リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 打ち砕かれた心(イザヤ書 57章)
    高く、あがめられて、永遠にいまし
    その名を聖と唱えられる方がこう言われる。
    わたしは、高く、聖なる所に住み
    打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
    へりくだる霊の人に命を得させ
    打ち砕かれた心の人に命を得させる。
    (イザヤ書57章15節)
    56章9~12節で、偶像礼拝にふけっていたイスラエルの民が叱責されています。彼らは神のもとに立ち帰ることがなく、神が禁じることをして、この世の享楽にふけり、神を畏れることがありません。
    しかし、それはいつまでも続くわけではありません。終わりの日に、神は大逆転を成し遂げられるからです。その日に備えて、神が用意しておられる霊的な道を知る必要があります。
    それは、「へりくだる」、「打ち砕かれる」という、思わぬものでありました。この「へりくだる」や「打ち砕かれる」とは、単なる謙遜ではありません。また、抽象的に理解されるものでもありません。神の御前に打ち砕かれ倒されるというイメージだからです。
    自分の罪や惨めさを知って打ち砕かれたとき、自分は神から遠いと感じるでしょう。ところが、いと高き所に住まわれる神は、そのような人のところに降りて来られます。この世はこれを矛盾とするでしょう。けれども、私たちは信仰によってこれを理解する幸いが与えられています。
    神の前にへりくだることが、霊的な道を知り、命を与えられる方法なのです。
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  • 新しい神の民(イザヤ書 56章)
    また、主のもとに集って来た異邦人が
    主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
    安息日を守り、それを汚すことなく
    わたしの契約を固く守るなら
    わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
    わたしの祈りの家の喜びの祝いに
    連なることを許す。
    (イザヤ書56章6節~7節)
    56章には、安息日厳守や神殿での犠牲について、記されています。それは、旧約の視点で、神の約束が実現する終局、終末の姿を描こうとするものです。
    終わりの時、本来、約束と無縁であった異邦人が新しい神の民として加えられます(3節)。また、神の民に加わることのできなかった宦官が「とこしえの名」を与えられます(3~5節)。そのために次のことが求められています。安息日を常に守り、汚すことがないこと、悪事を避けて自戒すること、主の望むことを選ぶこと、主の契約を固く守ること、主に仕え、主の名を愛し、その僕となることなどです(2~6節)。
    ユダヤ人になるための割礼については言及されません。ここで言われるのは外形的なことではなく、心から喜んで主を礼拝することだからです。そのような者たちによって新しい神の民が形づくられます。ここに、新約的な原則の先取りを見ることができます。
    新しい家の喜びの祝いは、心から喜んで主を礼拝するすべての民に開かれています。新しい神の民の喜びの祝い(礼拝)に連なることのできる光栄を覚えましょう。
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  • ひたすら待ち望む人(テモテへの手紙二 4章)
    今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
    (テモテへの手紙二4章8節)
    使徒パウロは、最後の試練の中にいます。獄中にいて、苦労の多かった今までの人生を振り返りながら、最期を覚悟して過ごしています。
    パウロに反対する人々がいました。けれども、彼の心は希望に満たされています。福音のためにいろいろなことが起きていますが、待ち望んでいたことに向かって進んでいるからです。パウロは、今や「義の栄冠を受けるばかり」と、確信しています。
    その栄冠は、キリストが再び来られる日に授けられます。その日、キリストは正しい審判者として完全な裁きを行われます。行いはもちろんのこと、取るに足りない言葉まで裁かれます。けれども、信仰者にとって、それは罪の赦しが明らかにされて、義の栄冠を受ける日にほかなりません。その日に目を注いで待ち望むことによって、パウロは、このときまで立派に戦い、決められた道を走り通す者とされました。
    主が来られるのをひたすら待ち望む人々にはだれにでも、義の栄冠が約束されています。福音のためにいろいろなことがあっても、「かの日」を待ち望むなら、確かな慰めがあります。
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  • 自分が学んで確信したこと (テモテへの手紙二 3章)
    あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
    (テモテへの手紙二3章14節~15節)
    「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい」と教えられています(1節)。そのような時代に、どう対応すればよいのでしょうか。
    「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」。学んだのは聖書からです。「自分が学んで確信したこと」が大切です。それがたとえいかに頼りなく小さなもののように思われても、きょう、キリストを信じて喜び、祈り、感謝して生きるには、必要にして、十分です。
    明日への備えが足りないように思われて、不安になるかもしれません。しかし、明日への備えと希望も、すべて聖書にあります。聖書に、「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を…与える」神の力があるからです。聖霊に導かれて聖書に親しむとき、戒められ、誤りを正され、義に導く訓練を受けて、「神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられ」ます(17節)。それが、主なる神の約束です。
    慌てることなく、きょう、御言葉から「自分が学んで確信したこと」にとどまって、主の恵みと平安の中を歩みましょう。
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  • ペンテコステ(4)いつも共におられる神(マタイによる福音書 28章16-20節)
    「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
    (マタイによる福音書28章20節)
    マタイ福音書は、主イエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して、弟子を派遣される場面で終わります。弟子たちにインマヌエル=「神は我々と共におられる」が約束されました(マタ1章23節)。
    この約束が、聖霊の働きによってペンテコステに実現しました。その後、弟子たちは、主イエスに命じられたように、すべての民をキリストの弟子にするために福音宣教に仕えたのです(マタ28章19節)。
    その一人パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とまで言い切りました(ガラ2章20節)。インマヌエルは、決して抽象的な事態ではなく現実だからです。キリストがわたしのような小さな者の内に生きて、わたしを用いてくださいます。
    「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これは、古の詩人が謳った「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」への応答でもあります(詩23編4節)。私たちが福音宣教を続ける時、これほど力強い約束があるでしょうか。
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  • イエス・キリストのことを(テモテへの手紙二 2章)
    イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。
    (テモテへの手紙二2章8節)
    いろいろなことで苦しんだり悩んだりするとき、祈れば祈るほどに苦しくなることがあります。聖書をいくら読んでも、慰めが与えられません。そのようなとき、思い出したい御言葉の一つです。
    「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」。どこに心を向ければよいかを教えられます。いろいろな試練がありますが、その試練の中心にキリストがいてくださらなければ、主の恵みに強められて喜ぶことも、希望に満たされることもできません。
    「この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」。キリストは、ダビデの子孫として一人の人となられました。私たちの苦しみを知らないお方ではありません。私たちの苦しみを背負い、死んで、けれども復活されたお方です。「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる』」(11、12節)。
    さまざまなことが気になるかもしれません。しかし、ただキリストに心を向けるとき、ふさわしい新たな慰めが日ごとに与えられるでしょう。
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  • おくびょうの霊ではなく(テモテへの手紙二 1章)
    神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
    (テモテへの手紙二1章7節)
    神はおくびょうの霊を与えられたのではありません。おくびょうとは萎縮することです。いろいろなことにおいて、勇気を失い、恐れや不安にとらわれてしまう姿です。聖霊の恵みに信頼するとき、それらとはまったく違う思いへと導かれることを覚えたいと思います。
    キリストは世とは違った仕方で、ご自身の平安を与えてくださいます。おくびょうは、神から出てくるものではありません。神は、聖霊を通して、キリストのうちに満ちあふれていたものを与えてくださいます。それはどこまでも謙虚な力です。人知を超えた愛です。何も恐れずに忍耐強く一歩一歩進む思慮分別(自制)です。
    最初から恐れもせず、臆することもないというわけではありません。人としての弱さは逃れようもありません。しかし、聖霊は、そのような人の弱さに寄り添うようにして、力、愛、思慮分別(自制)へと導いてくださいます。人の弱さに同情することができるキリストの霊です。聖霊に満たされて歩むとき、生きづらさを覚える世の中も、違った場所になり始めるのではないでしょうか。
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  • 20180524(イザヤ書 55章)
    わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
    わたしの道はあなたたちの道と異なると
    主は言われる。
    天が地を高く超えているように
    わたしの道は、あなたたちの道を
    わたしの思いは
    あなたたちの思いを、高く超えている。
    (イザヤ書55章8節~9節)
    神は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると」。
    私たちの思いは、魂が満たされることを求めて、いろいろと考えながらさまよいます。幸いや喜び、あるいは問題の解決や罪の赦しを求めて、さまよいます。
    しかし、私たちの魂は、私たちをはるかに超えている主の御言葉に聞き従うときにこそ真に満たされます。まことの幸いと喜びを得ることができるのです。私たちの思いを超えて、罪の赦し、問題の解決を得て、平安に憩うことができます。たとえ神に逆らっていた者であっても、神の憐れみを得て、罪の赦しにあずかることができます。神のいと高き知恵が、主イエス・キリストのへりくだりの低さにおいて現されたからです。十字架のキリストに神の知恵と力があるのです。
    今や主イエス・キリストが私たちと共におられ、御言葉によって魂の平安へと私たちを招いてくださいます。日々、御言葉に聞き従い、私たちの思いを超えた神の恵みにあずかりましょう。そのようにして、私たちは主への感謝と賛美に満たされるのです。
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  • 神の契約は揺らぐことがない(イザヤ書 54章)
    山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
    しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
    わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
    あなたを憐れむ主は言われる。
    (イザヤ書54章10節)
    イスラエルは神に背いたため、神に捨てられた状態になりました。その状態が、夫に捨てられた女、また不妊の女にたとえられています。しかし、そのままで終わってしまうことはありません。
    「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」(8節)。神ご自身がイスラエルを贖い、回復してくださるのです。
    今日の神の民である私たちも、イスラエルのように神に背いて、神の裁きを受けることがあるかもしれません。けれども、主なる神が神の民を見捨てることは決してありません。なぜなら、神の民に対する契約は、たとえ山が移るようなことがあったとしても、決して揺らぐことはないからです。「わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはない」と、神は約束しておられます。
    神の契約は、人間の側の確かさや努力によるのではなく、神の側の契約に対する真実に支えられて、確かです。それゆえ、「平和の契約」と呼ばれます。神の契約の真実に信頼して、私たちは平安でいられるのです。なんと感謝なことでしょうか。
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  • 私たちのための僕の苦難(イザヤ書 53章)
    彼が刺し貫かれたのは
    わたしたちの背きのためであり
    彼が打ち砕かれたのは
    わたしたちの咎のためであった。
    彼の受けた懲らしめによって
    わたしたちに平和が与えられ
    彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
    (イザヤ書53章5節)
    イザヤ書の後半には、繰り返し「僕」が登場します。とくにこの章では、「わたしたち」の身代わりになる僕の姿が描かれています。新約時代に生きる私たちは、この「僕」に救い主イエス・キリストの姿を見ることができます。同時にこの「わたしたち」に自分の姿を見ることができます。私たちの罪のために、主イエスは「刺し貫かれ」、「打ち砕かれ」、「懲らしめ」られ、「神の手にかかり」、十字架で裁かれたのでした(8節)。
    申命記24章16節にこうあります。「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる」。人は、自分の罪のゆえに死に定められるのであって、たとえ親子でも身代わりは駄目だと神は定めておられます。
    しかし、神は、私たちを救うために、ご自分の定められた掟を越えて、御子を身代わりにするという決断をしてくださいました。ですから、これはもはや掟や律法に基づくのではない、ただ一方的な神の恵みによる出来事なのです。私たちの身代わりとして献げられた主イエス・キリストを深く黙想しましょう。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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