)
    神は、たびたび重い皮膚病で人を打つことがありました。たとえば、傲慢さのゆえにこの病にかかった人の例として、モーセの姉ミリアム(民12章)や、ユダの王ウジヤ(歴下26章16~21節)が挙げられます。重い皮膚病の人は宿営の外に隔離され、悔い改めのときのように「衣服を裂き、『わたしは汚れた者です』と呼ばわらねばならない」と、命じられました。
    しかし、神はまた、ヨブのように無垢な人をも重い皮膚病で打たれることがありました。ヨブは嘆いて言いました。「わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ」(ヨブ19章21節)。
    イエス・キリストの前に重い皮膚病を患っている人が来ました。主イエスは、ヨブの祈りに応えるかのようにその人を「深く憐れんで」、その人に「触れ」、「清くなれ」とお命じになります。すると病は去り、彼は交わりに戻ることができました。その後、主イエスはどこへ行かれたか。「町の外の人のいない所におられた」(マコ1章45節)。その人が隔離されていた場所です。主はこのように私たちを憐れみ、私たちの病を担い、身代わりになってくださいました。
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  • 主が命じられたとおりに(レビ記 9-12章)
    なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、2羽の山鳩または2羽の家鳩を携えて行き、1羽を焼き尽くす献げ物とし、もう1羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。
    (レビ記12章8節)
    献げ物の規定に従って、まずモーセがアロンとその子らのために贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、任職の献げ物をささげました。モーセが行ったことは「主の命じられたとおり」であったと繰り返されています(8章4節ほか)。
    9章ではアロンが献げ物をささげました。ささげ終えてモーセとアロンが民を祝福すると、主の御前から炎が出て、献げ物をなめ尽くし、これを見た民全員は喜びの声を上げてひれ伏した、とあります(9章24節)。
    しかし、もう10章でさっそく違反があったと記されています。最初から違反がある悲しさ。これが御言葉に従い得ない人間の姿です。
    11章は清い動物・汚れた動物についての規定です。ユダヤ人が今も守っている規定です。ペトロも主が命じられたとおりに生きていました。使徒言行録10章でペトロが見た幻は、この規定を克服するためのものでした。
    12章は産婦についての規定です。この中に貧しくて小羊に手が届かない人のための規定もありました。これに従って母マリアも、主が命じられたとおりに献げ物をささげたのでした。
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  • 神との和解の食卓(レビ記 6-8章)
    主にささげる和解の献げ物についての指示は次のとおりである。
    それを感謝の献げ物としてささげる場合、献げ物にする動物のほかに、…輪形のパン、オリーブ油を塗った薄焼きパン…更に酵母を入れて作った輪形のパンをささげる。彼はそれぞれの献げ物から1個ずつを奉納物として主にささげる。
    (レビ記7章11節~14節)
    1章から5章まで、5つの献げ物について命じられてきました。6、7章は、それらを行う祭司アロンとその子らへの指示が記されています。ここでの順序を見ると、(1)焼き尽くす献げ物、(2)穀物の献げ物、(3)贖罪の献げ物、(4)賠償の献げ物、(5)和解の献げ物となっています。贖罪・賠償が済んでから和解が成る、という流れにも見えます。
    和解の献げ物は、「感謝」、「満願(誓願の期間満了)」のとき、また自らの意志で「随意」に献げられます。和解の献げ物は、肉だけでなく、パンも共にささげることが定められていました。肉とパンが並んで、まるで食卓のようです。この和解の献げ物だけは、民も食べることができました。神との和解が成ったときに、献げ物は執り成してくれた祭司と共に与る、神の御前での食事となるのです。
    ご自身をささげられたイエス・キリストというまことの祭司によって神と和解させていただいた私たちの食卓は、なおのこと、毎食が主への献げ物、神の御前での食卓でありたいと思わされます。食前の感謝の祈りをささげるときにも、神との和解を想いたいのです。
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  • 彼らの罪は赦される(レビ記 3-5章)
    祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に7度血を振りまく。…祭司がこうして罪を贖う儀式を行うと、彼らの罪は赦される。雄牛の残骸は宿営の外に運び出して、…焼却する。これが会衆の贖罪の献げ物である。
    (レビ記4章16節~21節)
    3章から5章には、和解の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物について記されていますが、同じことの繰り返しのように見えます。しかし、一つ一つの事例について、「彼(ら)の罪は赦される」という言葉に至っていることに思いを向けたいと思います。
    ヘブライ人への手紙13章11節に「罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです」とあります。確かにきょうのレビ記の個所にそう書かれています。それを解説してヘブライ人への手紙はこう続けます。「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」(同12節)。ゴルゴタの丘は都の外にありました。主はそこで血を流されたのでした。
    イザヤ書53章10節には「彼は自らを償いの献げ物とした」とあります。主イエスは私たちのために、御自分をそのように献げてくださったのでした。「祭司が彼のために主の御前で罪を贖う儀式を行うと、責めを負ったすべてのことに赦しが与えられる」(レビ5章26節)。なんと感謝すべき宣言でしょうか。
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  • 主が覚えてくださる(レビ記 1-2章)
    アロンの子らである祭司たちのもとに持って行くと、祭司の1人がその中からオリーブ油のかかった上等の小麦粉一つかみと乳香全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして煙にする。これが燃やして主にささげる宥めの香りである。
    (レビ記2章2節)
    細かな規定の文章が続くため、レビ記で通読を中断してしまいがちです。しかし、レビ記の言葉は今も生きていて、ユダヤ人はこの食物規定を守って生活していますし、バスの中にレビ記の言葉を見かけることもあります。主イエスの贖いの御業の恵みを深く知るためにも、レビ記の理解は欠かせません。ぜひとも読み続けてください。
    動物犠牲の記述は、滅多に自分で動物や鳥を捌かない日本人には縁遠いもののように感じられるでしょう。しかし、ユダヤ人にとっては自らの食生活と密接に関係していました。日々の食生活と献げ物は直結しています。
    2章の中で3度「しるし」という言葉が出てきます(2、9、16節)。「記念」「覚え」とも訳されます。使徒言行録のコルネリウスはローマ人でしたが、神を信じ、ユダヤの習慣に従って生活していました。そのコルネリウスに「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」と天使が語りかけます(10章5節)。レビ記の「しるし」はこの「覚え」と同じ言葉です。立ち上る香りは、私たちの祈りが天に通じ、主に覚えていただくためのものでした。
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  • 己を捨て主に従う(マタイによる福音書 16章21-28節)
    「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
    (マタイによる福音書16章24節~25節)
    ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表したにもかかわらず、神の子である主イエスが地上に来られた使命を十分に理解していませんでした。主イエスがこれから起こるご自身の十字架と復活について告知されると、人間の思いで「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ってしまいました。
    ペトロの言葉は、主イエスには、あの荒れ野のサタンの試みの再来と思われました。「サタン、引き下がれ、お前は神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責して、主イエスは弟子たちに言われました。「わたしの弟子として従うなら、己を捨て、わたしと共に十字架を背負って歩きなさい。どのような時にもわたしへの信頼を持ち続けなさい。そうすれば、終わりの裁きの時に、それぞれの信仰のあり様に従って、主なる神は報いてくださる」と。
    私たちは、ついつい自分の思いで主のご意志から離れ、心の内の誘惑に負けそうになります。しかし、主イエスは私たちの弱さをご存知で、叱責し、励ましてくださいます。終末の希望の中で信仰を守り続けていきたいものです。
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  • 光の子、昼の子(テサロニケの信徒への手紙一 5章)
    兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。
    (テサロニケの信徒への手紙一5章1節~2節、5節)
    「何々の子」という表現は、その特質、性質にあずかっている者ということを意味します。ですから、「光の子」というのは、光の中を歩み、光の中に住んでいる、その存在が光によって特色づけられているということです。
    夜、また暗闇に属している間、私たちは罪の中にとどまっていました。けれども、主イエス・キリストの十字架と復活によって罪の暗闇から解放され、キリストに結ばれたのです。真の光であるキリストの内にいる。それゆえ、光、また昼に属する者です。ですから、私たちは自分が光の子、昼に属する者であることをわきまえて、キリストに結ばれている自覚の中で歩みます。
    キリストの再臨の日である「主の日」は、いつ来るのかわかりません。けれども、それは、「盗人のように突然」襲うのではありません。主の日が来ることは主イエス・キリストの確かな約束だからです。
    昼に属する者として、神の御言葉に導かれて歩むことが大切です。御言葉に聞き続けることによって、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」歩むことへと、私たちは整えられます。
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  • 御言葉によって励まし合う(テサロニケの信徒への手紙一 4章)
    このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
    (テサロニケの信徒への手紙一4章17節~18節)
    復活の主キリストの再臨の時にはキリストに結ばれて死んだ者たちが復活し、生きて主を待ち望んでいた者たちも共に引きあげられます。そうして、「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。その時こそが神の国の完成の時、「神が我らと共におられる」インマヌエルの時です。私たちの希望はここにあります。
    キリストの十字架と復活を信じ、キリストに結ばれている者にとっても、死は嘆き悲しみです。しかし、キリスト者にとって、もはや死は希望のない悲しみではありません。なぜなら私たちはキリストにある復活の希望を抱くものであるからです。
    パウロはテサロニケの教会に対して、「この言葉によって励まし合いなさい」と勧めます。私たちはひとりで聖書を読んで慰めや励ましを与えられることを経験します。しかし、同時に私たちは、教会で兄弟姉妹として御言葉をもって互いに慰め励まし合います。そのようにして励まし合いつつ希望に向って共に歩むのがキリストの教会です。私たちは心から主の再臨を祈り求め、その時を待ち望みつつ一日一日を歩みます。
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  • 信仰と愛(テサロニケの信徒への手紙一 3章)
    ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。
    (テサロニケの信徒への手紙一3章6節)
    パウロは、テサロニケのキリスト者たちのことを心配してテモテを派遣していました。そのテモテが戻って来て、困難や迫害の中でも「信仰」を堅く保っていると報告します。苦難の中での彼らの信仰の動揺を心配していたパウロにとって、これはうれしい知らせでした。
    テモテは、彼らの「信仰」についてだけではなく彼らの「愛」についても報告しています。教会の兄弟姉妹のために、あるいは隣人のために、自らを犠牲にし、見返りを求めない、そのような愛の姿がテサロニケの教会にありました。
    「信仰と愛」、これは神が私たちに求めておられることを端的にあらわした言葉です。「愛のない信仰」でも「信仰のない愛」でもありません。「信仰と愛」、二つのことは本来、切り離すことはできないはずです。しかし、切り離されないはずのこの二つのことを、私たちは切り離してしまうことがあります。
    たとえ、どのような困難、苦しみの中にあっても、「信仰と愛」を堅く保ち、それを増し加えさせてくださるように祈りつつ、歩んでいきたいものです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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