リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • 信仰は聞くことによる(ローマの信徒への手紙 10章)
    実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
    (ローマの信徒への手紙10章17節)
    信仰は人間の内なる何かによって生み出されるのではありません。人間が積み上げる功績や、何かの宗教体験によって生じるのでもありません。信仰はキリストから来ます。キリストが私たちに近づいてくださる。そのキリストを信じ、受け入れることが信仰です。
    そして神は、罪人を救う救いの手段、またご自身と人間との交わりの手段として、言葉を用いることを御心とされました。それゆえ、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」のです。
    「聞くこと」とは、キリストを説教する言葉を聞くことです。礼拝においてキリストを証しする書である聖書が朗読され、説き明かされる。このキリストの言葉、キリストを語る説教を聞くことによって、人は信仰へと導かれるのです。
    さらに、聞くことは生きることとひとつに結びついています。キリストの言葉を信じ、生きる者は「永遠の命を得」、「死から命へと移っている」のです。「今やその時」、「その声を聞いた者は生きる」のです(ヨハ5章24、25節)。
    0 min
  • 神のはからい(ローマの信徒への手紙 9章)
    このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
    (ローマの信徒への手紙9章18節)
    パウロは異邦人伝道のために召された人でした。そのパウロが目の当たりにしていたのは、異邦人たちがキリストを信じ、受け入れている一方で、イスラエル人たちが福音を拒んでいるという現実でした。神の選びの民がキリストを拒絶するなどということがなぜ起こるのか。これは深刻な問いであったのです。
    人間の思いを越えた神の御心、人の意志や努力によらない神の自由な恵みを知ろうとするなら、人間的な考えから離れなければなりません。つまり、神の言葉に聞くほかはありません。この事柄について、聖書は何と言っているでしょうか。
    神はくすしいご計画により、あえて選びの民をかたくなにされたのです。キリストを十字架につけたことは、もちろんイスラエルの罪です。しかし、もしもイスラエルがキリストを十字架につけなかったとしたら、人類を罪と死の支配から解き放つ神の救いの御業が成し遂げられることはありませんでした。神の大いなる憐れみが世に示されることはなかったのです。神は私たちの思いを越えて、しかし確かに、私たちに憐れみを与えてくださるお方です。
    0 min
  • 福音によって踊るように(マタイによる福音書 11章16-19,25-30節)
    「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
    (マタイによる福音書11章28節~30節)
    主イエスが福音の「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」人たちがいました。それは、御声に反応しなかった人びとの姿を描いています。ユダヤ人は自分たちの伝統に縛られて、真の知恵者イエスのお招きを拒んでしまいました(11章25~27節)。
    主イエスは、いつも「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と人びとをお招きになります。その招きは単に聖書について学ぶことではなく、その御言葉を語られた主イエスご自身との人格的な関係への招きです。ですから、主イエスの招きは、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。私たちはただ主イエスの内で真の休みを享受して、主イエスとの人格的関係の内で生きるものとされています。主イエスに従う軛は負いやすく、主イエスから与えられるキリスト者の荷は軽いからです。
    私たちは福音の時代に生きています。しかし、伝統や民族文化や世の常識に縛られて、真の安息を知らずに生きる人びとがいます。この方たちが主イエスの内で休めるよう、福音を伝えて歩みましょう。
    0 min
  • 勝利の歌(ローマの信徒への手紙 8章)
    わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
    (ローマの信徒への手紙8章38節~39節)
    私たちを神の愛、キリストの愛から引き離そうとするこの世のもろもろの力が存在します。しかし、それらの力のすべてを結集しても到底及ばない絶大な力があります。それは、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された」神の愛の力です。
    人間の根本問題は、いかにして死に打ち勝つ命を得るかということです。パウロがここで並べている諸力は私たちを命の神から引き離そうとするもろもろの力です。罪の力、死の力です。
    しかし、神の愛は罪に勝利し、死を滅ぼし、罪人に命をもたらす力として働きました。神は私たちに生きよと仰せになり、私たちのために絶大な命の力を、あの十字架の上でふるってくださったのです。キリストは十字架の上で罪と死に勝利された、その勝利がそのまま私たちにもたらされたのです。
    それゆえ、私たちに死をもたらそうとするいかなる力も、今や私たちを神の愛から引き離すことはできません。この勝利の歌は、私たちの歌です。この歌をうたい続けることがゆるされる人生とは、いかに幸いなことでしょうか。
    0 min
  • 人間の惨めさ(ローマの信徒への手紙 7章)
    わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
    (ローマの信徒への手紙7章24節)
    パウロはここで、人間の本来的な惨めさについて語ります。それは、自分の望む善を行わず、望まない悪を行っているとの自己矛盾、自己分裂の中に身を置いていることの惨めさです。自分のうちに罪が住み着いている。生まれながらに罪の法則に支配されている。だから善を願いつつ、反対に悪を行ってしまう。そういう自分をどうすることもできないことの惨めさです。
    この罪の問題は、「法則」と呼ばれる以上、パウロひとりの問題ではありません。アダムの子孫である全人類の問題です。パウロとともにすべての人間がこの叫びを叫ばねばならないのです。
    パウロは、だれがこの死の体から自分を救い出してくれるのかと叫びます。すべての人間をこの惨めさから救い出してくださるお方はただおひとりです。第二のアダムすなわちイエス・キリストです。パウロはあのダマスコ途上で、そのお方と出会い、死から命に移されました。聖書を通して、私たちもそのお方と出会うのです。パウロがその生き方を変えられたように、私たちも変えていただくのです。
    0 min
  • 新しい命(ローマの信徒への手紙 6章)
    わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
    (ローマの信徒への手紙6章4節)
    キリストにある新しい命とは、キリストに結ばれた命です。洗礼によって人はキリストに合わせられ、文字どおり一つに結ばれます。
    まず最初に、それはキリストの死にあずかることです。キリストが十字架の上に死なれ、墓に葬られたように、私たちの古い人、第一のアダムもキリストとともに死に、葬られたのです。第一のアダムは第二のアダムの恵みの力により、息の根を止められたのです。罪のわたしはそこで死んだのです。
    次に、それはキリストの復活にあずかることです。キリストが死者の中から復活させられたように私たちも新しい命によみがえり、罪と死の支配から完全に解き放たれた新しい人間として生き始めるのです。
    御子を信じる者たちは、御子の死と命にあやかります。御子を信じる者たちは、今や死から命へと移っています。死ぬことのない永遠の命、新しい命を生きる祝福を分け与えられています。それは御子をよみがえらせた全能の神の恵みによることです。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(23節)。
    0 min
  • 第二のアダム(ローマの信徒への手紙 5章)
    しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
    (ローマの信徒への手紙5章15節)
    最初の人間、全人類の代表、典型的人間、まさに「人間」そのものであるアダムから、罪と死が人類に入りました。しかし、聖書はもうひとりのアダム、すなわちキリストについても語ります。救いの秘義があきらかにされます。この第二のアダムが、人類を罪と死から救い出したのです。
    第二のアダムの到来により、死はその意味を大きく変えられました。第二のアダムはまさに転換点です。滅びから救い、死から命への転換点です。第二のアダムにより、私たちは罪と死の支配から救い出されました。自分自身の救いに関して、私たちは指一本触れていません。触れることができません。独り子を十字架に死なせる神の愛によって、人は救いを受けるのです。
    「恵みの賜物は、罪とは比較になりません」。第一のアダムにある死の支配と、第二のアダムにある命の支配とは比較になりません。神の力、神の愛と赦しと命の力は、罪と死の力をはるかに凌駕するのです。神の命が人の死を圧倒するのです。この神の命が、私たちのうちにきょうも輝いています。いつまでも輝き続けます。
    0 min
  • 復活信仰(ローマの信徒への手紙 4章)
    死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
    (ローマの信徒への手紙4章17節)
    復活信仰とは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じる信仰です。すなわち、罪と死の支配の中ではじめて生き生きと働く信仰です。信じる者が無一物になってはじめて、圧倒的な力で支える信仰です。
    私たちはこの世にあって、さまざまなものに依り頼んでいます(地位や富、家庭や職場、健康等)。しかし、世と世のものは過ぎ去ります。復活信仰は、私たちがおのおのの大切なものにしがみつき、それらのものを土台としているうちはわからないでしょう。裸になって、無一物になってはじめて永遠なる神と向き合い得るということがあるでしょう。そこでこそ神の御顔がはっきりと見え、命と救いの問題が根本的なしかたで掘り下げられるということがあるでしょう。
    アブラハムは裸になって神と向き合い、信仰とは人間を贖い、赦し、よみがえらせ、永遠の命に生かす神の力に依り頼むことであるとの事実を身をもってさし示しました。彼は私たちの信仰の父です。彼が得た義は、復活の主イエスへの信仰により、私たちにももたらされるものです。
    0 min
  • 贖いの恵み(ローマの信徒への手紙 3章)
    人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
    (ローマの信徒への手紙3章23節~24節)
    イエス・キリストは罪なきお方でした。そのお方が十字架につけられて死なれました。十字架は罪の刑罰です。罪なきお方が罪の刑罰を受けられた。なぜそのようなことが起こったのでしょうか。
    イエス・キリストは、私たちの身代わりとなって、十字架の上で尊い血潮を流されました。神の子キリストは私たち罪人のひとりに数えられ、私たちの罪の現実のただ中に入って来られました。そして私たちの死をその身に引き受け、死なれました。
    キリストの死は、私たちのための贖いの死でした。罪の代価を支払うべきは、本当は私たち自身のはずでした。しかし、神は私たちを憐れみ、愛する独り子を十字架に死なせ、自らこの尊い代価を支払ってくださったのです。
    独り子を死なせるほどの愛。この神の愛ゆえに、私たちは罪と死の牢獄から釈放され、自由の身となったのです。ここに命があり、ここに救いがある。天来の言葉、すなわち、天から語られる言葉に教えられることによってのみ、私たちはこの恵みの真理に至るのです。
    0 min
  • 主イエスを拒んでいる世に福音を(マタイによる福音書 10章40-42節)
    「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
    (マタイによる福音書10章42節)
    主イエスは、ご自分が派遣された弟子たちを受け入れることは、主イエスを受け入れることであり、主イエスご自身を受け入れることは、主イエスを遣わされた主なる神を受け入れることであると言われました(40節)。その受け入れ方から考えると、弟子たちがキリストと一体になるというのはとてもすばらしい奥義です。
    福音伝道におけるこの一体の原理は、この後にも、印象的に示されます(25章31~46節)。このすばらしい宣言は、人びとから拒まれても耐えながら福音を宣べ伝える弟子たちにとって、限りない励ましになったことは明らかです。そして、主イエスは、そのような弟子たちを受け入れる人びとに「報い」を与えられると約束されました。冷たい水一杯を飲ませる行為さえ主イエスから報いを受ける、と言われました。
    これは、主なる神の報いが人びとの期待とは比較することができないほどの恵みである、ということです(25章37~39節)。主イエスを拒む世に福音を絶え間なく伝えることは、それが取るに足りない小さなものでも、私たちにすばらしい報いが与えられるのです。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners