リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • これからは、もう罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書 8章)
    イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
    (ヨハネによる福音書8章11節)
    ある朝、主イエスが神殿に行かれると、主を罠にはめようとする人々が女性を連れてきました。彼らは女性が姦淫の罪を犯したところを捕らえて、主に判定を求めました。
    旧約の律法では、姦淫の罪は石打ち刑に定められていましたから、もし反対したら、律法に違反していると訴えるでしょう。その反対に、石打ち刑を認めたら、ローマ帝国だけがもっていた死刑の権限を侵すことになります。どう答えても不利な質問でした。
    主は彼らの策略を知り、沈黙したまま指で地面に何かを書いていました。それによって、彼らに答える気がないことを示されたのです。
    そして主イエスが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われると、年長者から去り始め、他の人も去っていき、誰もいなくなり、女性と主が残されました。
    主は言われました。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。…わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
    罪の赦しを求める第五の祈りは、もう罪を犯さないという決意の祈りでもあります。
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  • 憎しみから解き放たれる(ローマの信徒への手紙 12章)
    「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
    (ローマの信徒への手紙12章20節~21節)
    「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るとき、自分ではどうすることもできない怒りや悲しみを自分の心から神に引き受けていただくことができます。神はそのことをご存じで正しく裁いてくださいます。
    また、主イエスが深い愛で、私たちの罪を日々赦してくださっていることを思うとき、人を赦せない苦しみや憎しみから、主イエスの愛によって解き放たれ、心に神の平和を満たしていただくことができるのです。
    パウロもローマの信徒への手紙12章20節でこう書いています。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」主イエスご自身が、悪に負けず、かえって、善をもって悪に打ち勝たれたのです。
    主の愛と赦しによって、私たちも自分に対して罪を犯した人を赦し、神の前に心を清く保ちます。赦しという神の善により、人への憎しみという悪に、私たちは勝利することができるのです。
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  • 主に赦されたゆえに人を赦す(使徒言行録 7章)
    人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
    (使徒言行録7章59節~60節)
    ステファノは執事的な働きだけでなく積極的に伝道し、主イエスを証しする人でした。すると、ステファノの教えに反対する人たちが出てきて、激しい議論になりました。
    しかし、聖霊に満たされたステファノと論じ合っても、彼らは歯が立たなかったので、卑怯な方法でステファノを捕らえ、偽証人を立てて裁判にかけたのです。偽証人は、ステファノがエルサレムの神殿を汚し、モーセの律法に逆らっていると主張しました。
    そのような状況でも、ステファノは落ち着いて、この弁明の機会を使って、イスラエルの歴史を順に追いながら力強く反論しました。
    ステファノは、愛をもって語り、彼らが真実に気づいて悔い改め、主の救いを受けてほしかったのです。しかし、ユダヤ人たちは怒ってステファノを町の外に追い出し、石で打ち殺してしまいました。ステファノは、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びながら息を引き取りました。主に赦された心は、人の罪を赦す心とされるのです。
    「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」
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  • 神に赦されない罪はない(ヨハネの手紙一 1章)
    自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
    (ヨハネの手紙一1章8節~9節)
    私たち人間は神から離れ、神との交わりを失ってしまったので、イエス・キリストの救いにあずかるまでは、だれも自分の罪に気づきません。人や社会に悪いことをしてしまったときには、罪悪感をもつことはあっても、特に、神を悲しませ、神に罪を犯したと感じることはありません。
    私たちが、自分の罪に気づき、神を悲しませてきたことが分かるとしたら、神に愛され、聖霊の働きを受けているからです。聖霊は、御言葉をとおして神の愛と御心を示し、罪に気づかせ、神を畏れる心を与えてくださいます。
    そのように罪を気づかされたとき、具体的な一つ一つの罪を神に告白して祈るなら、神はどのような罪も赦してくださいます。神に赦されない罪はありません。
    公に言い表すとは、人々の前で告白するということではなく、神の前に真実に告白するということです。
    それによって神は、罪を赦すだけでなく、心を聖霊によって清めてくださいます。聖霊は、心に愛と喜びと平安という実を結んでくださいます(新改訳:ガラ5章22節)。
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  • 7の70倍までも赦しなさい(マタイによる福音書 18章)
    ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。
    (マタイによる福音書18章21節~22節)
    ペトロは尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」。イスラエル人にとって、7という数は完全を意味するので、どんなに我慢したとしても、せいぜい7回までだと考えたのでしょう。
    ところが、主イエスは言われました。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」。7の70倍とは、490回という数のことではなく、もう何回目か分からなくなる程、どこまでも何回でも赦してあげなさいという意味です。7回赦すだけでも忍耐が必要なのに、7の70倍とは、忍耐の限界を超えているように思います。
    7の70倍赦すとは、主イエスの心を表しています。十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈られた主イエスは、私たちの罪を何度でも、7の70倍までも赦してくださっているのです。
    日々、主イエスに罪を赦されていることを思うとき、私たちも赦されている者として人の罪を赦せるようにされていくのです。
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  • 罪を悔い改める(詩編 51編)
    神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
    打ち砕かれ悔いる心を
    神よ、あなたは侮られません。
    (詩編51編19節)
    1節に「ダビデの詩」と書かれていますが、ダビデは主イエスが来られる千年前のイスラエルの王でした。そのダビデは、体を洗っていたウリヤの妻バト・シェバを見て、宮殿に呼び出し、関係をもちました。しかも、バト・シェバが子どもを身ごもったことが、夫のウリヤに知られないように、ダビデは彼をペリシテとの戦いの危険なところに送って戦死させてしまったのです。
    このような恐ろしい罪を犯しても、だれも知らないと思っていたダビデのもとに、神は預言者ナタンを送って、その罪を指摘されたのです。
    その時、ダビデは罪を認め、悔い改めて祈りました。
    「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」(3~5節)。
    悔い改めは、罪を悔いるだけでなく、罪に背を向けて離れ、そこから神に信頼して歩むことです。神は、心からの悔い改めを受け入れ、どんな罪も赦してくださいます。
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  • クリスマスの心・賛美(ヨハネによる福音書 9章)
    「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
    (ヨハネによる福音書9章25節)
    クリスマスは賛美の時です。賛美は神を喜びたたえ、あがめる心から生まれます。世界には多くの讃美歌があります。アメイジング・グレイスは特に有名です。この歌の作者ジョン・ニュートンは、歌詞の1節に「かつては盲目であったが、今は見える」という言葉を書きました。
    聖書の中にこれと全く同じ言葉があります。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。生まれつき盲人であった人が、主イエスによって見えるようになった個所です。
    ジョン・ニュートンの肉眼は見えていましたが、彼は霊の目が盲目だったと告白したのです。そして今は主イエスによって神の恵みが見えるようになったと賛美しています。罪深い自分、赦された自分、赦してくださる主イエスを、霊の目で見たのです。
    神賛美は主イエスの救いを知ることによって生まれます。今は主イエスの恵みによって見えるようになりましたと心の中で救い主を喜びたたえましょう。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1章46、47節)。
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  • 干ばつの年にも憂いがなく(エレミヤ書 17章)
    祝福されよ、主に信頼する人は。
    主がその人のよりどころとなられる。
    彼は水のほとりに植えられた木。
    水路のほとりに根を張り
    …
    干ばつの年にも憂いがなく
    実を結ぶことをやめない。
    (エレミヤ書17章7節~8節)
    旧約の族長の一人、ヨセフは、兄たちに売られたエジプトの地で、王の見た夢を解き明かし、宮廷の責任者として、7年の豊作の間に、7年の飢饉に備える働きをしました。そして、飢饉の中でエジプトに穀物を求めに来た、兄たちとの感動の再会を果たします(創37、41、45章)。
    神の御手の中で、「…木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって、わたしたちにもたらされるのです」(『ハイデルベルク』問27答)。
    エレミヤの言葉は、「肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人」(5節)に対して、「主に信頼する人」は、神の摂理の御手の中で、「干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」と約束しています。それは、ヨセフのように、主の御手の中で御業を信じて、感謝に導かれる人の抱く、希望の約束です。
    主の深い憐れみの中で、「打ちひしがれている」(マタ9章36節)人々を知るとき、主の祈り手とされて、感謝と希望を新たにしましょう。
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  • 執り成しの祈りをささげるために(詩編 62編)
    民よ、どのような時にも神に信頼し
    御前に心を注ぎ出せ。
    神はわたしたちの避けどころ。
    暴力に依存するな。
    搾取を空しく誇るな。
    力が力を生むことに心を奪われるな。
    (詩編62編9節、11節)
    40日40夜、昼も夜も、断食した後、空腹を覚えられたイエスを、悪魔は、「石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑します。しかし、イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との御言葉によって、この悪魔の誘惑を退けられました(マタ4章1~4節)。
    私たちが、第四の祈りを、絶えず祈らなければならない理由は、たとえ、空腹であっても、満腹であっても、また、食糧に満ち足りていても、「自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなた(創造主なる神)の上にのみ置く」必要があるからです(『ハイデルベルク』問125答)。
    詩編62編の御言葉は、「神はわたしたちの避けどころ」と、多くの人々に呼びかけ、「暴力に依存するな」「搾取を空しく誇るな」と言います。真の救いの力は、ただ神のみにあり、諸々の権力者にも、富裕者にもないことを警告するものです。
    人の力に頼らず、神の力に期待する祈りは、戦争によって、貧困が引き起こされる連鎖を立ち切るためにも、必要不可欠です。きょうも神の言葉の力によって、執り成しの祈りを新たにしましょう。
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  • 主御自身が建ててくださらなければ(詩編 127編)
    主御自身が建ててくださるのでなければ
    家を建てる人の労苦はむなしい。
    主御自身が守ってくださるのでなければ
    町を守る人が目覚めているのもむなしい。
    (詩編127編1節)
    貧困と飢餓、富裕と飽食の同居するこの地球において、都市にその悲惨さを多く見ることができます。子どもの貧困や高齢者の孤独死は、一見豊かな国に見える日本でも深刻な社会問題になっています。
    詩編127編は、いわば、「栄華を極めた」ソロモンの建てたエルサレム神殿において、「主御自身が建てて」「守ってくださるのでなければ」、「家を建てる人の労苦」も、「町を守る人が目覚めているのもむなしい」と言います。
    それは、今日の、都市と国家、家庭と教会形成においても同じです。私たちの日本キリスト改革派教会がその創立宣言(1946年)において、この詩編127編の御言葉をもって、新日本建設と真の教会建設の幻を見たことを思い起こします。
    では「主御自身が建ててくださるのでなければ」とは、何をどう期待して生きることでしょうか。それは、キリストだけが本当の労苦の喜びと祝福を与えてくださるお方であることを信じて生きることです。このお方は、十字架に至るまでご自身をむなしくされ、あらゆる労苦をご存じのお方です。そればかりか、復活の命に溢れるお方です。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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