リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • イエスは立ち上がり(マタイによる福音書 9章9-13,18-26節)
    ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。
    (マタイによる福音書9章18節~19節)
    年齢も境遇も違う二人の女性。一人は長く病気に苦しむ孤独なひと。もう一人は人望の厚い父親に愛されている少女。しかし二人は、不安と絶望のうちにあることにおいて結ばれています。主は、彼女たちを癒やしてくださいました。
    福音書における主の癒やしは、思えば、どれも唯一の救いの恵みを証ししています。このことが、二人の女性の癒やしが重なりあうことでよく見えてきます。孤独な女性は、すこやかに歩みはじめます。少女についてはこう記されています。「少女は起き上がった」。彼女たちの癒やしは、死の陰の世界に光が輝いていることを告げるものです(イザ書9章1節)。すなわち、私たちは起き上がり、すこやかに生きる者とされます。
    この恵みは、自ら倒れ、起き上がった方によります。主イエスが「立ち上がり」と記されていることが印象的です。さらに、「ついて行かれた」とあり、主が悩む者に寄り添うお方であることが表れています。私たちを生かす支えがここに示されています。私たちのために倒れ、起き上がられたキリストが、私たちと歩みを共にしておられます。
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  • 喜び楽しむ神の民(イザヤ書 65章)
    見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
    初めからのことを思い起こす者はない。
    それはだれの心にも上ることはない。
    代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
    わたしは創造する。
    見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
    その民を喜び楽しむものとして、創造する。
    (イザヤ書65章17節~18節)
    「神に嘆き訴える共同体の祈り」に答える言葉が、イザヤ書最後の2章です。65章の前半では神に従わない者への審判が告げられ、敬虔な人に対する祝福も語られています。後半では終わりの日の回復が語られ、17節以下は旧約聖書の中でもっとも美しい終末預言と言われています。
    「創造する」という言葉は創世記で使われているのと同じで「何もないところから造る」という意味です。この箇所では、「初めからのもの」があるので、「再創造」を意味していることが分かります。神が与える救いは再創造の御業なのです。
    この救いによって与えられるのは、この上もない祝福です。喜び楽しみ、喜び躍るのは、「代々とこしえに」です。23節では、「無駄に労することなく」とも言われます。労働が辛苦に満ちたものとなったのは罪が原因ですが、それも取り去られます。
    そして何よりも神との関係が回復します。24節では、「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」と言われます。このような大きな愛をいただけるようになるのです。
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  • 父のもとに帰ろう(イザヤ書 64章)
    しかし、主よ、あなたは我らの父。
    わたしたちは粘土、あなたは陶工
    わたしたちは皆、あなたの御手の業。
    どうか主が、激しく怒られることなく
    いつまでも悪に心を留められることなく
    あなたの民であるわたしたちすべてに
    目を留めてくださるように。
    (イザヤ書64章7節~8節)
    63章の7節から「神に嘆き訴える共同体の祈り」が始まり、この章の終わりまで続きます。イスラエルが陥っていた罪のゆえに、誰も神を呼ばなくなり、神ご自身も顔を隠しているかのように思われました。
    このような中で、「しかし」と語られます。この言葉は、パウロが使う「しかし、今や」に似て、向きがひっくり返るような強い思想の転換を意味しています(ロマ3章21節等参照)。「陰府のもっとも深いところで神を見いだし、暗黒の中で光がある」とたとえる人もいます。
    神を見失ったと感じて、神が隠れてしまわれたと思えるとき、人は絶望してしまいます。けれども、ここで覚えておくべきことがあります。神こそが唯一の出口です。神の怒りを感じたとしても、神に立ち帰ることがただ一つの解決なのです。
    虫が良すぎる願いであると思うかも知れません。たとえそう思われたとしても、神こそが父であり、創造主であり、贖い主であられますから、父のもとに帰ることが解決となるのです。そのような人を、神は喜んでくださいます。
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  • 神を求める祈り(イザヤ書 63章)
    主は言われた
    彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
    そして主は彼らの救い主となられた。
    彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
    御前に仕える御使いによって彼らを救い
    愛と憐れみをもって彼らを贖い
    昔から常に
    彼らを負い、彼らを担ってくださった。
    (イザヤ書63章8節~9節)
    63章7節からイザヤ書の締めくくりの部分が始まります。64章までは神に嘆き訴える共同体の祈りであると言うことができます。再び現実に引き戻され、数多くの恵みと慈しみを与えてくださった力強い神が、自分たちから遠く感じると訴えています。かつての日々のように力強く御業を行っていただきたいと祈るのです。
    けれども、祈りの底流には喜びと賛美があふれています。それゆえに、ここで目に留まるのは、何と言っても9節でしょう。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし」と言われているからです。神は高く天におられて、私たちの苦しみや悩みを理解されないお方ではありません。むしろ、それらを御自分の苦しみとし、救うために手を尽くされます。
    その神の愛が、キリストにおいて示されています。私たちのところまで降りて来てくださって、苦しみまで共にしてくださり、救いを実現なさいました。この事実を前にするとき、たとえ嘆きや悲しみがあったとしても、神を賛美することができるはずです。
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  • 新しい名が与えられる(イザヤ書 62章)
    諸国の民はあなたの正しさを見
    王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
    主の口が定めた新しい名をもって
    あなたは呼ばれるであろう。
    あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
    あなたの神の御手の中で王冠となる。
    (イザヤ書62章2節~3節)
    神の都であるエルサレムの終末的回復を語る最後の部分です。この御言葉が語る状況について、シオンと呼ばれるエルサレムが「輝かしい冠とな」るとは、とても想像できる状態ではありませんでした。しかし、神はこのことをはっきり見ておられます。そして、やがて来る終わりの日に、もろもろの国民も、その支配者たちも、このことをはっきり見る者とされます。
    「正しさ」とは「神の義」を意味し、神が与える救いのことです。その輝かしい救いをいただくことは、驚くほど光栄なことです。
    何よりのハイライトは「新しい名」で呼ばれることです。それは「主の口」が定めたものです。名前は本性とか人格を表しますから、これを変えることは実質的な大きな変化があることを意味します。
    ヨハネの黙示録では、「これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名」が記された白い小石のことが語られ、キリスト者一人ひとりに当てはめられています(2章17節)。神の救いは、神の手の中にある冠、王冠へと私たちを造り替えます。神のもっとも愛する者とされる光栄が終わりの日に待っています。
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  • 神の良い知らせ(イザヤ書 61章)
    主はわたしに油を注ぎ
    主なる神の霊がわたしをとらえた。
    わたしを遣わして
    貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
    打ち砕かれた心を包み
    捕らわれ人には自由を
    つながれている人には解放を告知させるために。
    (イザヤ書61章1節)
    60章に引き続いてエルサレムの終末的回復が語られている箇所です。キリストがナザレの会堂で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたものでもあります(ルカ4章21節)。
    語り手は「油注がれた者」です。旧約時代、王や祭司、預言者に油が注がれました。王、祭司、預言者の三職をお持ちのキリストがご自分のことだとおっしゃったのは当然のことです。すべての面で当てはまるからです。
    良い知らせを伝えられる「貧しい人」とは、物質的・金銭的に貧しいということではありません。「捕らわれ」「つながれている」とあるように、打ち砕かれ、絶望している人だと言うことができます。直接的にはバビロン捕囚に遭ったイスラエルの民のことですが、いろいろな状況を考えることができます。罪とか悲しみにまで拡大することができるでしょう。
    それらが取り去られると予告されています。希望的観測からそう言うのではありません。神の民はキリストにあって重荷から解放されます。このお方が涙をぬぐい去ってくださいます。
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  • 恵みの光を反射する (イザヤ書 60章)
    起きよ、光を放て。
    あなたを照らす光は昇り
    主の栄光はあなたの上に輝く。
    見よ、闇は地を覆い
    暗黒が国々を包んでいる。
    しかし、あなたの上には主が輝き出で
    主の栄光があなたの上に現れる。
    (イザヤ書60章1節~2節)
    60章から62章まで、破壊されていたエルサレムの回復が述べられています。あくまで未来における終末的預言として語られますが、神の民は、既にこの一部を味わうものとされています。
    本日の箇所は、本来、囚われ人であるイスラエルを慰める言葉ですが、ヘンデル作曲の「メサイア」の中ではキリストの降誕に当てはめられています。たとえ周りは闇であったとしても、主が神の民を照らすからです。朝日が昇って闇を破るように、主が介入し、主ご自身が光として、霊的な暗黒を砕いてくださいます。このイメージは、後に祭司ザカリアが「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」と言って、救い主を指し示して用いました(ルカ1章78節)。ヨハネの黙示録では新天新地の情景として使っています(21章23節など)。
    ここで目を留める必要があるのは「光を放て」という命令です。私たち自身が光るわけではありませんから、反射せよという意味です。光をいただいた神の民は、その光を証しします。キリストは世を照らす恵みの光ですから、私たちはこのお方の光を反射するのです。
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  • 主と共にある冒険(マタイによる福音書 21-29節)
    「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。…」
    イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
    (マタイによる福音書7章24節~29節)
    主イエスが語られる「岩」は、私たちの持つ普通のイメージを越えています。
    御言葉に信頼して一歩踏み出そうとするとき、「揺れ」を感じるかもしれません。陸地から、湖に浮かぶ小舟に足を乗せるときのような。しかも、そこで迎えてくれるのは、あごひげをたくわえた、青いジャケットに白いズボンの風格ある船長ではありません。御言葉の主は、人目を引く姿を備えてはおられませんでした。
    ときおり、信仰は冒険であると感じます。なにか特別なことをするからではなく、御言葉に信頼して一日をはじめることが。それは自分の人生を、自分の手から離すことだからです。「岩に家を建てる」とは、自分の歩みを、神のご計画にゆだねることだからです。
    けれども、私たちはこの冒険を勇気をもって行うことができます。なぜなら、神の無限の顧みが、イエス・キリストの苦難と勝利において証しされているからです。その御言葉に、私たちは父なる神の呼びかけ、真の故郷への招きを聞きます。そして、従うべき王の言葉をいただきます。わたしについてきなさい!
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  • 神の介入による救い(イザヤ書 59章)
    これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると
    主は言われる。
    あなたの上にあるわたしの霊
    あなたの口においたわたしの言葉は
    あなたの口からも、あなたの子孫の口からも
    あなたの子孫の子孫の口からも
    今も、そしてとこしえに
    離れることはない、と主は言われる。
    (イザヤ書59章21節)
    神と神の民の破れた関係を描いている最後の部分に入ります。救いを妨げているものは、神の側にあるのではなく、神の民が反省せず、神を畏れないことにあります。罪は個人的なことにとどまらず、社会生活にも影響を及ぼして、正義も真実もない世の中にしてしまいます。指導者がそうであれば、国全体がそうなってしまいます。
    使徒パウロは、7節、8節に描かれている状況を全人類に拡大してローマの信徒への手紙で引用しています(3章15~17節参照)。イザヤ書の本来の文脈では、国や社会に蔓延している罪と不正義を指摘することが目的です。その中にいると、どんなに光を求めても、かなわぬ夢に終わってしまいます。
    それゆえ、神自らが救いのために身を乗り出されるのです。もっとも強い神が、その力強い御手をもって臨まれ、自ら救い主となられます。一歩も引かず、強く介入なさいます。
    悔いて砕かれた魂に対して、神は今も身を乗り出してくださいます。神の霊と御言葉が常に共にあるようにしてくださるのです。これが神の約束であり、保証です。
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  • 愛と真実で行動する(イザヤ書 58章)
    わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
    悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて
    虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
    更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
    さまよう貧しい人を家に招き入れ
    裸の人に会えば衣を着せかけ
    同胞に助けを惜しまないこと。
    (イザヤ書58章6節~7節)
    この時代のイスラエルの宗教は形式的には立派なものであったようです。聖書を調べ、律法に従って断食を守り、神に近づくことを喜んでいました。百点満点のようですが、「どうして神は見てくださらないのか」という言葉で、心の本質が明らかになります。(3節参照)。
    そこには、宗教行為を自分の得点と認めていただき、神の御業を催促し、結果として神を自分に取り込もうとする心があります。自分の思いが中心となり、神の示しておられる御旨と比べて、反省することがなく、従おうとする意識もありません。どうもこれは、無意識にそうなっているようです。
    心が悔いて砕かれると、神との新しい関係が始まります。それは本人だけに留まるものではなく、隣人に対する関係も愛と憐れみに基づいたものに変わります。結果として、本日の聖句のような行為になるはずです。
    きょうも新しい一日が始まりました。神に個人的に向き合うだけでなく、その結実として、隣人に対して愛と真実をもって行動しましょう。神はそれを喜んでくださいます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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