リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 堅固な信仰に生きる(イザヤ書 26-27章)
    我らには、堅固な都がある。
    救いのために、城壁と堡塁が築かれた。
    城門を開け
    神に従い、信仰を守る民が入れるように。
    堅固な思いを、あなたは平和に守られる
    あなたに信頼するゆえに、平和に。
    どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
    (イザヤ書26章1節~4節)
    私たちには、多くの欠けや破れがあります。それゆえに、何かが起こる度に、ぐらついて、倒れてしまうことがよくあります。そのような辛い経験をしているがゆえに、私たちの足取りはどこか覚束ないところがあるのではないでしょうか。
    しかし、神が与えてくださる信仰に生きる者には、堅固な思いが与えられているのだということに心を向け直したいのです。どのようなことがあっても、崩れることも、倒れることもしない堅い信仰が与えられています。それは、私たちが、頑張ったり、忍耐して、困難な中を耐え抜くことではありません。「主こそはとこしえの岩」とあるように、主なる神が堅く確かな岩として、私たちを下から支え続けてくださるからこそ、私たちは倒れ伏してしまうことはありません。
    もちろん、私たちは、さまざまな苦難を経験し、その中で、自分の罪や弱さを深く知り、今、自分の信仰はぐらついていると思わされることがあります。しかし、信仰の歩みとはそのようなところから新たに始まります。そこで主を信頼すれば、必ず平和が与えられるのです。
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  • 涙をぬぐってくださる神(イザヤ書 24-25章)
    主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
    御自分の民の恥を
    地上からぬぐい去ってくださる。
    これは主が語られたことである。
    (イザヤ書25章8節)
    人生にはいろいろな涙があります。イザヤがここで語るのは、私たちが犯す罪のゆえに流す涙です。自分の感情を抑えることができないとき、とめどなく涙が溢れ出るように、私たち人間は、罪の大きな力に対して無力です。罪がもたらす悲惨さの中でもがき苦しみながら、ただ涙を流すことしかできないのです。
    しかし神は、終わりの日に、その涙をぬぐってくださいます。私たちの罪を赦してくださるということです。私たちは、この地上においては、まだ、悔いては罪を重ねる罪人であるかもしれません。イエス・キリストの救いにあずかりながらも、その恵みの豊かさをすぐに忘れてしまう愚かな者であるかもしれません。
    しかし、それよりも確かな現実が私たちを取り囲んでいることに、私たちは目を向けたいのです。それは、どれほど私たちが罪深くても、キリストの赦しは決して揺らぐことはないということです。この神の愛と赦しに、私たちはしっかりと捕らえられています。ですから、喜び、感謝しながらこの地上を歩むことができます。
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  • 喜びに浮かれることなく(イザヤ書 22-23章)
    騒音に満たされ、どよめく都
    喜びに浮かれた町よ。
    …お前たちは、都を造られた方に目を向けず
    遠い昔に都を形づくられた方を
    見ようとしなかった。
    (イザヤ書22章2節~11節)
    生きていくうえで、「喜ぶ」ということは、とても大切なことです。喜びがいろいろな形で奪われてしまうこの世の現実の中に、神は消えることのない確かな喜びを与えてくださいました。この神に目を向けて生きることへと私たちは招かれています。
    ただ、信仰の喜びに生きるというのは、決して、喜び浮かれることではありません。浮かれてしまうと、どうしてもひとりよがりの喜びばかりを追い求めてしまい、気付いてみると、神から遠く離れてしまっていたということも珍しくありません。
    エルサレムはアッシリアの攻撃に滅ぼされそうになりました。この出来事の背景には、エルサレムの罪がありました。彼らは悔い改める必要がありました。しかし、神に目を向けようとはせず、この世の喜びに浸り、自分たちが持っているものばかりに目を向けて、それを誇っていました。
    神は「嘆くこと、泣くこと、髪をそり、粗布をまとうことを」布告されました(12節)。それは、悔い改めを求められたということです。神に立ち帰る時、神の民は、真実の揺らぐことのない喜びを見出すのです。
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  • 和解への道(マタイによる福音書 5章)
    「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
    (マタイによる福音書5章22節)
    主イエスは十戒等を引用して語っておられます。けれども主イエスはここで律法を字義通りに守れと命じているのではありません。
    「殺してはならない」ということ自体は、誰もが知っていることです。しかし、ここで主イエスが問われるのは、私たちの心の中に僅かにでもある、人を殺しかねない憎しみの思いです。私たちは、そのことを主から問われる時に、それが全く無いとは言えません。どうしても隣人を赦せないと思われる時があります。やられたらやり返す、という復讐の思いに支配される時さえあります。
    主イエスがここで語られているのは、和解です。それは、聖書の神ご自身が、主イエスの十字架を通して、私たち罪人を赦し、ご自身の怒りを取り去ってくださった方だからです。
    私たち自身は日毎に神の掟に背く者ですが、私たちに対する神の恵みはそれに勝るものです。私たちには、時に隣人との関係の中で困難が生じる時があります。しかし、その時も、私たちは主イエスの恵みを祈りつつ、和解に努めることへと導かれています。
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  • 解放の朝は来る(イザヤ書 20-21章)
    見張りの者は言った。
    「夜明けは近づいている、しかしまだ夜なのだ。
    どうしても尋ねたいならば、尋ねよ
    もう一度来るがよい。」
    (イザヤ書21章12節)
    夜。それは、光の見えない暗闇と不気味な静けさが支配する時です。そこでは、昼間には見えなかったいろいろな思いが心の底から沸き上がってきます。不安や恐れ、悲しみといった思いが色濃くなります。夜の中で、私たちは一刻も早く、朝が来ないかと、強く待ち望みます。朝の光に身も心も照らされて、その日を明るく生きることができれば、どれほど嬉しいでしょうか。
    イスラエルとの関係が深かったエドムは、今、アッシリアの支配のもとで苦しんでいます。いつまでこの夜の闇のような苦しみと悩みは続くのか。いつになったら解放の朝は来るのかと、イザヤに問うています。その問いにイザヤは答えます。「夜明けは近づいている」と。近づいているというのは、朝は確実に来る、ということです。解放の時は必ず来るということです。しかし、まだ夜なのです。
    私たちは今、どのような時を生きているのでしょうか。夜のような闇が見えている人がいるかもしれません。しかし、神が完全に解放してくださる決定的な朝が、必ず来るという約束に、私たちは希望を見出したいのです。
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  • 撃たれて、いやされて(イザヤ書 19章)
    主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。
    (イザヤ書19章22節)
    私たちは、神にいやされなければ、生きていけない存在です。それだけ深く傷つき、痛みを負っているからです。それは、何よりも罪によってもたらされたものです。
    神はその罪を撃たれます。もし神が私たちの罪を見過ごしたままでおられたならば、私たちは、痛みを感じずに済んだかもしれません。しかし、そこには想像を越えた悲惨な人生が待ち構えていたことでしょう。
    だから、ここで神は罪の虜になっていたエジプトの民を必ず撃つと語られます。神は、罪を放っておかれるのではなく、私たちを撃ち、大切なことに気付いてほしいと願っておられます。撃たれるということは、大きなダメージを負うことを意味します。また、存在そのものが打ち砕かれるということが、そこで起こるのではないでしょうか。
    しかし、そこでこそ神に立ち帰る道が見えてきます。神は撃つだけのお方ではありません。神の激しい怒りの中で、どうすることもできない者、心に傷を負い、痛みを負ったままでいる者をいやし、赦してくださるお方なのです。私たちはこの方に信頼し、痛みを乗り越えてゆきます。
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  • 造り主に目を注ぐ(イザヤ書 17-18章)
    その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。
    (イザヤ書17章7節~8節)
    信じて生きるということは、何をよく見て生きるのかということと深く結び付いているのではないでしょうか。ですから、神を信じて生きるということは、神に目を注いで生きるということです。
    ただ、日々の生活を振り返ってみると、いろいろなものに目が向いてしまい、疲れ果ててしまうことがよくあります。それは無理のないことかもしれません。私たちは、さまざまなことに気を配りながら生きているのですから。
    私たちはキリスト者として、神に目を注がなければ、と分かっていながら、なかなかそのことに集中できない自分に苛立ちを覚えることがあります。まさにそのところで、自分を見失ってしまうのです。自分どころか、真の神を見失い、偶像の神々を造り出してしまっているのかもしれません。
    しかし、神が私たちのうちに働かれるとき、もはや、偶像に支配されることはありません。本当に見るべきものだけを見つめます。そのときに、私たちの眼差しは、大きく開かれることでしょう。そして、きょう為すべきことに力を注ぐことができます。
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  • 虐げられることなく(イザヤ書 16章)
    まことに、地上から虐げる者はうせ
    破壊する者は滅び、踏みにじる者は絶える。
    そのとき、ダビデの幕屋に
    王座が慈しみをもって立てられ
    その上に治める者が、まことをもって座す。
    彼は公平を求め、正義を速やかにもたらす。
    (イザヤ書16章4節~5節)
    私たちは、この世において、虐げられ、踏みにじられる辛い経験をすることがあります。その力に抵抗して立ち向かうこともできないときがあります。生涯、この苦しみの中を生きなければいけないのかという思いに捕われてしまうときがあります。
    しかし、神は約束してくださいます。そのように私たちを虐げ、踏みにじる者たちは消え失せる、そして、新しい方が王座に着かれる時が来るのだと。その王座は、軍事力や権力、また経済力の優位な者が獲得する王座ではありません。新しい王は、神が慈しみをもって立てられ、この世に公平と正義を速やかにもたらしてくださるお方です。
    この新しい王の姿の中に、イエス・キリストを見ることができます。昔も今も、力のある者が力のない者を虐げるという現実は、変わることがありません。しかし、この現実がいかに空しく、不確かなものであるかが明らかにされる時が必ず来ます。主イエスが与えてくださった救いの確かさの中で、まことの公平と正義がもたらされることを祈りつつ待ち望みましょう。
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  • 泣き叫ぶ声の中で(イザヤ書 15章)
    叫び声は、モアブの全域に響き渡り
    泣く声は、エグライムまで
    またベエル・エリムにまで達する。
    (イザヤ書15章8節)
    御言葉にじっと耳を傾けていると、至る所から聞こえてくる声があります。それはモアブの人々の嘆き声、叫び声、泣き声です。彼らの傲慢さに対して(16章6節)、神の審きがくだるとき、生きる喜びと楽しみがすべて奪われます。そして、そこには嘆きと悲しみしか残りません。
    このような神の言葉を前にして、正直、どうしたらよいのだろうかと立ちすくんでしまう思いがいたします。神は、私たちが叫ぶその声を真剣に受け止めてくださり、流れる涙をそっと拭ってくださるお方です。だからこそ神に向かって嘆くことに、私たちは意味を見いだすことができるのではないでしょうか。
    しかし、きょうの御言葉には、そのような神のお姿が語られているわけではありません。罪に対する神の厳しい審きと、その審きの中で絶望し、泣き叫ぶしかないモアブの人々の姿が描かれているだけです。私たちは、神に答えを求め、いつもすっきりとした思いの中を生きられるわけではありません。
    神の審きに畏れを抱きつつ、もう一度、心を神に向け直すことがここで求められているのではないでしょうか。
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  • 神に再び選ばれて (イザヤ書 13-14章)
    まことに、主はヤコブを憐れみ
    再びイスラエルを選び
    彼らの土地に置いてくださる。
    (イザヤ書14章1節)
    もう一度、あの時に戻って人生をやり直すことができれば、と思うことがあります。私たちの歩みには数多くの失敗と過ちがあるからです。しかし、たとえ過去に戻ることができたとしても、その度に惨めな思いをするのではないでしょうか。それほどに、罪の力というのは大きいからです。
    神は、ご自分に何度も背を向けて離れて行こうとするイスラエルの民を、再び選ぶことを約束してくださいました。つまり、ここでバビロンの支配からの解放を告げていてくださいます。神の選びというのは、人間の罪の現実を貫くほどに確かなものです。
    過ちと後悔ばかりを繰り返してしまう自分自身に失望してしまったとしても、神は、あなたのことを決してあきらめてはおられません。「再び…選び」とあるように、あなたがもう一度、いや何度でも立ち上がって歩み出すことを、神は心から願っておられます。
    神に選ばれているという恵みの事実をしっかり見つめ、そこに立ち帰るとき、私たちは再び、神から与えられた人生を歩み直そうという思いに変えていただけます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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