リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 神を仰ぎ望む(詩編 5編)
    わたしの王、わたしの神よ
    助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。
    あなたに向かって祈ります。
    主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。
    朝ごとに、わたしは御前に訴え出て
    あなたを仰ぎ望みます。
    (詩編5編3節~4節)
    この詩人は、毎朝、神に「訴え出」た上で、神を「仰ぎ望」んでいます。これは「目を凝らして見張る」という意味の言葉で、彼は、神が祈りを無視されるはずがないことを信じ、ただひたすら神の応答を待ち続けているのです。
    私たちは、祈っても、祈ったことすら忘れてしまいます。私たちも彼のように神がどのような素晴らしい答えを用意しておられるのかを期待しつつ、忍耐強く待ちたいと思います。
    この詩人は神殿に入り、礼拝をささげています(8節)。彼を取り巻く環境は、決して生易しいものではありません。しかし、彼は、主の「深い慈しみ」が与えられ、毎朝、神殿に入ることが許され、ひれ伏して祈る礼拝をささげることができています。きっと、これが彼の力の源だったのでしょう。いつも主を避け所とし、主に望みをかけて生きているのです。自分の権力や財力、政治力に望みをかけるのではなく、ただ主に望みをかけるのです。
    私たちも日毎の礼拝の中でそのことを思い起こし、力をいただくことができます。主に望みをかけて、この世の戦いに出て行きましょう。
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  • 主の慈しみに生きる(詩編 4編)
    主の慈しみに生きる人を主は見分けて
    呼び求める声を聞いてくださると知れ。
    平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。
    主よ、あなただけが、確かに
    わたしをここに住まわせてくださるのです。
    (詩編4編4節、9節)
    この詩人は、辱めを受けながらも、「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります」と歌うことができました。なぜでしょうか。それは、彼が「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださる」と信じることができたからです(4節)。
    「慈しみ」とは真実の愛、決して裏切らない愛、と言い換えることができるでしょう。私たちに注がれる神の愛は変わることがないのです。そして、その「慈しみに生きる」とは、主の愛のみに依り頼んで生きることです。主は、そのように生きる人間を見分け、その呼び求める声を聞いてくださいます。
    それでは、神が私たちの最も切実な叫びに答えて与えてくださったものとは、いったい何だったでしょうか。それは、ご自身の独り子イエス・キリストでした。このお方こそ、私たちを生かす命のパンです。神の慈しみは、このお方において完全に現れました。
    この主の愛に感謝し、主の愛のみに依り頼んで生きるときに、どれほどの苦難があっても、何にもまさる喜びが与えられ、平和が与えられるのです。
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  • 主に信頼する(詩編 3編)
    身を横たえて眠り
    わたしはまた、目覚めます。
    主が支えていてくださいます。
    いかに多くの民に包囲されても
    決して恐れません。
    (詩編3編6節~7節)
    この詩人は、「主よ、それでも、あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方」と歌っています(4節)。
    この時、彼の回りには多くの敵がいて、その数が増え続けていました。そして、その敵対する者たちが、「神の救いなどあるものか」と言って、あざ笑っていたのです。
    しかし、この詩人は、「主よ、それでも」と歌うことができました。どんなに多くの敵がいようと、神が目に見えない盾となって囲んでいてくださるので、安心して身を横たえて眠ることができる、と言うのです。
    私たちの回りにも多くの敵がうごめいています。いろいろな落とし穴があり、危険がいっぱいです。そのような中で、私たちも、さまざまな苦しみや悲しみを経験するのです。時には、神は本当に救ってくださるのだろうかという思いに駆られるほど苦しむこともあるでしょう。
    しかし、どのような時であっても主が支えてくださいますから、私たちもぐっすり眠ることができます。この緊張の多い世の中にあってそれができるのは、信仰の大きな恵みなのです。
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  • 主イエスに呼ばれる(マタイによる福音書 9章35節-10章8節)
    十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
    (マタイによる福音書10章2節~4節)
    主イエスに召し出された12人の名簿は示唆に富んでいます。まずペトロの名が挙げられ、彼の兄弟アンデレの名、さらに2組の兄弟たちの名が出てきます。それからマタイの名が「徴税人」の肩書き付きで記され、同じように「熱心党」のシモンが登場します。当時の大国ローマの手先とみられていた人と、民族の独立を願う人が、共にこの一団の中にいました。イスカリオテのユダを別に考えても、一般的な団体では、こうした人選は行われないでしょう。主イエスの群れは、物の考え方や意見、主張の違いによって枠づけられないことを思い起こさせてくれます。
    主イエスは、不揃いな石の集まりのような群れに福音を伝える権威を授けられ、世に働きかける器とされました。この群れは、党派の原理、すなわち、周りに垣根を巡らして人々を囲い込もうとするあり方とは異なる原理の下にあります。イエス・キリストの教会は、色彩豊かです。私たちは同じ色だから集められるのではありません。また、一色になるように集められるのでもありません。主イエスに呼ばれる、このことが私たちを結びつけています。
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  • 身を横たえて眠る(詩編 2編)
    すべての王よ、今や目覚めよ。
    地を治める者よ、諭しを受けよ。
    畏れ敬って、主に仕え
    おののきつつ、喜び躍れ。
    子に口づけせよ
    主の憤りを招き、道を失うことのないように。
    主の怒りはまたたくまに燃え上がる。
    いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。
    (詩編2編10節~12節)
    新約時代を生きる私たちは、イエス・キリストを指し示すものとして、この詩を読むことができます。地上の王たちは、「主の油注がれた方」(メシア、救い主)に逆らい、その主権を奪い取ろうとします。しかし、神は王たちをあざ笑って言われます。「わたしは自ら、王を即位させた」と(6節)。神がキリストを王として立てられたのですから、その王権は不動です。
    神は、そのキリストを励まして、最愛の子であることを確認されます。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」と(7節)。そして、「わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」と言って、キリストに全世界の所有権を与えられるのです(8節)。
    「すべての王よ、今や目覚めよ。…子に口づけせよ」と言われます(10、12節)。足に口づけすることは家来になる誓いです。私たちのために神の怒りと呪いをすべて引き受けてくださったイエス・キリストが、まことの王として神の右に座しておられます。そのキリストが私たちの主であることを心から喜び、心晴れやかに主の僕となる誓いをいたしましょう。
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  • 幸いな人(詩編 1編)
    いかに幸いなことか
    神に逆らう者の計らいに従って歩まず
    罪ある者の道にとどまらず
    傲慢な者と共に座らず
    主の教えを愛し
    その教えを昼も夜も口ずさむ人。
    (詩編1編1節~2節)
    この詩人は、「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座ら」ない人は、と言います。誘惑の多いこの世にあって、たとえ誘惑に負けそうになっても、決して諦めずに戦い続ける人。自分が罪ある人間であることを認めて、悔い改めつつ、良心に恥じることのないまっすぐな人生を送る人。自分の力に酔いしれ、傲慢に振る舞う人たちとは一線を画し、常に謙遜に歩む人。そのような人こそ、まさに幸いな人と言えるでしょう。
    それでは、そのような人生を送ることができるのは、どんな人でしょうか。この詩人は、それは「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」なのだ、と言います。神の教えをただ義務的に守る人ではなく、神を心から愛し、神と親しい交わりを持ち、それゆえに神の言葉を喜んでいる人です。そのような人は、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉は枯れることがありません。なぜならば、その人は命の源である神にしっかりとつながっているからです。
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  • 一致を保つように(テトスへの手紙 3章)
    愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。
    (テトスへの手紙3章9節~10節)
    パウロは、分裂を引き起こす人に対して、厳しい態度で接するよう命じています。
    実際、教会が分裂するならば、それは単に人間同士の仲違いでは終わりません。教会の分裂とは、キリストの体が痛み、傷つき、血を流すことだからです。そのことで、教会を離れ信仰を失うようなことが起こるなら、それはその人の命(永遠の命)に関わる、大変なことなのです。
    教会の分裂において、キリストを信じる者たちを神の愛と神の国から離れさせようとする、サタンの策略があります。そのためパウロは、愚かな議論、詮索、争いを避けるように勧めます。サタンの策略に絡め取られてはならないからです。私たちはむしろ、洗礼や信仰告白に際して、教会の「純潔と平和とのために努める」と誓約したことを思い起こして、教会の一致を保つように努めます。
    私たちの一致の土台は、十字架の死に至るまでへりくだられた主イエス・キリストです(フィリ2章4~11節参照)。キリストのゆえに、「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接する」ことを心がけるのです(2節)。
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  • 信じることと生きること(テトスへの手紙 2章)
    その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
    (テトスへの手紙2章12節~13節)
    パウロは1章16節で、「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定している」人々がいることを指摘しました。それでは本当の意味で神を知り、キリストを信じているとは言えないからです。ここでパウロは、それぞれが置かれた背景、年齢、立場に応じて「思慮深く、正しく、信心深く生活するように」と勧めます。そのようにして、「わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かす」生き方をするように、と(10節)。
    私たちも、心の中に、「信仰と行いは別、信じていればそれでいい」という思いはないでしょうか。自分の生き方をそんなふうに言い訳していないでしょうか。
    大切に心に留めておきましょう。神の恵み、キリストの救いは、信じる者に罪の赦しを与えますが、それだけではありません。信仰者はキリストに結ばれて、少しずつキリストに似たものとして整えられます。すなわち、私たちの行いが、生き方が、神の恵みによって現実に変えられていくのです。「信じることと生きること」、それは別々のことではなく、一つのことだからです。
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  • 長老の資格 (テトスへの手紙 1章)
    あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。
    (テトスへの手紙1章5節)
    パウロはテトスをクレタ島に残し、町ごとに長老を立てるよう命じています。
    私たち「日本キリスト改革派教会」も、長老が教会を治める働きを担います。長老は会員の選挙で選ばれます。教会に牧師を招く場合も同様に選挙で選ばれます。そして選挙の結果を、私たちは「示された神のご意志」と受け止めます。
    しかし、パウロが6節から9節で示しているような厳しい基準を求められたなら、果たして適格者がいるでしょうか。まして家族のことまで問われるとしたら、本当に立つ瀬がない!と思う人が多いのではないでしょうか。
    私たちは皆「土の器」ですから、牧師も長老も、神の赦しと助けがなければその働きを全うすることはできません。私たちはそのことを覚えた上で、選ばれた者は少しでもこの基準に近づく努力をし、選んだ者たちは祈りをもって支える、ということが必要でしょう。
    欠けを批判するのではなく、補い支え合いながら、キリストの教会を愛し、建て上げていく努力が一人一人に求められています。
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  • 皆が一つとなって(イザヤ書 66章)
    彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。
    (イザヤ書66章20節)
    イザヤ書の最終章を迎えました。「神に嘆き訴える共同体の祈り」に対する神の答えの残りの部分です。終わりの日にもたらされる回復が、従わない者への審判と共に語られています。
    神は全世界からご自分の民を集められます。19節に出てくる地名は、当時として考えられる限り、エルサレムからもっとも遠い国々です。それらの国の「彼ら」が「あなたたちのすべての兄弟」を神への献げ物として連れて来るのです。21節では、彼らの中から祭司やレビ人が選ばれることまで述べられます。すなわち、終わりの日に、もはや民族的にイスラエルであるかどうかを問われることなく、一つになって神を礼拝する時が来るということです。神を礼拝することこそ神の民である理由だからです。
    今の私たちの状態を見るならば、小さな一つのことが不和の原因となり、真の完全な礼拝からは、なお遠く隔たっていると思えることがあるでしょう。しかし神は、アブラハムに対する約束を守られます(創12章2、3節参照)。私たちも、この終わりの日の完成を祈り願いましょう。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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