リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

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リジョイス聖書日課 episodes

  • 自分の十字架を担って(マタイによる福音書 10章)
    「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
    (マタイによる福音書10章38節~39節)
    わたしは、かつて三浦綾子原作『塩狩峠』の映画を観、大きな衝撃を受けました。人が友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない、ということが主題でした。長野政雄というキリスト者が暴走する列車の下敷きとなり乗客の命を救った実話に基づいた作品です。後に小説も読み、より大きな感銘を受けました。それはまだ求道中であったわたしに受洗を決意させる契機となりました。
    あれから40年が経とうとしています。この御言葉の前に立つと、自分というものがどれほど捨てられないのか、また神の栄光を求めるよりも自分の楽しみや思いを優先しているのかを突きつけられます。長崎西坂の26聖人の中で、最年少のルドビコ茨木(12歳)が棄教を懇願する両親に対して「この世の命とあの世の命とを取り替えられませぬ」と証言し賛美しながら天に召された逸話は、いつもわたしに問いかけるものです。
    この二つのことをとおして、上記の御言葉をずっと考えさせられています。そのままに求められるなら、わたしは確実に失格でしょう。憐れみ深い救い主イエス・キリストに委ねていくほかありません。
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  • 悔い改めの実(ヨハネによる福音書 17章)
    永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
    (ヨハネによる福音書17章3節)
    「十戒」は、主に従っていく者の確かな道しるべです。
    神の御心を知り、それを大切にして生きることは言うまでもありません。けれどもそこに大きな落とし穴があります。それは、私たちは救われたといえども、なお罪人であるという事実です。この事実を忘れて、もう自分は清い者・正しい者・立派な者だと思うなら悪魔のわなに見事に捉えられてしまいます。晩年のダビデやソロモン、また使徒ペトロも一時そうでした。
    かつてわたしが教会に行き始めた頃、クリスチャンの人生は、罪の償いの生涯ではないかと受け止めたことがあります。菊池寛の作品『恩讐の彼方』に強く影響されたのかもしれません。誤って人を殺めた主人公が僧侶となって全国を行脚し、遂に難所の青の洞門を槌で掘り抜いた逸話です。そんな、わたしの信仰を心配した牧師夫人が何度も話し合いの時を持ち、長く丁寧な手紙まで書き送ってくださいました。悔い改めと償いとは全く違うことを学びました。
    罪の償いは、主が十字架で既に成し遂げてくださいました。私たちは、主の救いを感謝して受け止めればよいのです。
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  • 必要なことはただ一つ(ルカによる福音書 10章)
    主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
    (ルカによる福音書10章41節~42節)
    主イエスと弟子たちは、ベタニア村のマルタとマリアの家を訪ねられました。
    そのときマリアは主の足元に座って、主が語られる話に耳を傾けました。他方マルタは、突然の訪問で、足の汚れを洗う水を汲んだり、食事の用意を整えたりと大忙しでした。それで彼女は、家事を手伝わない妹に腹を立ててしまったのです。そのマルタに対して、主は優しく諭すようにして「必要なことはただ一つだけ」だとおっしゃいました。その一つのことは、主を礼拝することです。
    ここではマルタがもてなしたこと自体を非難されたのではありません。しかしそれらが、礼拝することに優先してしまったことに問題がありました。主を礼拝することを横に置いて、他のことにどんなに熱心に取り組んだとしても、それは主の前に意味を失ってしまうことになります。
    私たちの人生は、主の日の礼拝の時だけではなく、私たちの人生全体が神を礼拝して生きることに貫かれていることが大事です。あなたは、一体何に心を傾けているでしょうか。そのことを問い返しつつ、きょうの日も主に仕えて歩みませんか。
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  • 新しい掟(ルカによる福音書 10章)
    彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
    (ルカによる福音書10章27節)
    この十戒を使徒ヨハネは、一方で「古い掟」と言い、他方で「新しい掟」と呼んでいます(1ヨハ2章7節)。同じ内容なのに、どうして二通りの仕方で語っているのでしょうか。
    確かに十戒は、イスラエルの民がエジプトから脱出した後、シナイ山でモーセを通して与えられたものです。しかし今や、それは新しい掟としてイエス・キリストによって救われた私たちに与えられました。古い掟では、私たちの罪を明らかにし、キリストの救いへと導く養育係としての役目を持っていました。しかし今、私たちはキリストの救いにあずかり、神の子どもとされた救いへの感謝の応答として、この掟を受け取ることがゆるされています。使徒パウロは、そのことを「キリストの律法」と言い換えています(ガラ6章2節)。
    昨年、私たちの教会では年間標語として「神を畏れて、互いに仕え合おう」を掲げました。まさにこれは、教会とはいかなるところなのかを的確に示していると思います。主を、畏れをもって礼拝し、愛する兄弟姉妹に仕えて生きる幸いと喜びがきょうも皆さまに豊かにありますように。
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  • 神を喜ぶ(申命記 5章)
    「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
    (申命記5章6節)
    『ハイデルベルク』では、第一戒に序文も含められています。この序文に、主なる神が、十戒をイスラエルの民にお命じになった理由が示されています。
    私たちは、ともすると福音(救い)と律法とを対立するものと受け止めがちです。例えば、福音書の中で律法学者やファリサイ派の人が登場してきて、主イエスや弟子たちの言動を非難する場面があります。すると私たちは、彼らを悪役として目の敵にしたりします。もちろん主イエスがしておられる事が正しいのですが、彼らの行動にも訳があります。神が律法をお与えになったのは、イスラエルの民を神を畏れない異邦人から区別するためでした。そのため何が善いことで、何が聖く、何が汚れているのかを信仰教育しようとされたのです。彼らは、それをできる限り守ろうとしました。
    私たちは、救われたとは言え、罪を犯す者であり、さまざまな欠けや救いの知識についても不十分さがあります。そのための基準として今日も十戒の果たす役割は大きく、それがないと自分の考えやこの世の考えが基準となってしまいます。
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  • 和解の福音(エフェソの信徒への手紙 2章)
    実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
    (エフェソの信徒への手紙2章14節~16節)
    ユダヤ人と異邦人との間に「敵意という隔ての壁」がありました。それは異邦人が神の戒めである律法を知らず、割礼の儀式などを実行しなかったからです。それゆえに、ユダヤ人は異邦人を軽蔑していました。
    しかしながら、主イエスは十字架を通して敵対する者同士を神のもとに一つに和解させ、敵意を滅ぼし、平和の福音を告げ知らせました。キリストの十字架によって「敵意」が取り除かれたのです。私たちもまた自分とは異なる他者に対して敵対心や敵意を時に抱いてしまうものです。人間の罪深さがそこによく表れていることを認めないわけにはいきません。
    聖書が意味する平和とは非常に幅の広い、また含蓄に富むものですが、敵対し、対立しあう者同士の間の「敵意という隔ての壁」が取り除かれること、これが平和という言葉の意味の一つです。私たちが抱くべきは他者に対して寄り添う思い、他者を受容し共感する姿勢、そして隣人愛の実践でありましょう。敵意の壁を壊し、真の平和を実現させるものこそ主イエス・キリストの十字架において示された神の愛なのですから。
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  • 神の栄光のために(コリントの信徒への手紙一 10章)
    だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
    (コリントの信徒への手紙一10章31節)
    神の御心に適う善い行いは、神の恵みに応答したいと願うことから始まります。神が喜んでくださることを願ってすることは、「神の栄光を現す」ことになります。「神の栄光を現す」ことは、飲食だけでなく、キリスト者の全生活においてなされることです。
    しかし、これがキリスト者の単なる自己満足や言い訳であってはいけません。何でもない小さな行いが神を思ってなされることもあるでしょう。反対に、善い行いと見えることが、実は自分勝手な動機から生じているかも知れません。
    物事を行う動機が、神の喜ばれる信仰的な善い行いかの本質を決定します。「ただ神にのみ栄光あれ」という言葉が動機を見極める鍵であるので、キリスト信仰の一大原理となりました。
    「神の栄光」とは、神のすばらしさが輝くことを表します。神が本当に神らしくあられることでもあるでしょう。神が神らしくあられるように、と願うことは、神中心の信仰そのものです。
    神を讃えて感謝することは、神に栄光を帰すことですから、その最たる場所は礼拝にあると言えます。新たな思いで明日の礼拝に備えましょう。
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  • 神の律法に従い(サムエル記上 15章)
    サムエルは言った。
    「主が喜ばれるのは
    焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。
    むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。
    見よ、聞き従うことはいけにえにまさり
    耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」
    (サムエル記上15章22節)
    預言者サムエルは、時の王の信仰の姿勢を峻厳な言葉で正しました。イスラエルの神礼拝では、神の聖さを尊び罪の清めを求め、神と交わることを喜び感謝して、動物犠牲や穀物の供え物が献げられました。しかし、王は本来あるべき献げ物の意味を軽んじて形だけのものとしたのです。ですから、サムエルは、神の教えに従う目的は、心から神に従順になることであると、まっすぐに説きました。
    神に従順になるために求められることは、人の思いや考えを優先することなく、神の思いや御心を第一とする、ということを知ることです。
    それは神中心の信仰です。しかも、神は徹底して神を第一とすることを求められます。そこでは一切の妥協、あるいは言い訳をゆるさず、ごまかしのない、従順な魂を望まれます。この点について、時代や場所が異なっても一貫して、旧約の預言者たちが不信仰の時代を嘆いて、ただ神に聞け、と大胆に民に悔い改めを迫りました。そして、この神への徹底した従順は、新約にも受け継がれるキリスト信仰の要点です。
    神の喜ばれる信仰をいつも自問したいと祈ります。
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  • まことの信仰(ヘブライ人への手紙 11章)
    信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
    (ヘブライ人への手紙11章6節)
    神の像(かたち)に造られた人間の本来的使命は、神に喜ばれることです。信仰者に対するヘブライ的な称賛の言葉は、「神と共に歩む人」(例えば創5章24節)です。神に喜ばれる人の言い換えでしょう。
    神に喜ばれるには、まずその神を信じる信仰がなければなりません。神が生きて存在しておられると信じるから、その神に近づこうとするのです。物理的な距離の問題ではなく、私たちの心や魂が、罪によって神から離れている状態から、神と共にありたいと欲することが「近づく」ことです。私たちが神に近づきたいと欲することは神も望んでくださることです。側に居ると、祈りも耳に届きやすいでしょう。
    祈りは一方通行ではなくて神は聞いて答えてくださると信じることが、信仰です。
    実際、神は「ご自分を求める者たち」を顧みて「報いてくださる方」です。ヘブライ人への手紙11章6節の「求める」という原文ギリシア語は、「まじめに、熱心に求める」という意味の言葉です。英語の聖書は、たいていその意味が反映されています。
    神は、真摯で誠実な信仰を喜ばれる方なのです。
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  • 罪赦される救いの喜び(詩編 51編)
    喜び祝う声を聞かせてください
    あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
    (詩編51編10節)
    詩編51編の詩人は、罪の汚れを深く自覚し、神の御前に罪の罰を受けた自分自身を「砕かれた骨」と言い表します。しかし、悔い改めた自分が、救いの喜びの声をあげたいと願います。
    「喜び祝う」という言葉は、ヘブライ語原文では二つの異なる「喜び」という言葉を重ねています。日本語に直訳すると「わたしに聞かせてください、大きな喜びと、信仰の喜びを」となります。つまり、罪赦され神との交わりが回復されるなら、自分は救われたゆえの大きな喜びと信仰の喜びを、喜ぶにちがいないと言うのです。この短い節には三つ目の「喜び」(動詞「喜ぶ」)があります。この「喜ぶ」を新共同訳聖書は「喜び躍る」と巧く訳しました。なぜなら、この「喜ぶ」というヘブライ語には「積み上げる」や「浮かれて興奮する」という意味が含まれるからです。すなわち、「砕かれた骨」は、一つひとつ積み上げられ再構築されて、躍るほどの「喜び」に満たされるということでしょう。罪を赦し救ってくださった神に対する感謝の喜びです。
    救いの恵みに、いつも、いつまでも喜び感謝したいと願います。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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