リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 「われらの」~祈りは孤独か?(マタイによる福音書 6章)
    「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
    (マタイによる福音書6章6節)
    「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」とあります。ひとりで祈るのです。そういう祈りは一見孤独に思えます。実際に、孤独をしみじみと覚えながら祈っている方もおられるかもしれません。しかし、そうではありません。主イエスは「われらの父よ」と呼びかけるようにと教えられました(口語訳:マタ6章9節)。
    私たちは、時には苦悩の淵に追いやられ、時には打ちのめされて、祈りの言葉さえ失ってしまうことがあります。そのようなときこそ、主イエスは、私たちに「われらの父よ」と呼びかけるようにとおっしゃいます。そして、私たちの必要のすべてを「主の祈り」の中に詰め込んでくださったのです。
    ですから、たとえ祈りの言葉を失ったときでも、むしろ、祈りの言葉を失ったときにこそ、主イエスが教えてくださった「主の祈り」を祈って、言葉にさえできない思いを主イエスに打ち明けましょう。
    「主の祈り」は、ほかの誰かの祈りではなく、まさにあなたの祈りです。しかし、それだけではなく、あなたをひとりぼっちにはしない、「われら」の祈りなのです。
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  • 神の家の価値観(エフェソの信徒への手紙 2章)
    従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり…神の住まいとなるのです。
    (エフェソの信徒への手紙2章19節~22節)
    初代教会の信者は、神との関係、互いとの新しい関係を家族概念の用語で表現することを好みました。神は、子たちに命を与え、教育し、憐れみを示し、配慮する、信頼できる親・家族の長として描かれます(2コリ6章18節、エフェ2章)。また、互いの関係は、忠誠を尽くす兄弟姉妹として表現されています。明らかに彼らは互いに愛し、配慮し、憐れみ合うばかりか、他者の名誉を守ることにも献身的です(ヨハ13章34、35節)。
    1世紀の頃、社会システムとしての家はどのように機能していたのでしょうか。当時の主要な社会システムの一つは、祖父母、両親、子ども、奴隷からなる大家族の親密な間柄で、これが社会の根幹を成していました。もう一つは政治権力の公的な領域です。父親は権威者、保護者、教育者の象徴でした。とりわけ教育者として、父親は子ども(特に息子たち)に重んじるべき徳を教える責任があります。家庭の基本的価値観は、コイノニア(共有・交わり)、献身、忠誠、生涯にわたる世話、もてなしです。このような価値観はどれくらい今日のクリスチャンの家庭に反映されているでしょう。
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  • 祈りの基礎(ルカによる福音書 11章)
    イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。」
    (ルカによる福音書11章1節~2節)
    スポーツ選手は、初めから一流の選手になることはありません。自分勝手に練習したとしても、あまり上達することはありません。オリンピックを目指す人も、最初は基礎を教えてもらって、基本の練習を繰り返します。そして何年もかけて練習を繰り返すことにより上達し、やがてオリンピックを目指し、金メダルを目指すことができるようになります。
    神を信じて、神に祈りを献げることも同じです。私たちの救い主、お父さまである神に何を祈っても良いと語られてはいますが、いざ祈り始めると、自分の要求ばかりが口に上ります。これでは神の御心など理解できません。
    主イエスは、このような私たちを知っておられるからこそ、私たちがお父さまである神に祈り求めるときの基礎的な模範を、主の祈りを通して教えてくださいました。この主の祈りを繰り返し学ぶことが大切です。主の祈りを毎日、意味を考えながら祈ることによって、神は私たちに祈りの訓練を行ってくださいます。このようにして、私たちは神の子どもとして成長することができるのです。
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  • 主に委ねて祈ろう(マタイによる福音書 6章)
    「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
    (マタイによる福音書6章31節、33節)
    私たちは、毎日の生活の中で、さまざまなことを思い悩み、苦しみ、嘆きつつ歩んでいます。しかし主イエスは、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とお語りになります。主イエスは、私たちが神さえ信じれば、私たちの生活は二の次で良いと思っておられるのでしょうか。
    決してそういうことはありません。そもそも私たちが神に祈るとは、誰に何を求めて祈っているかを考えてみれば、納得できるのではないかと思います。私たちが祈り求めている神は、天地万物を創造し、今もすべての生きとし生けるものに命を与え、恵みを与えてくださる神です。この神のすばらしい恵みが、神によって命を与えられている私たち一人ひとりにも向けられています。神は、私たちのすべての必要を知って、私たち一人ひとりを愛しておられます。
    私たちは、まず、神の国と神の義しさを求め、神をほめたたえます。神は、必ず、私たちの生活の必要をも、すべて満たしてくださいます。神を信じることと生活することは、神の御前では同じことです。
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  • 確信して祈ろう(ダニエル書 9章)
    神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、わたしたちの荒廃と、御名をもって呼ばれる都の荒廃とを御覧ください。わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。
    (ダニエル書9章18節)
    「どうせ祈っても聞かれることはない」と諦めてしまうことはありませんか。それは、生きて働いておられる主なる神の存在を疑っているか、神の存在は認めても、わたしの祈りなど聞いてもらえていないと、自分に対する神の愛を見失っているかです。
    私たちが祈りを献げている主なる神は、今も生きておられ、私たちのすべてをご存じです。それは私たちの存在・行動ばかりか、私たちが日々なにげなく話している会話のすべて、そして、私たちの心の中で考えていることすべてに及びます。
    知っているとはただ知識だけの問題ではありません。主なる神は愛をもって私たちを知ってくださり、私たちが罪の故に滅び行くことを惜しんでくださるお方です。救いのために、ついには私たちの罪の刑罰を、御子である主イエスに背負わせられました。
    それほどまでに神は私たちを愛してくださっているのですから、私たちの嘆きの祈りに最後まで耳を傾けてくださらないはずはありません。だからこそ私たちは、疑うことなく、諦めることなく、主なる神を信頼して、神に祈り求めるのです。
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  • 遜りをもって祈ろう(詩編 34編)
    主は助けを求める人の叫びを聞き
    苦難から常に彼らを助け出される。
    主は打ち砕かれた心に近くいまし
    悔いる霊を救ってくださる。
    (詩編34編18節~19節)
    私たちは、何かを祈り求めるとき、必死になり、祈りが聞かれることを願ってしまいます。しかしこのとき、私たちにとって神とはどのような存在なのでしょうか。もしかすれば、祈りを聞いてくださる神を、召使いの如く、自分の願いを叶えてくれる存在と思っていないでしょうか。
    私たちは、祈り求めている主なる神についての考えを改めなければなりません。私たちは、自らの罪の故に肉において死に、滅び行く存在でした。自分がどんなにすばらしい事業を成功させ、称賛され、地位を得ようとも、自らの罪と刑罰を、主に取り消していただくことはできません。
    しかし、御子イエス・キリストは、十字架で苦しまれ、私たちの罪の刑罰を引き受け、死を遂げてくださいました。私たちはキリストに縋るしか罪の赦しと救いを勝ち取る手段はありません。そこで私たちは、キリストを救い主と信じる者とされました。
    だからこそ私たちが主に祈るときも、罪を赦してくださった主に感謝し、罪赦されたにもかかわらず罪を繰り返す罪人であることについて、主に赦しを願い、遜りをもって主に祈り求めましょう。
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  • 主なる神に祈ろう(ヨハネの手紙一 5章)
    何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
    (ヨハネの手紙一5章14節~15節)
    「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタ7章7節)と主イエスは語られます。この御言葉に励まされて、私たちは神に祈り求めます。
    しかしきょうの個所では「何事でも神の御心に適うことを…願うなら」と語られています。私たち自身の願いであったとしても、そこに自分の欲望を満たそうとする思いが潜んでいるなら、その願いを神は受け入れません。そのような願望を実現しようとすれば、誰かを犠牲にしてしまう危険があるからです。キリストの十字架の御業により、私たちを救いへと招いてくださる御父・御子・御霊なる三位一体の神は、真実であり、愛なる方です。
    主なる神が求めておられる御心は、私たちが、御子イエス・キリストの十字架の贖いにより罪が赦され救われた者として、感謝と喜びをもって信仰に生きることです。そうであれば、私たちが神に願い求める祈りも、主なる神を愛し、隣人を自分のように愛する思いから出る祈りです。
    私たちの心を知っておられる神は、御心に適うことを願うときに私たちの祈りをすべて聞き入れてくださいます。感謝して祈りましょう。
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  • 祈りは感謝から(詩編 116編)
    主はわたしに報いてくださった。
    わたしはどのように答えようか。
    救いの杯を上げて主の御名を呼び
    満願の献げ物を主にささげよう
    主の民すべての見守る前で。
    (詩編116編12節~14節)
    私たちは、毎日を当たり前のように生きています。食べること、着ること、住む家、働きや学びの場所…。それらのものが与えられているときには、何の疑いもなく、その中に暮らしています。「なぜきょうも食べるものがあるのだろう」「どうしてきょうも住む家があるのだろう」などと、いちいち疑問に思いません。しかし、いつも普通にあるものがなくなると、途端に「なぜ」と叫び、うろたえ、神に嘆いてしまいます。
    私たちが毎日、何不自由なく生活できるのは、今も生きて働いておられ、私たちと一緒にいてくださる主なる神(インマヌエル)が、私たちの必要を満たしてくださり、神の恵みに生きることを良しとしてくださっているからです。
    では、このように主なる神の恵みが示された私たちは何をすべきでしょうか。きょうも生命が与えられ、すべての恵みが満たされていることを神に感謝し、祈りを献げることではないでしょうか。ダイナミックに私たちに働きかけ、恵みをお与えくださる神に感謝し、生きることに喜びつつ、きょうも祈りをもって始めましょう。
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  • 神の家族とされている恵み(申命記 6章)
    聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
    今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、…これを語り聞かせなさい。
    (申命記6章4節~7節)
    今月は4回の日曜日にわたって、家庭・家族について聖書から考えてみましょう。
    聖書は、神と民との関係を、家族が持つ様々なイメージで喩えます。例えば、主はイスラエルを花嫁として見ておられます(エレ2章2節、イザ54章4~8節)。イスラエルの背信は、結婚相手に対する不貞も同然とされています(ホセ1章2節、エレ3章20節)。神は子らに、親がそうするように「身をかがめて食べさせ」(ホセ11章4節)、「衣を作って着せられ」ました(創3章21節)。
    家族という枠組みの中で神学が形成されたため、そのことがイスラエルの神観・創造観・倫理観に影響を与えました。その流れで、特に申命記において、社会を一つの家族(兄弟姉妹の共同体)とみなすようになりました。その結果、やもめ、孤児、寄留の民に対する特別な配慮が生じました。旧約聖書が言う「家族」とは、血縁関係だけを指すのではないという点を評価することは大切です。これが実は、信徒たちが世界を見るときの手本になります。つまりそこでは、弱い者や寄留者がもてなしを受け、家族の一員とされるのです。今週このことを改めて思い巡らしましょう。
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  • いよいよ神のかたちへと新しくされ(フィリピの信徒への手紙 3章)
    なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
    (フィリピの信徒への手紙3章13節~14節)
    神が創造された時間のなかを私たちは歩んでいます。時は現在から過去へと瞬く間にゆき過ぎていきます。しかし、過去の記憶がいつまでも私たちの心に重く留まることがあります。それが良き記憶であれ、辛い記憶であれ、今を生きようとする私たちの足を引っ張ることがあります。わたしの尊敬する人は、聖書に触れ、その言葉に打たれながらも、過去の記憶に縛られ、「今さら自分が神を信じるのはおこがましい」と語りました。
    しかし、パウロは「前のものに全身を向けつつ」と語ります。それは今を生きることへの促しです。神はいかなる者にも未来を見つめることをおゆるしになります。『ハイデルベルク』は教えます。神の戒めが私たちに語られるのは、「わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです」(問115答後半)。
    聖霊によって、前を見られたならば、その時、過去の記憶も私たちの内で姿を変えるでしょう。次第次第に、神は私たちを変えてくださいます。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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