リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 絶望の淵に立たされたときでも(エレミヤ書 32章)
    「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』と言われるからだ。」
    (エレミヤ書32章14節~15節)
    このときエレミヤは拘留されていました。またエルサレムもバビロン軍によって包囲されていました。人が見るなら、エレミヤもエルサレムももうすぐ終わってしまう存在で、希望はありません。しかし神は、そのようなエレミヤに、まもなく従兄弟が来て、アナトトにある自分の土地を買ってくれと言う、と不思議な言葉を与えられます。そしてその言葉通りになります。エレミヤは、正当な値段、正式な手続きでその土地を購入し、証書を大切に保存しました。その行為は、この後イスラエルの民は散らされるのですが必ず帰還し、これまでと同じように主が与えられた土地に住むことができるという神の約束に対する確信を雄弁に語る預言行為となりました。
    私たちの現実の生活の中で、神のすばらしさが見えず、むしろ絶望が口を開けて待っていると感じることがあります。しかしその現実のただ中においても「御名をあがめさせたまえ」という祈りが絶望に陥ろうとするわたしを支え、力ある主の御業を待ち望む忍耐と希望を与え続けます。絶望の淵に立たされたときでも、わたしに「御名をあがめさせたまえ」と祈らせてください。
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  • わたしに与えてくださった光栄を覚えて(ルカによる福音書 1章)
    そこで、マリアは言った。
    「わたしの魂は主をあがめ、
    わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
    身分の低い、この主のはしためにも
    目を留めてくださったからです。
    今から後、いつの世の人も
    わたしを幸いな者と言うでしょう」
    (ルカによる福音書1章46節~48節)
    天使から主イエスを身ごもったことを知らされたマリアは、エリサベトを訪れます。エリサベトも神の御業として身ごもったことを聞かされたからです。エリサベトは親類ではありましたが、社会的立場はずいぶん違っていました。エリサベトは、エルサレムに住む祭司の妻でありアロン家の娘、一方マリアは、ナザレという田舎町の若い娘です。しかしエリサベトはマリアと出会ったとき、「わたしの主のお母さま」とマリアを呼び、彼女を高く上げられた神を賛美したのでした。このようにして、マリアは自分の身に起こった光栄を知り、そして主の御名を賛美したのでした。
    私たちもまた主による光栄をいただいています。主イエスは私たちのために地上にお生まれになり、このわたしのために十字架で死なれ、そしてよみがえってくださったからです。身分の違い、貧富の違い、能力の違いは、この恵みの前に関係ありません。神は、「恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」力あるお方だからです(出33章19節)。きょうも、小さく貧しいわたしに与えてくださった光栄を覚えて、「御名をあがめさせたまえ」。
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  • 神を正しく知り(サムエル記上 15章)
    サムエルはサウルに言った。「あなたと一緒に帰ることはできない。あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けたられたのだ。」
    (サムエル記上15章26節)
    イスラエルの初代の王となったサウルに、主なる神の命令が預言者サムエルを通して与えられました。「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ」。しかし、サウルはその神の言葉を退けて自分勝手に考え、最上のもの、上等なものを滅ぼし尽くさず取って置きました。それゆえサウルは王位からも退けられることになったのです。
    私たちは、主を正しく知ることなしに、正しく応答することはできません。かえって、主が喜ばれないことをしてしまうものです。それでは神のすばらしさを讃えることはできず、主イエスが共にいてくださる人生にも気づきません。そして結果として、主の者とて生きる喜びも光栄も失ってしまうことになるのです。
    「正しく知る」とは、私たちが自分勝手に神について考えるのではなく、何よりもまず神の自己啓示である聖書によって神を知ることです。そして、主なる神を正しく知るならば、私たちは神を賛美せずにはおられません。神を正しく知ることが、御名をふさわしくあがめることの入口です。主よ、きょうもあなたを正しく知り、「御名をあがめさせたまえ」。
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  • 創造主なる神にならって(マタイによる福音書 6章)
    「だから、こう祈りなさい。
    『天におられるわたしたちの父よ、
    御名が崇められますように。』」
    (マタイによる福音書6章9節)
    主の祈りは、マタイによる福音書とルカによる福音書で主イエスが教えられますが、マタイによる福音書では祈りの乱れを正すようにして教えられます。その乱れとは第一に「偽善者のようであってはならない」と、人の目を意識した祈りを正されます。第二に「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」と、ただ自分の必要を並べ立てる自分発信の祈りを正されます。どちらも他人と自分が中心の祈りで、神が中心ではありません。そこで、主の祈りを祈ることで、私たちの生活を神中心へと引き戻します。
    第一の祈りは、「御名をあがめさせたまえ」です。「御名」とは神の名ですが、単なる名前のことだけでなく、神に関わるすべてのこと、つまりその存在、知恵、力、聖、義、善、真実(『ウェストミンスター小教理問答』問4)が含まれます。ですから、この世界に満ちている神のすばらしさ、そして私たちの生活の中に示された神のすばらしさをほめたたえてきょうも歩ませてくださいという、頌栄的人生に招かれた人の祈りでもあるのです。主よ、きょうもわたしの生活の中で、「御名をあがめさせたまえ」。
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  • 朽ちない種から生まれた者の共同体として(ペトロの手紙一 1章)
    あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
    (ペトロの手紙一1章23節)
    今週、私たちは、地上の家族とキリストの体という二つの家に属していることについて考えましょう。
    神の新しい家(オイコス)としての教会は、根底から新しくされた者の共同体として、神の主導で創造されました。神はこの家族の保証人です(エフェ1章9~14節)。それゆえに、この家族という表象は、神が関係を持つお方であるという神の不思議さを私たちに何よりもまず教えてくれます。この神は民との契約の中に生き、憐れみ深く恵みに富んでおられます。聖書全体を通して神の継続的な契約が言及されています。この新たな誕生は、実の父・朽ちる種からではなく、朽ちることのない種から新たに生じました。
    神の主導権に基づいて、信仰者は新しい家、新しいアイデンティティ、新しい方向性を受け取ります。この新しい家では、この世で重要視されない人びとが歓迎されるのです。この新しい方向付けは、実の家族の絆を超越し、再解釈します(マコ3章31~35節、マタ10章34~39節)。したがって、教会は大きな一つの家族の一員であり、そこでは、皆がお互いに仕える者となるのです(ヨハ13章14節)。
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  • 主よ、憐れみたまえ(ヨハネによる福音書 14章)
    「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
    (ヨハネによる福音書14章14節)
    主イエスは「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と言われ、「われらの父よ」(口語訳:マタ6章9節)と呼びかけるようにと教えてくださいました。
    『ハイデルベルク』問121の答には「体と魂に必要なことすべてを期待するため」とあります。「体と魂に必要なこと」は日常的な必要です。日常的な必要であるがゆえに、御心を求めることよりも、自分の要求を身勝手にも祈ってしまいがちです。それに気づくと、反対に、祈ることに躊躇してしまいます。
    しかし、パウロは「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ロマ8章39節)と力強く語っています。この愛に励まされます。
    主イエスは「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタ6章8節)と言ってくださいました。
    このように罪にまみれた私たちですから、一切をご存じの主イエスに私たちの一切をゆだね「主よ、憐れみたまえ」と主イエスの前にひれ伏して「天にましますわれらの父よ」と呼びかけましょう。
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  • 天にまします(エレミヤ書 23章)
    天をも地をも、わたしは満たしているではないかと
    主は言われる。
    (エレミヤ書23章24節)
    「天」とはどこでしょう。天高き雲の上でしょうか。大空の高きところでしょうか。はたまた、大宇宙の果てる先にあるのでしょうか。「天の雲」(マタ24章30節他)や「天から雨が降り」(ヤコ5章18節)などは大空の高きところへと、「天の星」(黙6章13節)や「天の果て」(マタ24章31節他)は大宇宙の果てる先へと、私たちの思いを連れて行くかもしれません。しかし、自らを省みるなら、果たして私たちに「天」を思い描くことができるほどの能力があるのだろうかと、思います。
    聖書に記されている「天の王座」(エフェ2章6節)におられる父なる神とその右に着座しておられる私たちの救い主、イエス・キリストを、聖霊においてただただ見上げるほかに手だてはありません。
    しかし、聖霊において見上げるとは、決してむなしく見上げることではありません。「天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる」のです。主イエスが聖霊において共にいてくださるのです。
    この力強さに支えられて、私たちは「天にまします」と祈るのです。
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  • お父ちゃん(ローマの信徒への手紙 8章)
    この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
    (ローマの信徒への手紙8章15節)
    長期出張から帰ったとき、子どもたちは「お父ちゃん」と呼んで、喜んで迎えてくれます。しかし、わたしはお土産を買って帰りません。なぜなら、子どもたちは、次第に「お父ちゃん」が帰ってきたことより、お土産を喜ぶようになってしまうからです。
    「アッバ、父よ」の「アッバ」は、いわば「お父ちゃん」に近い幼児語です。主イエスは、ご自身の霊である聖霊によって父なる神を知らせ、まさに「父を見」させてくださいます。私たちは、その父なる神に深く信頼して「お父ちゃん」と呼びかけることができます。
    パウロは「『アッバ、父よ』と呼ぶ」と言っています。しかし、この「呼ぶ」は尋常ではありません。「〔烏が〕かあかあと鳴く、〔大声で〕叫ぶ、金切り声をあげる、どなる、わめく」などの意味です。
    私たちは嬉しいときに、父なる神を「お父ちゃん」と言って、大声で喜ぶだけではなく、悲しいときにも、父の胸に飛び込んで、安心して、わめき、どなり、叫ぶことができるのです。
    このような神はどこにもいません。ただ、主イエスによって知らされた神のみです。
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  • 父を知って祈る(ヨハネによる福音書 14章)
    「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
    (ヨハネによる福音書14章7節)
    私たちに教えられた「主の祈り」は、むなしい偶像の神にささげるお題目のように、早口で「となえる」ものではありません。主イエスによって示された父なる神に、聖霊によって導かれて祈るものです。
    とは言え、天の父なる神は霊であって、私たちの五感を総動員しても、私たちが霊なる神を知ることなど、到底できるはずがありません。
    しかし、主イエスは、私たちと同じ肉をとって、私たちの世界に来てくださいました。主イエスはご自身について「天から降って来た者」(ヨハ3章13節)とも、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」とも、おっしゃいました。
    ヨハネは、その手紙で「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(1ヨハ1章1節)として主イエスを紹介しています。手紙の受け取り手も復活の主イエスに、聖霊によって、手ごたえを覚えたことでしょう。
    私たちも、復活の主イエスに、聖霊によって、手ごたえを覚えるとき、主イエスは、ご自身により父なる神を知らせて「父を見」させ、祈りに力を与えてくださいます。
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  • 「われらの」~一つの群れの祈り(ヨハネによる福音書 10章)
    「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
    (ヨハネによる福音書10章16節)
    「主の祈り」は、孤独なわたしだけの祈りではありません。主イエスの羊は「一人の羊飼い(主イエス)に導かれ、一つの群れになる」。「主の祈り」は、たとえ一人で祈っていたとしても一人の羊飼い(主イエス)に導かれた「一つの群れ」の祈りです。
    もちろん、礼拝において声を合わせて祈るとき、ひとりひとりの「主の祈り」としてだけではなく、「一つの群れ」の祈りとして受け入れてくださいます。ですから、私たちも「一つの群れ」の祈りになるように、互いに他の人の声を意識しながら、ちょうど合唱隊が歌うかのごとく、リズムを合わせて祈りましょう。そこには、ゆっくりしか祈れない高齢の兄弟姉妹や、幼い子どもたち、その日初めて「主の祈り」を祈られる方もおられるかもしれません。互いに愛の配慮を持ち寄って祈るなら、それ自身が主イエスへの愛の献げ物ともなります。
    このように、「主の祈り」は、愛の配慮を伴う祈りです。たとえ祈れない夜を一人悶々と過ごすことがあろうとも、「主の祈り」を祈ることによって、主イエスご自身があなたに寄り添い、あなたを慰め、励ましてくださいます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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