リジョイス聖書日課

リジョイス聖書日課

By RCJメディアミニストリーReligion & SpiritualityChristianity
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リジョイス聖書日課 episodes

  • 礼典の性格としての契約(創世記 17章)
    「わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」
    (創世記17章10節~11節)
    『ハイデルベルク』問78の答に、聖なるパンは「キリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれ」とあります。
    割礼は、生後8日目の男子の生殖器官に付けられる切り傷のことです。他民族の割礼の目的は種族の存続です。神の民の割礼は、神がアブラハムとその子孫を祝福してくださるという永遠の契約のしるし、つまり、子孫に対して神の契約が結ばれているという見えるしるしです。肉の割礼には、祝福への感謝、契約への信頼、神の民としての献身という、心の割礼が伴います。これが「旧約の礼典の性格」でした。
    神の御子イエスは、アブラハムの子孫として肉に割礼を帯び、真の人として心の割礼にふさわしい従順を全うされました。罪なきキリストは、ひたすら罪ある人間のために受難と復活を遂げ、主の名にふさわしい天の王座に挙げられるとき、弟子たちに洗礼をお命じになりました。「洗礼の水」は「キリストの血」と目され、「罪の洗い清め」という見えない神の約束の見えるしるしとなりました。水の洗礼には、心の洗礼すなわち信仰告白が伴います。これが「新約の礼典の性格」です。
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  • 幾千代にも及ぶ慈しみ(出エジプト記 20章)
    「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
    (出エジプト記20章2節)
    聖書が教える「契約」は、神が結んでくださるからこそ成立します。ここに聖書の「契約」における、神の恩恵性と主権性を見て取れます。永遠なる方が一度口にされた言葉は必ず成ります。ですから、契約は成立しますが、私たちの側に成立の根拠はありません。
    十戒の冒頭で、神は「あなたの神」だと言われます。また、「わたしは主」、これまでのあなたの人生を導いてきた、と言われます。この「わたしは主、あなたの神」との二度繰り返しは、強調です。私たちは、この神の恵みと選びのもとに生かされていますことを、感謝せざるを得ません。その上で、この律法を、愛をもって守るよう言われるのです(20章6節)。
    一人の小さく欠けある者が、神の愛を受け、神の恵みと選びを知り、感謝と喜びの中で、律法を守る生活へと向かいます。その時に、神は幾千代にも及ぶ慈しみをお与えくださいます。このことを神が約束してくださいました。自分のことだけでなく、これからの子々孫々のことまでも約束してくださいました。そしてこのことは神のゆえに必ず果たされます。これほど喜ばしいことがありましょうか。
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  • 主イエスが定められた聖餐式(コロサイの信徒への手紙 11章)
    主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
    (コロサイの信徒への手紙11章23節~24節)
    聖礼典とは、イエス・キリストの十字架の犠牲のゆえに、神が恵みによって、罪の赦しと永遠の命を与えてくださるという「福音の約束」を、よりよく「理解させ、封印」するものです(『ハイデルベルク』問66の答)。聖礼典は、神が制定されたものです。それゆえ、聖書の中に、制定の言葉を見出すことができるものでなければなりません。教会が聖礼典を制定する権威を持つのではありません。聖礼典を定め、その執行によって、確かに神の民に恵みを与えられる権利と権威は、ただ神のみが所有しておられるのです。
    マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、いずれも最後の晩餐の場面を描いています。
    パウロはコリントの信徒への手紙一の11章23節以下で、聖餐式を行うようにという命令を、主イエスご自身から受けたことを明言しています。主イエスは、パンとブドウ酒を配られる際、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と命じられました。それゆえ私たちは、主イエスの命令に従って聖餐式を行います。そして私たちは「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。
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  • 上にあるものを求めなさい(コロサイの信徒への手紙 3章)
    さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
    (コロサイの信徒への手紙3章1節)
    死者の中から復活されたイエス・キリストは、天に上げられました(使1章9節)。イエス・キリストは今、父なる神の右の座に着いておられます。では、主イエスが「天におられ、わたしたちは地にいるにもかかわらず」、私たちはいかにして主の「御体といよいよ一つにされてゆく」ことができるのでしょうか。
    天と地の隔たりを結びつけることができるのは、ただ聖霊の働きによります。十字架と復活による福音の恵みを、天上のキリストから地上の私たちに運ぶのは、聖霊の御業です。
    キリストは聖霊において、私たちの内に住まわれます。そして、アダムが自分の骨から造られたエバを見て「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創2章23節)と呼んだように、私たちは主の「骨の骨、肉の肉」となるよう、キリストの体に結びあわされているのです(『ハイデルベルク』問76の答)。
    教会はキリストの体です。そして私たちはその部分です。私たちはキリストの復活の命を共有し、「一つの御霊によって永遠に生かされ」ています。それゆえ、私たちは地上に生きつつも、いつも「上にあるものを求め」て歩みます。
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  • いよいよ一つにされていく(ヨハネによる福音書 6章)
    わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
    (ヨハネによる福音書6章55節~56節)
    私たちは毎日食事を摂ります。食べた物は、自分の体の中に取り入れられていきます。食べ物が自分自身のものとなっていくのです。イエス・キリストは、ご自身の肉と血をまことの食べ物・飲み物と言われました。それゆえそれを食べ、飲む者は、主イエスと一つにされていくのです。
    『ハイデルベルク』問76の答は、聖餐の祝福について「聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく」ことだと記しています。キリスト者は、聖霊によってイエス・キリストと結びつき、罪を赦されて義とされ、神の子とされます。その意味で、キリスト者はすでにイエス・キリストと一つにされていると言えます。しかし、ここでの強調点は「いよいよ一つにされてゆく」点にあります。これは聖霊の働きによる成長を言っています。
    父なる神は、私たちの罪を赦して義とし、神の子としてくださいました。神は父として、子を養い育ててくださいます。父なる神が、神の子たちにふるまってくださる食事が主の晩餐です。聖餐にあずかることよって、私たちはイエス・キリストと「いよいよ一つにされてゆく」のです。
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  • 信仰の心をもって聖餐にあずかる(ヨハネによる福音書 6章)
    「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
    (ヨハネによる福音書6:51)
    イエス・キリストは「天から降って来た生きたパン」であり、それを食べた人は「永遠に生きる」ことができます。イエス・キリストは真の命を与える方です。その命を保証するために、主によって定められたのが聖餐式です。
    では私たちは、どのように聖餐にあずかったらよいのでしょうか。『ハイデルベルク』問76の答は「信仰の心をもって」受け入れる必要があると教えています。聖餐式で用いられるパンとブドウ酒は、あくまでもパンとブドウ酒です。その実体は変わりません。それゆえ、信仰なしにこれにあずかってもそれは無益です。主イエスの十字架の死を自らの贖いとして受け入れる信仰がなければなりません。
    ただし、あずかる人の信仰の力によって、聖餐が有効になるのではありません。聖餐が現実に恵み深いものとなるのは聖霊の働きによります。信仰の心をもって聖餐にあずかるとき、聖霊が現実に働いて、私たちが「罪の赦しと永遠の命」にあずかっていることを確証してくださるのです。まさに主イエスが言われた「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」ことが現実となるのです。
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  • 確実な恵みにあずかる(マタイによる福音書 14章)
    「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
    (マタイによる福音書14章22節~24節)
    イエス・キリストは、十字架につけられる前の夜に聖餐式を制定されました。聖礼典は「目に見える聖なるしるし」であって、「神は、その執行を通して、福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、封印」なさいます(『ハイデルベルク』問66の答)。すなわち、パンとブドウ酒という物質を用いて執行されるという感覚的な確実性において、それにあずかる者に確実な霊的祝福を与えるものです。
    聖餐式において私たちは、十字架につけられたキリストの体と流された血を指し示すパンとブドウ酒をいただきます。司式者の手から受け、実際に食べ飲むのです。それを私たちは感覚的に感じ取ることができます。口から入り、食道を下ってお腹に入っていく。その感覚的しるしの確実さが、霊的祝福の確実さになるのです。聖霊の働きによって、それが現実になります。
    主イエスは、福音の約束を保証するために、聖餐式を制定してくださいました。「確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる」(『ハイデルベルク』問75の答)ためです。それゆえ私たちは、聖餐式にあずかることを本当に大切にする必要があるのです。
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  • わたしのための主の十字架(マタイによる福音書 26章)
    「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
    (マタイによる福音書26章26節~28節)
    最後の晩餐において、イエス・キリストは、パンを裂き、それを弟子たちに与え、更にブドウ酒の杯を取って、弟子たちに与えられました。主イエスの制定によって、私たちは今日も聖餐式を守っています。
    パンとブドウ酒は、地上的なものです。これに対して、キリストの十字架による罪の赦しと永遠の命は、霊的なことです。両者は別々のものです。しかし、神の約束の言葉と聖霊の働きによって、両者は関連づけられるのです。
    聖餐式において、確実に霊的祝福にあずかることができることを、私たちはどのようにして知るのでしょうか。『ハイデルベルク』問75の答は、「わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である」と述べています。すなわち、パンとブドウ酒を私たちが「見る」のが確実であるように、キリストの体が「わたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された」ことは確実なのです。
    それゆえに、主イエスは聖餐式ごとに「取って食べなさい」「皆、この杯から飲みなさい」と私たちを大いなる祝福へと招いておられます。
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  • 同じ御言葉によって養われる(創世記 22章)
    「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。…地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
    (創世記22章17節~18節)
    この「あなたを祝福し、あなたを増やす。諸国民の父とする」という内容のことは、神が既にアブラハムに何度か約束しておられたことです(17章他)。アブラハムはこの神の言葉に聞き従ったのです。それゆえに彼は全き者・完全な者と言われました。このように信じ従う者を神は義とし、さらに豊かに祝福してくださいます。
    契約の民は、いついかなる時にも御言葉に聞く民です。私たちも苦難に出会う時がありますが、だからこそ神は、常に従ったアブラハムに、祝福と子々孫々の繁栄を約束されたのだと思うのです。
    やがてこの御言葉は、子孫であるイサクとヤコブにも約束されます(26章4節、28章13、14節)。神はこのようにして、父祖に約束された御言葉を、世代を超えた私たちにも語りかけることで、従順を求めておられます。
    時代は違うけれども同じ御言葉によって養われる。これこそ神の子としての祝福であり、永遠の契約に入れられている者のみが味わうことのできる特権の一つです。私たちは、この特権をこの時代にあって味わっているのです。
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  • 神は家族をも恵みの中に(使徒言行録 16章)
    二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」…看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
    (使徒言行録16章31節~33節)
    クリスチャンの中でも信仰とは個人的なもの、その恵みも信じるその人に限られたものと考えがちです。しかし、神は旧約の時代においてはもちろん、新約の時代においてもイエス・キリストを信じるその人だけではなく、その家族をも視野に入れて、「聖なる者」としてご自身のものとして祝福してくださる神です(1コリ7章14節)。特に、家族の中で自分ひとりだけがクリスチャンという方はそのことを知る必要があります。イエス・キリストにおいてご自身を示された神の恵みはそれほど大きいのです。
    神は、イエス・キリストを信じる私たちと私たちの子どもの神ともなってくださると約束されました。ですから、教会はその神に心から感謝して信者の子どもたちにも洗礼を授けます。また、信者は教会に自分の子どもに「幼児洗礼」を授けることを願い出る権利を持っています。そして、教会は、神の契約を信じ、子どもをどのように養い、育てるべきかを親に勧告し、親と共に育てる責任を担います。
    主イエスを信じるとは、家族の救いをも信じることで、教会と一緒にそのために祈り続けることです。
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リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

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