リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 平和を実現する人々(マタイによる福音書 5章)
    平和を実現する人々は、幸いである、
    その人たちは神の子と呼ばれる。
    (マタイによる福音書5章9節)
    私たちが主イエス・キリストを模範として歩むとき、それは「平和を実現する人々」としての歩みとなるでしょう。主ご自身がその生涯を通して教え、そして贖いの死を通して私たちを神と和解させてくださり、人間同士の平和の模範を示してくださったからです。主イエスによる贖いの業を通して、私たちには神との平和という関係性をもう一度回復することが許されているのです。主イエスが平和の君と言われる理由です。
    困難や絶望や不正義、そして差別や怒りや憎しみが渦巻く状況が現代世界を特徴づけるものであったとしても、主にある希望を語り続けることが重要です。主イエスが死より三日目に復活されたように、平和の芽が萌え出る希望の時を確信しつつ、平和の種を撒き続けましょう。そのためには過去を直視し、学び続けることが大切です。日本のキリスト教会には「聖戦目的完遂」を掲げ、戦争に積極的に協力した歴史があります。キリスト教会の戦争責任の問題も含めて過去の戦争の記憶を継承しつつ、キリスト者としての平和責任を共に果たし、「平和を実現する人々」となろうではありませんか。
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  • 一つの群れとなるために(コリントの信徒への手紙二 2章)
    むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。…そうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
    (コリントの信徒への手紙二2章7節~11節)
    戒規の後、本人の悔い改めが示されたとき、神の家族はどうあるべきでしょうか。
    罪の裁きのために用いられた教会会議は、悔い改めた人に対しては、「キリストの前で」(2章10節)、真に赦し、受け入れます。
    「キリストによって赦されない罪はなく、癒されない傷もない」(70周年記念宣言)のです。悔い改めが確かなら、今度は、本人が立ち上がるための最善の配慮が教会には求められます。パウロは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけ、愛を確認するようにと勧めます。
    教会は罪の赦しの恵みを共に喜び分かち合う神の家族です。このような時こそ、自分も罪赦された者であることを自覚し、赦しの共同体に生きる者として、心から兄弟を受け入れなければなりません。
    人を責め、裁くことが得意な私たちです。赦すことが難しい私たちです。キリスト者同士を互いに敵対させ、教会を分裂させようとするのがサタンのやり口です。教会はこれに乗ってはなりません。
    赦し合い、愛し合う一つの群れとなれるよう、聖霊の助けをいただけますように。
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  • 最も厳しい戒規(コリントの信徒への手紙一 5章)
    外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
    (コリントの信徒への手紙一5章13節)
    「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」とあるように、教会は、除名という最も重い戒規を執行しなければならない場合があります。「悪い者」とは、罪の赦しの道を知りながら、大きな罪を悔い改めようとしない者のことです。
    除名された人と、その後、どのように関わったらよいのでしょうか。神と教会に立ち帰るよう本人のために祈ることは正しいことです。しかし、御言葉に従わない人に、倣ってはならない、と御言葉は教えます(2テサ3章6、14節)。それは、彼の不潔や汚れを容認したり、悪に引き込まれたりすることのないためです。教会会議の決定をなし崩しにしてしまわないためです。教会はその聖さを保つために、古いパン種を取り除かねばなりません。
    それはまた、その人自身のためでもあります。たとえその人の肉が滅ぼされたとしても、真実の悔い改めに導かれ、主の日に彼の霊が救われるためです(1コリ5章5節)。
    除名という最も厳しい戒規でさえ、兄弟を罪から救い出し、再び聖徒の交わりに回復するための手立て、霊的訓練なのです。
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  • 神の聖さと憐れみのゆえに(マタイによる福音書 18章)
    「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。…二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
    (マタイによる福音書18章18節~20節)
    教会にとって一番大切なこと、それは教会の純潔と平和を増進させることです。教会は、主キリストのご性質と御業、ご意思を反映する主の御体だからです。
    しかし、教会は罪赦された罪人の集まりでもあります。私たちは日毎に罪を犯すだけでなく、戒規に該当する罪を犯してしまうこともあります。神の言葉に反する行いと生活によって、神の御心を深く悲しませ、隣人を傷つけ躓かせてしまうことも起こります。
    こうした場合、教会は罪の種類と大きさを慎重に判断し、鍵の務めの二つ目である戒規を執行します。戒規には、訓戒、陪餐停止、職務執行停止、免職、除名があります。
    兄弟の違反を扱うその会議の中心に、兄弟を贖われた主キリストが「わたしもその中にいる」とおっしゃいます。わたしの正義と聖さを貫き、憐れみと慈しみの愛を示せと主は語られます。
    戒規は罪を犯した兄弟を神の家族から締め出すためのものではありません。罪を犯したにもかかわらず愛をもって罰せられない子どもほど惨めで哀れなものはありません。戒規は、神の聖さと憐れみによる霊的訓練なのです。
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  • ただ聖霊によって(ヨハネによる福音書 20章)
    彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
    (ヨハネによる福音書20章22節~23節)
    「あなたがたが赦せば、その罪は赦され…赦さなければ、赦されないまま残る」。これは、私たちの力で罪を勝手に赦すとか、赦さないということではありません。赦されるとするならば神によってのみ赦され、赦されないとするならば、神によって罪はそのまま留まるということです。神だけが罪を赦す権威を持っておられるからです(マコ2章7、10節)。
    ここで注意したいのは、主が弟子たちに罪の赦しの権限をお与えになったのは、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われた後だということです。主イエスの罪の赦しの権限を委ねられた教会は、聖霊によって神のみ旨に適う形で罪の赦しと裁きを宣言します。
    聖霊が宿ってくださるキリスト者も同じ務めに与ります。私たちの証しと働きを通して、信じて赦される者と、信じないがゆえに赦されない者とが、より分けられます。
    主イエスは、今も「平和があるように」と赦しをもたらすために、私たちを世に遣わされます。神との平和を与えてくださる聖霊の御業に、畏れと喜びをもって仕えましょう。
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  • 天国の扉を開く福音の説教(ヨハネによる福音書 3章)
    「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。…御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
    (ヨハネによる福音書3章34節~36節)
    天国の扉を開ける鍵の務めの一つは福音の説教です。なぜ福音の説教が天国の扉を開ける鍵となるのでしょう。
    福音の説教においてキリストにある罪の赦しが宣言され、神の存在とご性質、御業とご意思が確かに示されるからです。神ご自身が福音の説教を神の言葉として用いてくださるからです。
    ですから、これを取り次ぐ福音の説教者の働きは重要です。そして、説教者を通して語られる神の言葉を聴く者には、御子を信じる(従う)か、信じない(従わない)かのどちらを選ぶのかという決断が求められます。罪の赦しの約束を信じる者には天国の扉が開かれますが、信じない者には扉は閉ざされたままです。福音の言葉は、神の言葉を信じない者には神の怒りと刑罰をもたらす裁きの言葉となるのです。「神の怒りがその上にとどまる」からです。
    神は、キリストにあって「神と和解させていただきなさい」(2コリ5章20節)、「命を選び…なさい」(申30章19、20節)と招いておられます。従うか従わないかをあやふやにした生き方を捨て、この招きに応えて、福音の説教に生かされて歩もうではありませんか。
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  • 天国を開く鍵(マタイによる福音書 16章)
    「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
    (マタイによる福音書16章19節)
    『ハイデルベルク』問83はその答で、鍵の務めとは「福音の説教とキリスト教的戒規」であり、これらによって、「天国は信仰者たちには開かれ、不信仰な者たちには閉ざされる」と教えています。「つなぐ」とは、縛る・禁止する、「解く」とは、開放する・許可するという意味です。天国への入国を禁止したり許可したりする権限(鍵の務め)を、主は「わたしの教会」(18節)に授けられたのです。
    神に背いた私たちは、天国に入る資格を失いました。それゆえ天国に入るには罪の赦しが必要です。天国の扉を開く鍵、罪の赦しの権限を主はご自分の教会に与えられました。キリストの教会が罪の赦しを宣言するならば、それは天においても有効なのです。
    地上の教会で福音を信じ洗礼を受け、罪を赦された人は、天上でも裁かれることはありません。たとえからみつく罪にひと時倒されたり、救いの確信が揺らぐことがあったりしても、主の約束は確かです。
    「あなたの罪はゆるされた」と語ってくださる主は、この確かな約束を目に見える教会を通して与えてくださっています。地上の教会に加えられることは、天国に加えられることなのです。
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  • 神の命を継いでいく営み(使徒言行録 2章)
    「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
    (使徒言行録2章39節)
    この箇所は、幼児洗礼式で用いられる御言葉です。その親の信仰ゆえに、その子はまだ信仰を言い表すまでに至らなくても契約の子です。幼児洗礼は、神がアブラハムに約束された(創17章)契約信仰の実現の形です。同時に、「神の国はこのような者たちのものである」(マコ10章14節)と祝福して言われた、主イエスによる新しい恵みの契約の表れでもあります。
    この時の聴衆は、説教(御言葉と聖霊)に「心を大いに打たれた」人たち(使2章37節)でした。神の扱いを受けて回心した人たち、聖霊の支配の下にある人たちでした。ペトロは、彼らに、この恵みは自分たちだけのものでないことを諭します。
    この箇所でひときわ目を引くのは、「この約束は…だれにでも、与えられている」とある一文です。「神である主が招いてくださる者ならだれにでも」、「あなたがたの子供にも」、「遠くにいるすべての人にも」です。
    契約の子もまた、聖霊の支配の下に置かれています。ですから、たとえ幼い子であっても、神の命を継ぐ者とされ、命を受け継ぐ営みを既に始めています。
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  • ふさわしさ(コリントの信徒への手紙一 11章)
    従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
    (コリントの信徒への手紙一11章27節)
    カトリック教会はパンをキリストの体そのものと捉えるため、パンに宿るキリストの正しさと人間の罪との間に落差が生じます。それが聖餐の場面での裁きへの恐ろしさとなります。もちろん、聖餐に与る際の人間の状態が軽んじられてしまってはなりません。
    しかしカルヴァンは、「ふさわしさ」ということの議論を、全く神中心的に展開します。カルヴァンによれば、「ふさわしさ」の追求は人間には不可能なことでした。また、神は信仰の弱い者を強めるために聖餐を定めてくださったので、自らの弱さを理由に聖餐を拒否するとしたら、神への侮辱になると考えました。
    難しい問題ですが、自分が正しくなったら聖餐に与ることができ、強くなれば「ふさわしく」なれるということではありません。弱さと病を抱えた私たちは、自己の力ではいかんともし難い罪人であることを認め、そこからの救いを求め願います。その時の悔い改めこそが、神の救いに値する「ふさわしさ」となるのです。
    神が、今を生きる私たちそれぞれの必要に全く適った救いと赦しを与えてくださいますように。
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  • 招かれざる者はいない(コリントの信徒への手紙一 11章)
    わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。…」と言われました。
    (コリントの信徒への手紙一11章23節~24節)
    『ハイデルベルク』問81は「どのような人が、主の食卓に来るべきですか」と問うています。実際に主イエスの聖餐の食卓に与ったのは、どのような人びとだったのでしょうか。それは「引き渡される夜」に起こりました。つまり主イエスは、もうすぐこの後に弟子に裏切られ、敵に引き渡されることを知りながら、その弟子たちを招いて、主の晩餐を催してくださったのです。主イエスの周りにいたのは、主イエスを金で売ってしまうユダであり、次の朝には三度も主イエスのことを知らないと言い切って、裏切ってしまうペトロたちでした。しかし主イエスは彼らの裏切りに先駆けて、彼らが赦される道を、主の晩餐とそれが示す十字架とによって開いてくださったのです。
    主イエスは「わたしの記念としてこのように行いなさい」とも言われました。主の晩餐は、今を生きるこの私たちに対してこそ差し向けられている、継続的に効力を発揮する記念の行為です。なぜなら十字架で流された主イエスの血と裂かれた肉は、正しい者のためのものではなく、この私たちのような罪人をこそ、救い、赦すためのものだからです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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