リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
Download on the App Store

リジョイス聖書日課 episodes

  • 光を輝かす(マタイによる福音書 5章)
    「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
    (マタイによる福音書5章16節)
    きょうの箇所には、「天の国」という言葉が繰り返されています。これは、主イエスを信じる一人一人に約束をされている場所です。
    その弟子たちに主は、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。私たち自身の内に、神に認められるような輝きがあるのではありません。私たちは天の国にふさわしい者ではありませんし、罪人である私たちの内には正しさもありません。
    ここで語られている「塩」や「光」は、あくまでも、私たちのためにご自身の命を献げてくださった、キリストの愛の業に基づくものです。この方は、その十字架において律法を成就され、その業はすべての者を照らす光となり、効き目のある塩となりました。「あなたがたの光」も「あなたがたの立派な行い」も、イエス・キリストの十字架を通して生みだされるものです。
    私たちのために死んで復活され、私たちに真実を行ってくださった主イエスの御力によって、私たちもまた、この日、隣人を愛し、隣人のためにこの光を輝かすことへと導かれています。
    0 min
  • 主をどこで見いだすか(マルコによる福音書 16章)
    若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
    (マルコによる福音書16章6節)
    復活の朝、女性たちは主の亡骸を手厚く葬るために墓に向かいました。彼女たちは主イエスを愛し、慕っていればこそ身の危険を顧みずに墓に向かいました。しかし彼女たちが捜し求めたのは主の遺体であり、死んだ主イエスでした。彼女たちの気がかりは、主イエスの墓をふさいでいた石に向かいました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(3節)。そこでは希望が過去となっています。まさに死んだ希望です。その彼女たちに告げられます。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。
    私たちもそれぞれに主イエスを愛し、主を求めます。ところがなかなか主にお会いできず途方に暮れます。一生懸命捜し求めますが主イエスに出会うことができない。それは捜し求める場所が間違っているからです。生きている方を墓の中で見いだそうとするように、自分の小さな信仰の中で主を捜し求めるからです。
    まさにそこで言われるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と(ルカ24章5、6節)。
    0 min
  • 神の子の死(マルコによる福音書 15章)
    百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
    (マルコによる福音書15章39節)
    過越の犠牲がささげられる3時に、主イエスは十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この十字架において、一点の罪も見逃すことのできない義の神が、徹底的に罪を裁き、悪を呪い、御子を棄てられたのです。
    神の厳しい裁きが主イエスに注がれたとき、天は真っ暗になり、十字架上の主イエスを拒みました。十字架の下では、人びとが主イエスを罵り、十字架から降りて来いとあざけっていました。天からも地からも拒絶され、神から見棄てられ、人びとからあざけられた姿、それが十字架でした。地面から高くつりあげられ、十字架に打たれた釘を支点として、宙ぶらりんの格好で、苦しみのうちに死んでいかれました。
    こうして主イエスは、十字架の上で神から徹底的に裁かれ、呪われ、棄てられて、苦悶のうちに息を引き取られました。これらの出来事をつぶさに見ていた百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と語りました。
    私たちはこの方をどのように告白するでしょうか。
    0 min
  • 神の御心に従う(マルコによる福音書 14章)
    こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
    (マルコによる福音書14章36節)
    旧約時代、イスラエルの民は、牛や羊などをいけにえとしてささげ、罪の赦しのために神との和解を求めました。しかし、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ3章23節)。そのため、アダムの堕落から始まった人類のすべての罪の問題が解決されない限り、神との完全な和解はありえません。それは今の時代も同じです。
    主イエスはゲツセマネでの祈りに臨まれました。「アッバ、父よ、…この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。主イエスが切実に祈られたことは私たちの救いの実現のためでした。そして、その完成としての十字架を前にして、主は激しい誘惑と試練に直面しておられたのでした。
    ここで主イエスが祈られた「御心」とは、主が十字架という耐え難い苦き「杯」を飲み干すことでした。そこで主は、「御心に適うことが」と祈られたのです。どこまでも神の意志に生き、死に向かわれる主イエスの姿がここにあります。
    そして、「わたしが願うことではなく」という祈りに徹せられ、主イエスは決然と十字架への道を歩まれます。主イエスご自身がゲツセマネにおいて神と格闘され、その格闘の中で神への真実な服従へと進んでいかれたのでした。ご自身の思いに打ち勝ち、御心に適うことが行われるように祈り、父への服従の道を歩み抜いていかれます。この主に従うように呼びかけられています。
    0 min
  • 目を覚ましていなさい(マルコによる福音書 13章)
    「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、…あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。…目を覚ましていなさい。」
    (マルコによる福音書13章35節~37節)
    主イエスは世の終わりについて語られた最後に、それがいつ来るかは誰にも分からないので、「だから、目を覚ましていなさい」と語られます。いつ何時、主がおいでになっても良い備えをもって日々を生きるように、と。それがここで教えられている大切なことです。
    旅に出た主人がいつ帰ってくるか、それは僕たちにとって予測がつかないことでした。帰りが真夜中か、それとも朝になるかもしれない。しかし、いつ主人が帰ってきてもすぐに給仕できるように、僕たちは用意をしているようにと言われます。また、まだ帰ってこないと思って支度もせずに眠りこけることがないように「目を覚ましていなさい」とも勧められます。
    主はいつ来られるか分からない、その主がいつおいでになってもよいように備えをしていることが大切です。
    主がおいでになること。それを必ずしも世の終わりの出来事と考える必要はありません。わたし自身の終わりがいつ閉じられるか分からないからです。自分の死と向き合って生きる、それが主のおいでになることを待つ生き方でもあります。自分の死の備えをする歩みです。
    0 min
  • 生きている者の神(マルコによる福音書 12章)
    「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
    (マルコによる福音書12章27節)
    かつて神はモーセに現れた時に、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。この「である」が大切です。アブラハムたちはモーセより以前の、過去の人物ですから、「わたしはアブラハム・イサク・ヤコブの神であった」と言われるはずですが、「である」と言われました。神がそのように言われたのは、神が今でも彼らの神であられ、彼らは今も生きているということを明らかにされるためでした。
    そして、主イエスはこの神が「死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われました。ルカではさらに「すべての人は、神によって生きているからである」と付け加えられています。
    遥か昔に死んだアブラハムたちを生かし、今も生かし続けておられる神は、私たちの神でもあられます。そしてアブラハムたちがその生の根拠をこの神においたように、私たちも自分の生の根拠を神におきます。
    私たちはこの命の主によって生へと呼び出され、今も生かされ続けています。これから先の命も主に支えられて生きることができるし、生きていくのです。
    0 min
  • 小さい者を用いる主(マルコによる福音書 11章)
    「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
    (マルコによる福音書11章3節)
    主イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。そこで用いられたのは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」でした。人を乗せたことがない子ろばは、背中に物を載せただけで驚いてしまいます。そういう未熟な子ろばを、主イエスはあえて選ばれたのです。
    おそらく主イエスをお乗せしたら、よたよたし、もたついたに違いありません。けれども、その子ろばは不安定な足取りの中、それでも、主イエスをお乗せし、エルサレムにお連れすることができました。なぜでしょうか。
    子ろばもがんばり、足を踏ん張って、一歩ずつ力を込めて主イエスを乗せていったことでしょう。しかしそれ以上に大切なことは実は主イエスがこの子ろばにうまく乗ってくださったということでした。まだ人を乗せた経験のない未熟なろばに主イエスがうまく乗ってくださった。だから、子ろばは主イエスをお乗せすることができたのでした。
    そのように主は未熟なわたしをも用いてくださるのです。「主がお入り用なのです」。この呼びかけに応えていきましょう。主が豊かに用いてくださいますから。
    0 min
  • 幸いな者 (マタイによる福音書 5章)
    「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
    (マタイによる福音書5章12節)
    5章から始まる山上の説教で、主イエスは繰り返し幸いを語られます。ここで主が語られるのは、神を信じることの幸いです。
    「心が貧しい」こと、「悲しむ」こと、「柔和」(これも貧しさや無力であるという意味を含んでいます)、これらはいずれも主イエスご自身に見られる姿です。主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者」(マタ11章29節)であると言われました。主イエスは、貧しさと弱さの中で、十字架の死に至るまで神への従順を貫かれたお方です。それは、罪人である私たちが、主が歩まれた幸いに生きるようにされるためでした。
    ここには、主イエスによって地上の幸いに勝る幸いに生きるものとされた、神を信じる信仰者の生き方があります。信仰者は、主イエスのゆえに迫害を受けること、身に覚えのないことで悪口を受けることがあるかもしれません。しかし、「天には大きな報いがある」と言われるように、信仰者には大きな喜びと報いが約束されています。主イエスを仰ぎ、この幸いの道を共に歩みましょう。
    0 min
  • 小さい者に対する眼差し(マルコによる福音書 10章)
    「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」
    (マルコによる福音書10章14節)
    主イエスの許に子供たちが連れて来られたとき、弟子たちは追い払おうとしました。しかし、主イエスは弟子たちを叱って、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と諭され、「子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福され」たのでした。
    寄るべのない無力な彼らは大切な慈しみの対象で、全力をもってかばい、守り、慈しむ、かけがえのない相手でした。その主の慈しみの眼差しは、子供だけではなく、子供のように「小さい者」として軽んじられ、侮られ、卑しめられ、差別されている人々にも広げられます。
    「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(9章37節)と明言された主イエスは、「これらの小さい者の一人」が、どれほどかけがえのない存在かを明らかにされます。「これらの小さい者」、その中のたとえ一人といえども、主イエスはおろそかにされません。その「一人」が主イエスにとっては大切なのだということを、ここで明らかにされたのでした。
    0 min
  • 不信仰の中の信仰(マルコによる福音書 9章)
    「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
    (マルコによる福音書9章24節)
    悪霊に取りつかれた息子を救うためにこの父親は、これまであらゆる手を尽くしたことでしょう。しかし、そのすべては無駄になりました。ここで彼が「おできになるなら」と言うのも無理はありません。しかし、主はその言葉を切り返されます。「『できれば』と言うか、信じる者には何でもできる」と。主を魔術師の類と考えていた父親に、主イエスはご自分に対する信仰を求められました。
    父親はすぐさま、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びました。ここでは自分の信仰の確かさや信念の強さは問題ではありません。信仰はないのです。それを認めて、「信仰のないわたしをお助けください」と求めること、それがここで「信仰」と言われています。「信仰のない」不信仰なわたしを認め、主イエスに求めること、それがまことの信仰です。
    信仰は大きさや多さではありません。厚さでもありません。向きが問題です。心がどこに向いているかです。主イエスだけに向けられていくものこそ信仰です。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。私たちの心を主イエスに向けましょう。
    0 min

About リジョイス聖書日課

From the publisher's feed

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

More shows like リジョイス聖書日課

3分でわかる!聖書 by 中川健一

3分でわかる!聖書

6 Listeners

聖書人になりたい by kannokazuhiko

聖書人になりたい

1 Listeners

聖書プロジェクト BibleProject by BibleProject

聖書プロジェクト BibleProject

0 Listeners