リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 人を喜ばせるためでなく(ガラテヤの信徒への手紙 1章)
    こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
    (ガラテヤの信徒への手紙1章10節)
    一人でも多くの人に福音の恵みにあずかっていただきたいと願い、信じる人が増えることを願って、そのための努力を重ねています。けれども絶えず問われています。「わたしは人に取り入ろうとしているのか。それとも、神に取り入ろうとしているのか」と。周りの人たちをどうしたら納得させられるのか、どうしたら説得できるのか、そのことばかりに思いが集中すると、人びとの歓心を買うだけのご機嫌とりになり、福音が曲げられてしまう場合があります。
    どのような時にも決して見失ってはならないことがあります。その中心はわたしがキリストの僕であるという自覚です。愛の深い真実な救い主のものとされていることを覚え、その御方の僕であり続けることです。誤った福音を伝えるなら、キリストの御心のままに生きる僕でなくなります。救われた人間でなくなってしまいます。「わたしはあきれ果てています」と言われるほどに誘惑があります。
    自分は誰を喜ばせようとしているのか。人か、神か。改めて問いながら、明日の礼拝日に備えましょう。
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  • 病を通して知ったこと(イザヤ書 38-39章)
    見よ、わたしの受けた苦痛は
    平和のためにほかならない。
    あなたはわたしの魂に思いを寄せ
    滅びの穴に陥らないようにしてくださった。
    あなたはわたしの罪をすべて
    あなたの後ろに投げ捨ててくださった。
    (イザヤ書38章17節)
    誰もが、病を避けて生きたい、できるならば、心も身体も健康であり続けたいと願うのではないでしょうか。しかし、病を避けて通ることはできません。治る病もありますが、生涯、闘病生活を強いられることや、やがて死に至る病を患うこともあります。それは大変厳しく辛いものです。
    その一方で、病を経験すると、これまで見えていなかったさまざまなものが見えてきます。自分の弱さや、自分のことを心配し支えてくれる者の愛が見えてくる人もいるでしょう。自分のこれまでの生き方やこれからの生き方を深く見つめ直す人もいるでしょう。そこでいろいろな発見や気付きが与えられるのです。そこで、「わたしが病にかかったのはこのためだったのか」と嬉しくなることもあるのです。
    死の病にかかったユダの王ヒゼキヤは、涙を流して大いに泣きました。病の中で、彼は自分の死とともに、自分の罪が鮮明に見えてきました。しかし、神は、それを後ろに投げ捨ててくださったことに気付き、心が平安になったのです。病を通して神の恵みを改めて深く知ったのです。
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  • 何に頼って生きるのか(イザヤ書 36-37章)
    「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。
    ただ舌先だけの言葉が戦略であり、戦力であるのかとわたしは言う。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか。」
    (イザヤ書36章4節~5節)
    人は、家族や友人、仕事やお金などいろいろなものを頼りにして生きています。その中で何が一番大事かと問われても、すぐに答えることは難しいでしょう。生きていく上でなくてはならないものがたくさんあるからです。
    しかし、キリスト者であるなら、「神を頼って生きています」と答えることができます。「信じていた人が自分を裏切っても、確かだと思っていたものがなくなったとしても、神だけはわたしの前から消えることなく、わたしを支え続けてくださるのです」と告白することができるのです。
    時に、「そのようなものを信じていて本当に大丈夫なのか」と問われて、「これで大丈夫なのか」と不安になることがあるかもしれません。私たちには、信仰が揺さぶられ、神以外のものに頼ろうとしてしまう弱い心があります。
    十字架の主イエス・キリストが与えられているとは、その弱い私たちが神に受け入れられて神のものとされている、ということなのです。私たちは、弱ささえゆだねて、神のみもとに立ち帰ることができます。日ごとに信仰を新たにしていただき、確かな歩みを重ねていきましょう。
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  • よろめく膝を強くせよ (イザヤ書 34-35章)
    弱った手に力を込め
    よろめく膝を強くせよ。
    心おののく人々に言え。
    「雄々しくあれ、恐れるな。
    見よ、あなたたちの神を。
    敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
    神は来て、あなたたちを救われる。」
    (イザヤ書35章3節~4節)
    神は私たちの手、膝、心に目を留められます。それらの部分は、試練や歳を重ねるときに、最も弱くなるところです。このときの南ユダの人びとの心の状態も荒れ野や砂漠のように荒れ果て、渇き切っていました(1節)。神は弱った信仰の手、膝、心を強くすることを求めておられます。
    「雄々しくあれ、恐れるな」。「雄々しくあれ」というのは、堅く結び付きなさいということです。神と堅く結び付くことによって、弱った手に力を込め、よろめく膝を強くし、おののく心を静めるのです。
    また、「見よ、あなたたちの神を」と言われています。それは、厳しい状況の中にあっても、神を見て、神の御心が何であるのかをしっかりと尋ね求めよ、神の言葉を一途な思いで聴くことに集中せよ、ということです。
    そのときに改めて聴こえてくる言葉があります。それは「神は来られる」という言葉です。神などいないではないかと思えるような厳しい現実の中にあっても、神を見失ってはいけません。神は私たちを救うためにやって来られるからです。
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  • 立ち上がってくださる神(イザヤ書 33章)
    今や、わたしは身を起こすと
    主は言われる。
    今や、わたしは立ち上がり
    今や、自らを高くする。
    (イザヤ書33章10節)
    キリスト者として生きる喜びは、いろいろとありますが、その一つは、神が私たちの祈りに応えてくださるということではないでしょうか。私たちがささげる祈りに、すぐに応えてくださるときもあれば、そうでないときもあります。自分が望んだ答えを与えてくださるときもあれば、そうでないときもあります。しかし、神はいつも相応しいときに、相応しい仕方で、私たちの祈りに応えてくださいます。
    南ユダの人びとは、アッシリアに苦しめられていました。この苦難の中から、人びとは「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください」と祈りました(2節)。この祈りに対して、神は身を起こし、立ち上がってくださるのです。
    神は、私たちの祈りを聞いて、座ったまま、じっとしておられるお方ではありません。神はご自身が望まれた時に立ち上がり、私たちを救い、助け出してくださるのです。ですから、私たちは、神が立ち上がってくださるその時を、日々、希望をもって待ち望みたいと思います。
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  • 何を支えにして生きるのか(イザヤ書 31-32章)
    災いだ、助けを求めてエジプトに下り
    馬を支えとする者は。
    彼らは戦車の数が多く
    騎兵の数がおびただしいことを頼りとし
    イスラエルの聖なる方を仰がず
    主を尋ね求めようとしない。
    (イザヤ書31章1節)
    困難な状況に陥るとき、自分以外の何かに頼りたくなります。その辛い状況をすぐにでも改善してくれる大きな力に頼りたくなります。たとえすぐに状況が良くならなくても、そこでなお忍耐して生きることができるための支えが必要です。
    ユダの人びとはアッシリアの脅威を前にして、エジプトと同盟を結ぼうとしました。エジプトは、多くの馬や戦車、また騎兵を持っていました。それらのものが、自分たちを敵から守り、支えてくれると信じました。目に見える力を自分たちの支えとし、今、置かれている状況を切り抜けようとしたのです。
    しかし、神は、そのことをよしとされませんでした。なぜなら、ユダの人びとは神に頼ろうとしなかったからです。神は、「エジプト人は人であって、神ではない」と言われました(31章3節)。どれだけ大きな軍隊や力を持っていても、神の前では、それらはごく小さな存在に過ぎません。神の代わりをしてくれるものなど何もないのです。
    きょうも、神に立ち帰り、神だけが成し得る業に目を留めて、生きていきたいのです。
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  • 神の愛に生きる(マタイによる福音書 5章)
    「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
    (マタイによる福音書5章44節)
    敵を愛し、迫害する者のために祈ることは、決して簡単なことではありません。私たちは、日々の生活の中で、隣人を愛することに苦しむことがあります。
    しかし、きょうの箇所で、主イエスは驚くべきことを言われます。それは、悪人が右の頬を打つなら左の頬も向けること、下着を取ろうとする者には上着も取らせること、そして、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、という教えです。
    天の父は、悪人にも善人にも、等しくその恵みをお与えになります。そして、この父は、私たち一人一人が真実の愛に生きるために、主イエスにおいて示されたご自身の完全な愛を豊かに注いでくださるお方です。敵を愛し、祈る姿は、まさに、イエス・キリストご自身に見られる姿です。
    ここで主イエスが示される神の愛は、ただのきれいごとではありませんし、虚しく終わる歩みでもありません。この神の愛は、紛れもなく、神に敵対する私たち罪人に向けられたものです。そして、私たちは、この愛にあずかって生きることがゆるされています。
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  • 静かにしているならば(イザヤ書 30章)
    まことに、イスラエルの聖なる方
    わが主なる神は、こう言われた。
    「お前たちは、立ち帰って
    静かにしているならば救われる。
    安らかに信頼していることにこそ力がある」と。
    (イザヤ書30章15節)
    神を信じて生きるということは、神を信頼して生きるということです。ところで、私たちが神を信頼しているとき、その心の中は静かになっているでしょうか。穏やかになっているでしょうか。もし少しでも心騒ぐようであるならば、完全に神に信頼しきっているとは言えないのです。やはり、どこかで自分の思いや、神以外の何ものかに心奪われているのでしょう。
    南ユダは、エジプトと同盟を結び、敵に立ち向かおうとしました。その背後には、神以外のものに頼ろうとする心がありました。ですから、もう一度わたしのもとに立ち帰り、静かにして、わたしを信頼するようにと、神は呼びかけておられます。
    「静かにする」ということを、何もしないことだと考えるなら、不安になるでしょう。居ても立ってもいられず、自分や他者の力につい頼ってしまうでしょう。
    しかし、「静かにする」ということは、何もしないということではありません。神が私たちのために立ち上がり、働いてくださる、その御業を見ることに集中することです。そのとき、生きる力が溢れてきます。
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  • 神の驚くべき業(イザヤ書 29章)
    「この民は、口でわたしに近づき
    唇でわたしを敬うが
    心はわたしから遠く離れている。
    …
    それゆえ、見よ、わたしは再び
    驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。
    賢者の知恵は滅び
    聡明な者の分別は隠される。」
    (イザヤ書29章13節~14節)
    この世の価値観が絶対的なものではなく、もっと別の何かがわたしを支えているのだと信じたい。しかし、実際は、この世の力に引きずられながら、苦しんでいる人は多いのです。
    キリスト者である私たちも、神から与えられている信仰と、この世の価値観の狭間で、色々と葛藤を抱えながら生きているのではないでしょうか。そのなかで、時に、この世の価値に呑み込まれてしまうことがあります。それでも何とかして信仰を保ちたいと思い、口先やうわべだけで、神を信じようとしてしまいます。この時のエルサレムは、神により頼もうとせず、エジプトの力を頼りにして、アッシリアと戦おうとしていました。神の御心を尋ね求めようとせず、自らの知恵を第一にしました。
    しかし、神は心をご覧になられるお方です。どれほど敬虔な信仰者として振る舞っていても、神の御前には空しいだけです。神はそのような私たちを驚かせます。これまでの価値観をひっくり返し、神を神として生きる道を、私たちの前に拓いてくださいます。その先にキリストの十字架が立っています。
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  • 慌てることなく(イザヤ書 28章)
    それゆえ、主なる神はこう言われる。
    「わたしは一つの石をシオンに据える。
    これは試みを経た石
    堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。
    信ずる者は慌てることはない。」
    (イザヤ書28章16節)
    人生を揺り動かす大きな出来事に襲われると、私たちはどうしたらよいのか分からなくなり、慌てふためいてしまいます。そのような心の状態のなかでいろいろなものに必死に頼り、その状況から少しでも切り抜けたいと考えます。
    私たちはいったい何に頼ったらよいのでしょうか。エルサレムは、このとき、信仰がぐらついていました。この世の楽しみや、この世の権力に酔いしれ、神を信頼せず、神からいただいた知恵によって歩もうとはしませんでした。私たちも心が揺らぐとき、与えられている信仰の確かさを疑い、失望してしまいます。
    神は、シオンに一つの石を据えられました。その石は、家を建てるときの土台となる石です。すべての重みがその石にのしかかったとしても、決して崩れることも、倒れることもない確かな石です。
    この石こそ、私たちを罪から救い出すために神が与えてくださった主イエス・キリストです。キリストを信じ、よりすがって生きていくならば、困難ななかにあっても、慌てることなく、確かな歩みへと踏み出していくことができるのです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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