リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 神の恵み深い厳しさは、わたしを日々変えてゆく(ヨハネの手紙一 1章)
    自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
    (ヨハネの手紙一1章8節~9節)
    神の戒めはわたしに罪の自覚を与えてくれます。わたしは祈りに疎く、いつも心を焦らせてばかりいますが、「神を愛しなさい」という戒めが、その愚かしさに気づかせてくれます。わたしは隣人に冷たい心を向け、その言い訳を重ねていますが、「隣人を愛しなさい」という戒めが、そのずるさに気づかせてくれます。わたしに痛みも伴わせながら。
    神はご自身の厳しさとご自身の戒めに留まる大切さを、わたしの隣人を通して、礼拝の説教を通して、わたしに届けてくださいました。そこに神の愛がありました。神の恵み深い厳しさは神がわたしと共に在ろうとされる激しいご意志であることを、今、わたしは感謝して受け止めます。
    わたしに迫る神の厳しさについて、『ハイデルベルク』は教えます。「わたしたちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです」(問115答前半)。
    神の戒めを聞き続けるならば、わたしはきっと今より、自分の愚かしさと神の愛に気づかされるはずです。その力が、神の戒めにはあります。
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  • 神の戒めが確実に私たちを変え始めている(詩編 1編)
    いかに幸いなことか
    神に逆らう者の計らいに従って歩まず
    罪ある者の道にとどまらず
    傲慢な者と共に座らず
    主の教えを愛し
    その教えを昼も夜も口ずさむ人。
    (詩編1編1節~2節)
    「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」(ルカ22章28節)。この主イエスの言葉が、わたしは大好きです。主はそのように弟子たちを温かく見つめ、愛されました。
    ところで、わたしの冷たい心は思います。弟子たちは本当に主と一緒に踏みとどまってきただろうかと。彼らは、主の教えに鈍く、ケンカばかりしてきたのではなかったか。共に在ることで神のご栄光をあらわすよりはむしろ汚してきたのではなかったか。しかし、主イエスの眼差しは違います。わたしの目は人の欠点ばかりを追いかけますが、主の目は、主と共に在る新しく変えられている人の姿を見つめます。
    その幸いをもたらす視線がわたしは嬉しい。わたしもそのように、罪と格闘する自分と人の姿を見つめたい。『ハイデルベルク』は教えます。「その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです」(問114答後半)。
    神の戒めが確実に私たちを変え始めています。神の戒めが導く、その温かい事実にも目を注ぎたいと願います。
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  • 小さな一歩のために諭し、励まし合うために(コヘレトの言葉 7章)
    善のみ行って罪を犯さないような人間は
    この地上にはいない。
    人の言うことをいちいち気にするな。
    そうすれば、僕があなたを呪っても
    聞き流していられる。
    あなた自身も何度となく他人を呪ったことを
    あなたの心はよく知っているはずだ。
    (コヘレトの言葉7章20節~22節)
    神の戒めは私たちの心に罪を罪と刻み続けます。しかし、私たちは与えられた神の教えに深い感銘を受けながら、そのことで瞬間的に、自動的に心が全く清く変えられるということはありません。私たちは神の戒めを聞く聖書の民でありつつ、罪人であり続けます。『ハイデルベルク』は教えます。「最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません」(問114答前半)。
    教会に通い始めた頃、「人を見てはいけないよ」と繰り返し教えられました。神の戒めを聞く罪人の姿につまずいてはいけないからと。「人を裁く刃はそのまま自分にも返ってくるよ」とも教えられました。その言葉の重みを少しずつ受け止めているところです。
    私たちの心にも、隣人の心にも、そして、それぞれの行いにもなお罪が宿り続けていることを、神の戒めは指摘します。しかし、それは互いの罪を裁き、傷つけ合うためではありません。それは、皆が罪を抱えながらも、神の憐れみに生かされていることを喜び合うためです。赦し合うためです。そして神の戒めに生きる、その小さな一歩のために諭し励まし合うためです。
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  • 罪は、罪を罪と見えなくさせるから (詩編 19編)
    主の律法は完全で、魂を生き返らせ
    主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
    主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え
    主の戒めは清らかで、目に光を与える。
    (詩編19編8節~9節)
    罪が罪と見えなくなるところに罪の恐ろしさがあります。
    最初の人アダムとエバが、神に食すことを禁じられた善悪の知識の木の実に心奪われた時のことを思い出してみましょう。聖書は記しています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創3章6節)。木の実は、女エバの目に抗えないほどの魅力を輝かせていました。その魅力は、神の言葉が約束していた自由をエバの心に霞んだものにしました。神の言葉に反しても木の実の魅力に身を任せることが当然であると思わせました。結果、エバはアダムと実を食します。
    私たちもそうです。罪に誘う声にささやかれ、心魅了される時、神の言葉は遠ざかり、罪が罪と見えなくなります。だからこそ、神の「律法」、「定め」を心で聞き続けることが私たちには必要です。『ハイデルベルク』は第十戒が求めることを「わたしたちが、あらゆる罪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです」(問113答後半)と教えています。神の戒めが私たちに罪を罪と教え続け、正しさを慕い求めることへと導きます。
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  • 心に芽生えた悪は何十倍にも膨らみ、行為となる (詩編 139編)
    神よ、わたしを究め
    わたしの心を知ってください。
    わたしを試し、悩みを知ってください。
    御覧ください
    わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
    どうか、わたしを
    とこしえの道に導いてください。
    (詩編139編23節~24節)
    聖書には多くの「罪人」たちが登場します。例えば、カインという農夫がいました。彼は自分の弟アベルだけが神に大切にされているように思え、アベルを襲い、手にかけてしまいました(創4章)。また、ダビデという王がいました。彼は王宮の屋上から覗き見えた婦人の美しさに心を奪われ、関係をもち、子を孕ませました。そのスキャンダルの発覚を恐れ、婦人の夫が戦死をするように仕向けもしました(サム下11章)。
    彼らはいずれも最初から重い罪を犯そうとしたわけではありません。最初は、ただ小さな光景、小さな衝動があっただけです。罪は心に芽生えたよくない思い、悪を何倍、何十倍にも膨らませて、私たち「罪人」の行為とします。
    『ハイデルベルク』は、第十戒が求めることを「ほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に、入り込ませないようにするということ」(問113答前半)と教えています。
    罪は一度、動き始めると私たちの心で制御することができません。ですから、罪に無防備な私たちのせめてもの抵抗はその心を神に見て頂き、憐れみを祈り求めることです。
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  • ソリ・デオ・グロリア(soli Deo Gloria、「神にのみ栄光」) (ローマの信徒への手紙 11章)
    すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
    (ローマの信徒への手紙11章36節)
    「神にのみ栄光」は、これまでの四つのソラ、すなわち聖書のみ、キリストのみ、恵みのみ、信仰のみと密接に関わっています。これら四つのソラは、互いに結び合っていると共に、これらすべてはこの最後の「神にのみ栄光」というところに向かっています。
    つまり、これら四つのソラが正しく機能するなら、必ず「神にのみ栄光」は実現されるということです。逆に、神の栄光について関心を失ってしまえば、四つのソラは、力を見失ってしまうとも言えます。
    実際、中世のローマ・カトリック教会の問題はここにありました。当時、ローマ・カトリック教会は神の栄光については語っていましたが、それは実質を伴ったものとはならなかったのです。彼らは、義認については、神の恵みのみではなく人間の行いを強調しました。また人間である教皇に重きを置きました。このようにして、神の栄光を横取りすることになりました。
    しかし、カルヴァンは人間の生きる目的は「神にのみ栄光」であると語ります。私たちの生き方は、「神にのみに栄光」を帰すものとなっているでしょうか。
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  • 祝福を受け継ぐために (ペトロの手紙一 3章)
    悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
    (ペトロの手紙一3章9節)
    私たちが主イエス・キリストのもとへと召され、かけがえのない救いと新たな命の喜びに生きるようにされたのは、祝福を受け継ぐためでした。そのことは何と感謝すべきことでしょうか。
    私たちはこの神の祝福に値する者では全くありませんでした。そのような私たちが、祝福を受け継ぐ者とされたのは、ただ主イエス・キリストにおいて現された神の憐れみと恵みのゆえです。
    そうであれば、この祝福のなかで感謝をもって歩むと共に、この祝福をさらに多くの人たちに伝えていきたいのです。
    また「迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とも語られています(ロマ12章14節)。日々に私たちが出会うどのような人に対しても、真実の言葉を語り、真実に生きる。自分の思いではなくすべてを神に委ねて、祝福を祈り続けていく。そのとき、「わたしの隣人の栄誉と威信とを、わたしの力の限り守り促進する」こと(『ハイデルベルク』問112の答えにある第九戒の目的)が、確かな現実となっていくのではないでしょうか。
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  • 互いに体の一部 (コリントの信徒への手紙一 4章)
    だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
    (コリントの信徒への手紙一4章25節)
    神に救われた喜びをもって、毎日、感謝して歩んでいきましょう。主と共にある平和をもって、常に御言葉に親しみ、希望に歩みましょう。神の恵みを知る者として、いよいよ熱心に祈り、伝道に心を燃やしましょう。
    私たちは何よりも教会に生きる者です。ここで私たちに求められることがあります。それは、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語る」ことです。なぜなら、「わたしたちは互いに体の一部なのです」から…。
    また「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」(ロマ12章5節)。ここでの「体」は教会のことです。教会において一人一人が一つの体のように互いにつながり連帯します。それでこそ本当の教会となることができます。
    そのためにはまず一人一人が主イエス・キリストとしっかりと結びつくこと以外にありません。それによってキリストを中心として互いに一つの輪のように御前に一つとされます。私たちは偽りを捨てて、真実の言葉を語り、キリストの体なる教会に生き、絆を深めてゆきましょう。
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  • 真実を喜ぶ (コリントの信徒への手紙一 13章)
    愛は…、不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
    (コリントの信徒への手紙一13章4節~6節)
    人の性質の中で、真実・誠実であることは、ほかの何ものにも代えがたい美点でしょう。真実であれば、多少の欠点を補うこともできるでしょうが、逆に真実がなければ、たとえどれほど優しく、気が利いたとしても、すべてが色褪せてしまいます。表裏がないこと、いつまでも変わることのないこと。この真実が人に対しても、神に対しても、欠かすことができません。
    神は真実を喜ばれます。そして、それは不義を喜ばれないことと表裏一体です。
    ここで留意していただきたいことがあります。私たちは多くの場合、自分に加えられた一つの不義はいつまでも覚えています。しかし、この世界で弱い人たち、貧しい人たちに加えられた百の不義はすぐにも忘れてしまっているかもしれません。
    ですから、不義を見逃さず、いつも真実を語り、真実に生きるためには、勇気が必要です。語るべき時に躊躇しないのです。また真実の一部を語りながら他の一部を隠したりするようなずるいこともしません。真実で清い者として常に歩み行くことができるように、聖霊よ、私たちを支え導いてください。
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  • ただ真実を語る (ヨハネによる福音書 8章)
    「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」
    (ヨハネによる福音書8章44節)
    とげが刺されば痛みます。でも、とげを抜けば痛みはすぐに消えますね。体が傷つけば痛みは続くでしょう。でもやがて痛みは消えてしまいます。心の痛みは複雑ですが、時が癒やしてくれる場合もあります。
    しかし、嘘をついたら、そのとげは自分の心に深く入り込んで、いつまでも自分を苦しめることになります。そんなことはない、嘘をついても少しも気にならない、というなら、それは「自分が偽り者だ」と言っているのと同じことです。
    心に刺さったとげは、そのままにしていれば心と魂を傷つけ続けます。それを抜いてくださるのは、ただ主イエス・キリストだけです。主に罪を告白し赦していただいて、これからはただ真実を語る者となろうではありませんか。
    悪魔は「偽り者」であり、本性から偽りを言います。これに対して、主イエス・キリストは、「その口には偽りがなかった」(1ペト2:22)のです。主イエス・キリストと共にあって、聖霊に導かれて生きる時、私たちは真実を語ることができます。なぜならその時、主の真実に生かされているからです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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