リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 祈りによって誰かと共に(テモテへの手紙一 2章)
    そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
    (テモテへの手紙一2章1節)
    「祈るしかないですね」という言葉を聞くことがあります。けれども、本当に祈っているでしょうか。くよくよするだけで、祈らずに終わってしまうことはないでしょうか。祈ることができないのは、ひょっとすると、他人の苦しみを本当に理解し肩代わりすることはできないと思っているからかもしれません。
    確かに私たちは、本当の意味で他人の苦しみを理解することはできないでしょう。けれども、わたし自身、祈られていることに助けられたことがあります。祈りには力があります。
    祈りにおいて大切なことは、祈っている私たちが中心なのではなく、祈りを聞いてくださる生けるまことの神が中心におられるということです。そのお方は、私たち以上に私たちのことをご存じであり、憐れみ深く配慮してくださるお方です。祈りの力は、決して私たちにあるのではなく、神にあります。
    「わたしには祈ることしかできない」、いいえ、むしろ「わたしには祈ることができる!」のです。あなたの執り成しの祈りを待っている人がいるでしょう。私たちは神を信頼して祈ります。
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  • 神の恵みに生きる(テモテへの手紙一 1章)
    わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
    (テモテへの手紙一1章15節~16節)
    学生時代に母教会の牧師から教えられた、大切なことがあります。「イエス様の救いはすばらしい。こんな小さな者に神様はあり余る恵みを与えてくださった」。その牧師は、教会では素朴で裏表のない、面倒見の良い父親のような存在でした。その、自分を誇るのではなく主イエスを誇りとするお姿から、主イエスの救いの貴さを、言葉と背中で教えていただきました。
    わたしはクリスチャンの家庭に育ちました。救いの恵みが頭ではわかっていても、心で理解することがなかなかできませんでした。そのようなわたしにとって、その牧師の存在は、救いの喜びに生きる人のモデルでした。
    主なる神は、小ささや弱さにもかかわらず、私たちを恵みの器として選んでくださいます。罪深い私たちを憐れみ、忍耐し続けてくださいます。それによって、人の立派さではなく、神が恵み深く、偉大なお方であることがあらわされるのです。
    立派であることが求められているのではありません。神の憐れみと忍耐のもとに置かれて、私たちは神の恵みをあらわす器として用いられます。
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  • わたしは羊の門である(ヨハネによる福音書 10章1-10節)
    「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
    (ヨハネによる福音書10章9節)
    共通聖書日課は、復活節に読む個所として必ずヨハネによる福音書10章の「良い羊飼い」の御言葉を選びます。主イエスの復活の命にあずかって、主を信じて生きる生活そのものが、良い羊飼いに養われる幸いな羊の生活です。
    7節と9節で主イエスは、「わたしは羊の門である」と言われ、一方で、そのあとに続く11節と14節では「わたしは良い羊飼い」であると告げられます。主イエスを通らずに救いを受け、命を得ることはできません。それに対して、偽りの羊飼いは主イエスを通らないままで羊のところへ来ます。自らが救われないだけでなく、羊の命を養い育てることも決してできません。
    牧草を得るために門を出入りすることは、羊たちの毎日の生活そのものです。キリスト者もまた、命の門である主イエスから出て主イエスのもとに帰る生活を送ります。日々聖書を読み、主イエスの名により祈ることを欠かしません。それがキリストの復活の命に生きる生活です。私たちは、主イエスの声に聞き従い、他の声に従うことはありません。羊は主を知り主は羊を知る、この愛の交わりのうちに育まれるのです。
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  • 神への生活を支えるもの (ユダの手紙 )
    イエス・キリストの僕で、ヤコブの兄弟であるユダから、父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ。
    (ユダの手紙1章)
    ヤコブの兄弟であるユダは、「わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたい」と、愛する教会に手紙をしたためました。それは、「主であるイエス・キリストを否定している」人たちがいるからです(4節)。その否定は、「神の恵みをみだらな楽しみに変え」、「みだらな行いにふけ」る生活に現れていました(4、7節)。
    この人たちにとって、神の言葉と自分の生活とは、離ればなれのものでした。生活の中心から、「主であるイエス・キリスト」が見失われてしまっていたのです。主イエスへの畏れがなくなり、むしろ人にこびへつらうような言葉が教会を支配していました(16節)。
    言葉を裏付けるのは、その人の生活です。しかし、私たちも時に言葉と生活が離れてしまうことがあります。だからこそ、神の言葉と生活が完全に一致したお方である主イエスに、何度も立ち帰る必要があるのです。
    ユダは教会に勧めます。「神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(21節)。
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  • 神は必ず顧みてくださる(創世記 50章)
    ヨセフは兄弟たちに言った。
    「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」
    (創世記50章24節)
    ヤコブの死に続いて、ヨセフの死を記して、創世記は閉じられています。ヨセフもまた最期に信仰の言葉を語ります。ヤコブは、過去に神によって与えられた約束を見つめ、約束のしるしであるマクペラの洞穴に自分を埋葬するようにと言いました。一方、ヨセフは、より将来を強く見つめて信仰の言葉を語っています。神が必ず顧みてくださり、やがてエジプトから導き上ってくださると告げます。ヨセフは、神の約束の将来の実現を預言しています。創世記は、このヨセフの預言の言葉で結ばれています。
    ある信仰者が、こんな言葉を語っておられました。「人生のもっともすばらしい瞬間は、これから先にある」と。若い人ではなく、年配の人がこう言われるのです。「人生」を「世界」という言葉に置き換えてもよいでしょう。
    「しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださる」。ヨセフの子どもたちのためだけの御言葉ではありません。神の救いの御業の完成の日を待ち続けるすべての人のための恵みの言葉です。今を生きる私たちのための御言葉です。「アーメン」(その通りになります)と言うのみです。
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  • はるかに仰ぎ見る(創世記 49章)
    ヤコブは息子たちに命じた。
    「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」
    (創世記49章29節)
    ヤコブの死の出来事については簡潔にしか記されていません。しかし、埋葬する場所については詳しく語られています。ヤコブは、自分の遺体をどこに葬るかについて指示をして息を引き取ります。
    ヤコブは、自分の遺体を、「カナン地方のマムレの前のマクペラの畑にある洞穴」に葬るようにと願います。そこは、アブラハムが、妻サラを葬るためにヘト人から買い取った土地です。このことには、先祖や妻の眠る墓に葬られたいという素朴な思いだけではない、もっと大きな意味があります。
    このマクペラの洞穴は、アブラハム、イサク、ヤコブに、カナンで与えられた唯一の土地です。アブラハムの歩みは、神の約束を信じて始められました。神の約束は、カナンの地をあなたとあなたの子孫に与えるというものでしたが、実際に与えられたのはこの一片の土地のみでした。けれども、この土地は神の約束の実現のしるしです。神の約束は目に見える仕方ではまだ実現していません。しかし、死を前にしたヤコブは、神の約束の実現を信仰の目を持ってはるかに仰ぎ見ています。「はるかに仰ぎ見る…」(讃美歌488)。
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  • 交差された手(創世記 48章)
    ヨセフは、父に言った。
    「父上、そうではありません。これが長男ですから、右手をこれの頭の上に置いてください。」
    ところが、父はそれを拒んで言った。
    「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。」
    (創世記48章18節~19節)
    主イエスは十字架の死がご自身の使命であり、預言者が語ったとおり必ず実現することをご存じでした。時が近付くと、主は弟子たちにあらかじめ知らせましたが、弟子たちには理解力がなく、もだえる主イエスと共に祈るために目を覚ましている力すらありませんでした。
    老齢のヤコブは病み、今は死を前にしています。ヨセフは、父ヤコブの病の知らせを聞き、二人の息子、マナセとエフライムを連れて、見舞いに行きます。ヤコブは見えなくなった目で、その孫たちを抱き、祝福します。
    そこで不思議なことをヤコブはします。ヤコブの手は、左右に交差されたのです。ヤコブの祝福の右手は左側にいた弟のエフライムに、左手は右側にいたマナセに伸ばされます。通常は逆のはずでした。父のヨセフにとってもこのことは意外なことであったようです。ヨセフは、右手を長男の方に置き換えようとしますが、ヤコブはそれを拒み、「わたしには分かっている」と言います。
    このことは何を意味するのでしょうか。この交差された手の背後に神がおられます。神の思いは人の思いと異なります。このことは創世記で繰り返されてきました。カインとアベル、イシュマエルとイサク、ヤコブとエサウ…。主イエスも言われました。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタ20章16節)と。私たちも人の思いを超える神の恵みによって選ばれ、救われています。
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  • 人は変えられる(創世記 47章)
    ヤコブは、ファラオに答えた。
    「わたしの旅路の年月は130年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
    (創世記47章9節)
    ヤコブは、一族と共にエジプトに行き、エジプトの王ファラオの前に立ちます。王の前に立つヤコブは、飢饉から逃れてきた難民、羊飼いの老人に過ぎません。しかし、ここでヤコブは、臆することなく冷静に王に相対しています。
    王は、ヤコブに年齢を尋ねます。エジプト人は長寿に関心をもっていたからでしょう。ヤコブは王に答えて言います。「わたしの旅路の年月は130年です」と。ヤコブは、これまでの自分の人生を「旅路」と呼びます。生ける神と共にある旅路です。また、イサクの生涯は180年、アブラハムは175年であり、自分はそれには遠く及ばないとも語ります。
    これは嘆きの言葉ではありません。使徒パウロの「わたしは、…決められた道を走りとおし…た」(2テモ4章7節)に似ています。慎ましい感謝の言葉です。7節にはヤコブが王を祝福したことも語られています。
    人は変われるのかという問いがあります。祝福を奪い、争っていたヤコブの姿はここにはありません。ヤコブが、ではなく、神がヤコブを変えられたのです。神が人を変えられます。
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  • 神の大いなる物語(創世記 46章)
    神は言われた。
    「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。」
    (創世記46章3節~4節)
    ヨセフとの再会を果たした兄弟たちは、父ヤコブのもとに戻ります。彼らは、ヨセフが生きていることを伝えます。当然のことながら、ヤコブはヨセフと会うことを願って旅立つ決心をします。
    しかし、ヤコブには不安がありました。一つにはこの出発は、部族全体の大移動だからです。さらに、かつての父祖たちの経験がありました。ヤコブの父イサクは神からエジプトに下ることを禁じられました(26章2節)。祖父アブラハムは神の御心ではないのにエジプトに下ってしまう過ちを犯しました(12章)。そこで彼は、礼拝をささげます。御心を尋ねるためです。神はヤコブに語りかけ、御言葉をお与えになります。神はご自身の壮大な計画を打ち明けられます。
    私たちは、ともすると自分の小さな物語に生きようとします。そして、その自分の物語が思うようにならなければ不安になったり恐れたりします。絶望してしまうこともあります。しかし、実は、私たちは神の大きな物語に生きることに招かれています。礼拝において告げられる神の言葉が私たちを広い所に立たせてくれます。
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  • 聖霊を受けなさい(ヨハネによる福音書 20章19-31節)
    トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。…イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
    (ヨハネによる福音書20章25節~26節)
    主イエスの復活は、十字架から数えて3日目、すなわち日曜日でした。復活の主はその日の夕方、集まっていた弟子たちに姿を現されました。しかし、トマスは、その場にいませんでした。
    8日の後、つまり翌週の日曜日に、再び主イエスは来て、言われました。「あなたがたに平和があるように」。
    主イエスは、特別にトマスだけに言われました。「あなたの指をここに当てなさい、手をわき腹に入れなさい」。復活を疑うトマスのために主は来られました。主はトマスに命じます。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。自らを恥じて直ちに信仰を告白したトマスは、「見ることにより、体験することによって、信じた弟子」かもしれません。けれども、主の憐れみが確かにトマスを捕らえたのです。
    「見ないで信じる者は幸いである」。トマスと同様に疑ってしまう私たちかもしれません。けれども、私たちにも憐れみが注がれています。主イエスは息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と言われました。私たちは主の霊、聖霊によって信じます。そして、主イエスを信じないこの世界に遣わされるのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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