リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 偽りのない言葉で生きよう(レビ記 19章)
    わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
    (レビ記19章12節)
    言葉を用いて生きる生活の質が、深く問われる時代です。言葉が劣化し、内容のない言葉が氾濫しています。社会生活のすべての領域において、痛切な嘆きと虚しさが、拡散しています。いつの時代、どんな社会でも言葉への問は確かにあったのですが、今の時代は未体験のものだ、とわたしには思われてなりません。
    神は、偽りの誓いを憎まれる、と御言葉は教えます。神は創造された世界を、ご自身の聖く正しい言葉で満たすことを願っておられます。神の像に造られた人間が、偽りの言葉、空虚な言葉、欺く言葉で生きることを厭われます。
    神の選びを受けた、旧約の民イスラエル、そしてイエス・キリストの教会は、「主の名」をみだりに唱えてはならない、という第三の戒めを、言葉の生活の規範として尊びます。教会は、「わたしは主である」という神の宣言と約束によって生きる民だからです。
    兄弟姉妹そして隣人を、偽りの誓い、虚しい言葉で欺くことは、「主」である方への背信です。まことの主であるキリストが、いのちの言葉として世に来られました。この主への愛に生きるため、わたしに聖い言葉を与えてください。
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  • わたしへの言葉(ルカによる福音書 5章)
    話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
    (ルカによる福音書5章4節)
    一晩中漁をしても何もとれなかったというむなしさの中で、シモンは舟の上からお語りになる主イエスのすぐ隣にいたにもかかわらず、その御言葉が心に届きませんでした。しかしお話が終わり、主イエスが個人的に「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とおっしゃったその御言葉に聞き従った時に、驚くべき大漁を経験したのです。一般的な教訓としてではなく、このわたしに語りかけてくださる御言葉に聴き従う時に、人は「先生」ではなく「主」と出会うことができるのです。
    この大漁を経験したシモンは「わたしから離れてください」と言いました。神に等しい「主」なるお方の御前に出るにふさわしくない自分自身の罪深さを自覚したからでしょう。しかし主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。自分の罪深さを知り、その罪を赦してくださる主イエスと出会い、その御言葉に聞き従う時に、人は人間をとる漁師となることができるのです。自分の力を頼みとせず主の御力に信頼して、わたしに語られた主の言葉に聞き従い、網を降ろします。
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  • 霊と真理をもって礼拝を(ヨハネによる福音書 4章)
    「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
    (ヨハネによる福音書4章23節~24節)
    サマリア人の女性とキリストとの間で会話が交わされます。この女性にはキリストのおっしゃることが呑み込めません。ただ、キリストが自分の私生活のことを言い当てたとき、長年、心に抱いていた疑問が口をついて出ました。それは、礼拝についての疑問です。自分のことを言い当てた預言者ならきっと答えてくれると思ったのでしょう。
    この女性はどんな事情からかは分かりませんが、かつて五人の夫と暮らし、今は新たな男性と同棲生活を送っています。しかし、決して宗教に無頓着だったわけではありません。きっと誰よりも心の虚しさから神を求めていたに違いありません。しかし、先祖伝来の礼拝の持ち方にも心満たされない空虚さを感じていたのでしょう。そこでは、生きた神との出会いを感じることができなかったようです。
    生きた神と出会うのは、場所の問題でしょうか。そうではありません。神の霊に導かれ、信頼に値する真理に根ざした礼拝だけが、生きた神との出会いを実現し、渇いた魂を癒やすことができます。イエス・キリストはそのような礼拝へと私たちを導いてくださいます。
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  • この言葉に留意していてください(ペトロの手紙二 1章)
    こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
    (ペトロの手紙二1章19節)
    キリストの再臨の信仰を批判する異端教師がキリスト教会内に入り込み、教会に混乱と分裂を引き起こしたことがあったので、この手紙が書かれました。
    「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。…何一つ変わらないではないか」と異端者は、教会に揺さぶりをかけます(3章4節)。そこで、ペトロは、教会に対して終わりの時の審判が確かにあり、異端教師に惑わされることなく、使徒の教えに固く立ち終末の希望を保持するようにと教えます。預言の言葉がいっそう確かなものとなっていると教会に告げます。預言とは、人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものです(1章21節)。
    ペトロは、「預言の言葉に留意していてください」と述べます。私たちは、神の言葉が、聖霊の働きにおいて、その通りになっていることを実感して生き、喜びましょう。
    母国語で聖書を読める私たちは、画像を通してではなく、神の言葉を味わって食べて生きています。そして、神の言葉を通して喜び、感謝するのが私たちなのです。
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  • 主の言葉を聞くことにおいて始まる(ローマの信徒への手紙 10章)
    信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
    実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
    (ローマの信徒への手紙10章14節、17節)
    カルヴァンは『キリスト教綱要』で次のように述べています。「わたしは、全く何ひとつの像も許されてはならないと考えるほど、迷信〔的な潔癖感〕にとらわれてはいない。むしろ、彫刻や絵画は神からの贈り物なのであるから、わたしはこれらを純粋に・正当に用いることを要求する」(第1篇、第11章12節)。画像などについて、芸術としては認めると彼は言います。しかし画像(偶像)を拝むべきではないと批判します。
    『ハイデルベルク』は、神を拝むことは、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によると告白します。パウロは、信仰とは聞くことであり、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まると述べます。この言葉によれば、神を礼拝するとは、画像を拝むことではなく、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
    カルヴァンの宗教改革は、「神の言葉に徹底的に聞くこと」がその主旨です。私たちもこのカルヴァンの信仰を覚え、聖書が語っているように、ただ神の言葉に始まって、神の言葉に聴くという姿勢をもって礼拝に臨み、その姿勢を守り続けていきたいものです。
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  • それでも主に依り頼む(列王記下 18章)
    (ヒゼキヤは)聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。…
    彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。
    (列王記下18章4節~5節)
    南ユダ王国の中で、好意的に紹介されている王が、ヒゼキヤ王です。ヒゼキヤ王は、預言者イザヤの感化を受け、異教の粛清を行いました(イザ36~39章参照)。その粛清でヒゼキヤ王は、高台を取り除き、石柱を打ち壊して、アシェラ像を切り倒し、モーセの造ったとされる青銅の蛇を打ち砕いたのでした。ヒゼキヤ王は「偶像」を徹底的に打ち壊しました。
    さまざまなイスラエルの王が存在した中で、聖書は良い王と悪い王を挙げています。その基準は、ただ一つ、偶像礼拝をしたか、しないかです。そして、ヒゼキヤ王は、偶像を徹底的に打ち壊したゆえに、名君として挙げられているのです。さらに、名君として挙げられた理由は、「彼は、イスラエルの神、主に依り頼んだ」からだと言われています。ヒゼキヤ王は、主に依り頼みました。主の戒めを守り、主の言葉を信じて実行することにおいて主に依り頼みました。
    私たちも、異教に囲まれ、偶像の中に生活しながら、それでも主に依り頼む者です。ですから、主の戒めを守り、主の言葉を信じ続け、偶像を避けて生きていきましょう。
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  • 私たちは神の子孫ゆえに(使徒言行録 17章)
    わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
    (使徒言行録17章29節)
    パウロは、アテネのアレオパゴスの真ん中に立って大胆に説教をしました(17章22~31節)。パウロはギリシア人に向かって伝道説教をしたのです。ギリシアの人たちの信仰心が厚いことを認めて、彼らを尊敬するという目線で説教をしていきます。
    彼らの宗教は「多神教」と呼べるものでした。そこでは、ゼウスという神もあれば、まだ名前も付いていない神々もあり、彼らはそういうものを拝んでいました。パウロはそのことを念頭に置いて、真の神、唯一の神を彼らに紹介します。そして、パウロは「わたしたちは神の子孫なのです」と説教します。ギリシアの人たちも含めて「わたしたち」と述べています。そして、自分たちは神の子孫であるから、神を人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはいけないと説教します。そして復活して生きておられる主イエスのことを語り、説教を終えると、多くの人たちはその場を立ち去ってしまいました。パウロの説教を信じなかったのです。
    私たちはこの説教を信じます。生きておられる主イエスに希望を置く私たちは偶像を拝みません。
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  • 自らよく注意しなさい(申命記 4章)
    あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。
    (申命記4章15節~16節)
    十戒の第二戒について、『ハイデルベルク』は、「どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉において命じられた以外の仕方で礼拝してはならない」(問96の答)ということを教えています。
    モーセが十戒を授かったとき、モーセがなかなか山から下りて来ないのを見て、イスラエルの民たちは、アロンと一緒になって金の子牛の像を造り、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えてしまい、神の怒りを招きました(出32章)。
    彼らはどのような理由であれ神を形作ってしまったのです。もしかしたら、このとき、彼らは本当に過ちを犯してしまったということがよく分かっていなかったかもしれません。このことから、「あなたたちは自らよく注意しなさい」と聖書は語ります。
    私たちは日常の生活において、さまざまな偶像に囲まれていますが、神が命じられた以外の仕方で礼拝をしないように、自らのことを注意しなければなりません。
    常日頃から神が私たちに何を望んでおられるか、ということを覚えながら、聖書を読み、偶像礼拝に陥らないように戦いを貫いていきましょう。
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  • 地には平和(ルカによる福音書 2章)
    「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
    (ルカによる福音書2章14節)
    平和の君であるイエスの誕生を告げ知らされたのは羊飼いたちでした。天使は言います。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と。社会から除外された存在であった羊飼いたちにとって、この知らせは、どれほど感動と喜びに満ち溢れるものだったことでしょう。真の救い主の御前にあっては、住民登録の数に入れられず、社会から疎外されている自分たちも居場所を持つ存在、つまり神の民の一員であることが示されたのですから。
    「地には平和、御心に適う人にあれ」とは、神の限りない豊かな恵みによって地上に平和がもたらされることを布告するものです。人間の罪を贖い、救いと平和の福音をもたらすために主イエスは神の身分でありながら、人としてこの世にお生まれになりました。この方こそ唯一の慰め主であり、希望と平和の源です。
    戦争やあらゆる暴力のないという意味での世界平和と聖書が語る神の平和とは同一ではありませんが、神との平和は世界の平和に関わっています。神の御心である平和が地にもなるよう祈りつつ、主イエスの平和を生きる者でありましょう。
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  • おのが腹を神とする(フィリピの信徒への手紙 3章)
    何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
    (フィリピの信徒への手紙3章18節~19節)
    偶像礼拝というと、私たちは、ただちに太陽を拝むことや、お金やこの世のものを神のようにして仕えることを思ってしまいます。もちろんそれらも神以外のものを神のごとくみなす点で、確かに偶像崇拝であることには違いありません。しかし、この『ハイデルベルク』問95の答は、神ご自身が御言葉を通してお語りになった以外の仕方で、つまり自分で勝手に考え出したり、造り出したりすることによって、それらを神とみなすことも含められます。
    なぜこの第一戒で、偶像崇拝が禁じられているのかというと、それによって神ご自身の栄光を損ねたり歪めたりすることとなり、結局は自分自身が神のごときものとなってしまうからです。それが「おのが腹を神とな」す(文語訳)ことに他なりません。
    私たちは、本来神に仕え、神の栄光を現すべき者であるのに、反対に神を自分に仕えさせたり、自分の都合のために利用する便利な道具としてしまったりしています。苦しい時の神頼み的なご利益信仰、わたしは無宗教です、との言い訳も実は、同様なのです。神を中心として生きたく願います。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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